goo blog サービス終了のお知らせ 

西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

守破離の離-2

2012-12-29 | 薄まる文化

薄まる文化-22

巡り巡ってもとの自分に還る。
「離」とは「客観性」ということなのかもしれない。

遠く離れて自分を客観的に見れるようになると、
自分の塊のようなものが見えてくる。
さんざん時分に翻弄されてきたあげくのものだから、
これはもうテコでも動かない。

極論をいえば前世から持たされた魂だ。
魂は物体を持たないので自らが動くことはできない。
だから肉体という入れ物を手段にして、物理的に動く。

そしてオギャーと娑婆に放り出された瞬間から、
その身体を通して「己」が表現できるのを忍耐強くひたすら待つのだ。

「離」とは己の魂が待ち望んでいた境地に違いない。
だから嬉しいし、楽しいし、居心地がいいのだ。


 〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚

守破離の離-1

2012-12-25 | 薄まる文化
薄まる文化-21


「若い頃のテープ聴いてみたんだけれど、結構うまく唄ってるのよね」
と今藤美知氏がある時話していたが、
それは全く同感、私自身にもあてはまる。

長唄というのは長老大家がたくさんいるので、
歳を取らないといい芸ができないと思いがちだ。

だが、修行段階の若い感性は持って生まれたもの。
それなりにいいものを持っているものだ。

変にこねくりまわした芸よりも、
のびのびと大らかな芸の方が気持ちがいい。

芸は年齢とともに成長し、やがて「破」の時を迎える。
そして今度は学習によって身につけた後天的な感性をそぎ落としながら、
本来の感性に辿り着く。
若い頃のテープの自分に。

そこが自分にとって一番居心地がいいから。
稽古と同行二人で育った者は、人格と芸格の次元は同じ。

これが私の考える「離」だ。

 〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚

守破離の破-6

2012-12-24 | 薄まる文化
薄まる文化-20

それ(薄まる文化-19の記事内容)と同じようなことが芸にもいえる。

「守」を律儀に守り、
お手本通りになぞることばかりを
続けていると、ある日えい!とたがを外したくなる時が来る。

師匠とは性格も人格も違うのだから当然だろう。
成長過程としては正しい。

これが私の考える「破」だ。
そして独自の芸の方向性を模索しはじめるのだが、
これがまた還暦の本卦還りと似ていて、
不思議と自我に目覚める前の芸に向かうのだ。
それが持って生まれた性格だからだろう。

 〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚

守破離の破-5

2012-12-23 | 薄まる文化
薄まる文化ー19

人にはそれぞれ持って生まれた性格というものがある。

幼児の頃まではそれがむき出しだが、
児童期から思春期に至る頃になると、
学校という集団生活のなかで学習した「生活の知恵」的なものが、
後天的な性格を形成していくことになる。

ところが不思議なことに定年を迎え現役を退くと、
この「後天的な性格」というものがきゅうくつに感じられてくる。

これもお役御免、もう我慢はまっぴらなのだ。
そして居心地のいい先天的な性格が顕在化する。

歳を取るとわがままになる、というのはこのことをいうのだ。
還暦を本卦還りというのも二度目のオギャーだから。


 〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚

守破離の破-4

2012-12-10 | 薄まる文化
薄まる文化-18

今でこそ楽譜を使った稽古が特殊じゃなくなったが、
本来の稽古は師匠の真似をして覚えるという、口伝方式だ。

私もそれで育って来たので、
つぼ(勘所)や手つき、構え、弾き方など
すべてが親子のように師匠に似る。
あくの強い所などは特に似るから恐ろしい。

師匠が存命中は、何となく教わったとおりに弾いていたものだが、
師匠を亡くすと、自力で弾くことを余儀なくされる。
そこで始めて自分の芸というものを自覚するのだ。

 〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚