大薩摩とは、正確には大薩摩節といい、
薩摩外記の弟子文五郎が語る浄瑠璃のことをいう。
外記は京から江戸に下り、豪快な語りの硬派浄瑠璃、薩摩浄雲に入門した
(ちなみに一中や、豊後節などの浄瑠璃は軟派浄瑠璃という)。
浄雲没後(1672年)は、薩摩外記藤原直政と名乗り、
初代団十郎の荒事の地(伴奏)にも出演するようになった
(本業は自身の座を持つ人形浄瑠璃の太夫)。
松島庄五郎が芝居にデビューした頃(1710年代)、
文五郎は声量の落ちた(あるいは没した)、師匠の代役で
団十郎(2代目)の舞台に出る事が多くなった。
団十郎の人気上昇とともに、歌舞伎出演が増えた文五郎は、
大薩摩主膳太夫と改め、団十郎の専属となっていった。
二人の仲も次第に親密の度合いを増し、
「矢の根」(1729年正月)では、団十郎が茶目っ気を出し、
主膳太夫を舞台に登場させたほど。
(もちろん、役者が扮している。本物の主膳太夫は同じ舞台で浄瑠璃を語っているのだから)。
二人主膳太夫の趣向は受けに受け、何と5月28日の曾我祭までロングラン。
曾我祭とは、
楽屋に祀ってある曾我荒人神の祭りのこと。
兄弟が仇討ちをとげた、5月28日が忌日というわけだ。
(2月6日記載の「曾我物その2」に関連記事あり。)
つづく…
薩摩外記の弟子文五郎が語る浄瑠璃のことをいう。
外記は京から江戸に下り、豪快な語りの硬派浄瑠璃、薩摩浄雲に入門した
(ちなみに一中や、豊後節などの浄瑠璃は軟派浄瑠璃という)。
浄雲没後(1672年)は、薩摩外記藤原直政と名乗り、
初代団十郎の荒事の地(伴奏)にも出演するようになった
(本業は自身の座を持つ人形浄瑠璃の太夫)。
松島庄五郎が芝居にデビューした頃(1710年代)、
文五郎は声量の落ちた(あるいは没した)、師匠の代役で
団十郎(2代目)の舞台に出る事が多くなった。
団十郎の人気上昇とともに、歌舞伎出演が増えた文五郎は、
大薩摩主膳太夫と改め、団十郎の専属となっていった。
二人の仲も次第に親密の度合いを増し、
「矢の根」(1729年正月)では、団十郎が茶目っ気を出し、
主膳太夫を舞台に登場させたほど。
(もちろん、役者が扮している。本物の主膳太夫は同じ舞台で浄瑠璃を語っているのだから)。
二人主膳太夫の趣向は受けに受け、何と5月28日の曾我祭までロングラン。
曾我祭とは、
楽屋に祀ってある曾我荒人神の祭りのこと。
兄弟が仇討ちをとげた、5月28日が忌日というわけだ。
(2月6日記載の「曾我物その2」に関連記事あり。)
つづく…