西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

大薩摩・2

2009-02-17 | その他人物 (c)yuri saionji
その後、団十郎は3代、4代と入れ代わり、主膳太夫は65才で没した(1759年)。
主膳太夫には養子の右扇太夫がいたのだが、大薩摩の系図はなぜか
門弟の主鈴に譲られていた。
これが原因で、両者の間で争いが起こる。
結果、2世、3世と右扇太夫の方が家元権を持つことになる。

3世没後(1800年)、主鈴サイドはやっと主膳太夫の名前を取り返したものの、
今更跡を継げるような弟子もなく、猫に小判だが、
旦那筋にあたる日本橋の魚商、中村八兵衛に家元権と系図が譲られた
(この後、大薩摩はしばし鳴りを潜めることになる)。

時は移り、市川団十郎(7代目)は中村座の3月狂言(1821年)で
「不動」をやることとなった。
「不動」は2代目団十郎が初演し、成田屋(市川家の屋号)ゆかりの不動明王が出現する
お家の大切な演目。
団十郎は大薩摩なるものを知らずにきたが、
今回はこれを何が何でも荒事の正統、大薩摩でやりたいと思った。
だが、大薩摩は今、中村八兵衛の倉の中で眠っていて、
ここ20年ばかりとんと耳にしない。

依頼を受けた六三郎は、「ほいきた合点、承知ノ助」とばかり復活に燃えた。
幸い、3世主膳太夫の弟子だった富士田新蔵(1世。富士田吉治の弟子)がいる。
六三郎は大薩摩48手を駆使して作曲し、
新蔵は主膳太夫の前名、文太夫の2世を名乗って語った。

久しぶりに聴く大薩摩節に客は喜び、
我が意を得た団十郎は大いに気をよくした。

六三郎の大薩摩復活を快く思わなかったのは、杵屋六左衛門。
何でもルーツにこだわる六左衛門は、ここぞとばかり
大薩摩の元祖である外記節の復活を思い立つ。
そして2年後(1824年)に外記節「猿」と「傀儡師」を発表。

「若造が生意気に!」と思ったか否か、今度は六三郎が河東節を引っぱり出してきた。
河東節はちょうど大薩摩と同じ時期に、
江戸半太夫(軟派浄瑠璃)のワキを語っていた河東が、後に独立し、
十寸見河東と名乗って、団十郎(2代目)の「助六」などで一世を風靡した浄瑠璃だ。
だが、このところ人気凋落で、8世没後(1817年)は名跡も絶えている。

「河東裃、外記袴、半太羽織に義太股引、豊後可愛いや丸裸」
と、狂歌にあるように、上品さでいうと河東が一番。

悪戯好きな六三郎は、河東節の中でも格式の高い「翁千歳三番叟」を、
こともあろうに格式とはほど遠い、廓バージョンに仕立て直した「廓三番叟」(1826年暮れ)を発表。

「『翁千歳三番叟』をここまで茶化すとは何ごとだ!」
これには杵屋宗家の筋を引く六左衛門が怒った。
六三郎の好き勝ってを放っておくことはできない。
年が明けると、六左衛門は日本橋の中村八兵衛を訪ね、
大薩摩家元権の譲渡を依頼。
だが、先方は色よい返事をしない。
日参して拝み倒した結果、
「譲渡は無理だが貸与は可」という返事を取り付けた。

「さあ、これで六三郎の鼻を折ることができる」と、
六左衛門は早速、大薩摩筑前大掾藤原一寿と名乗り、
家元であることを宣言した。
六左衛門27才の時だ。

*2月15日「大薩摩その1」の続きです。1からお読みいただけると幸いです。

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