原武太夫の教訓-5 2013-01-20 | 薄まる文化 (前日のブログの続きです) いきなり4つもの流派ができたのだから、 おのおの三味線弾きの確保には さぞ苦労したことだろうと思う。 常磐津文字太夫は名人の佐々木市蔵と組んだからいいものの、 あとは長唄の三味線弾きや外記、一中、河東節などの三味線弾きを 引き抜いて凌がざるを得ない。 だから、手(旋律)を覚えるだけで精一杯の者までが タテ三味線に引っぱり出されたのだろう。 三味線のご意見番、武太夫が歯がゆく思うのは誠に道理。 〓 〓 〓 tea break photo by 和尚
原武太夫の教訓-4 2013-01-19 | 薄まる文化 これが(『断絃余論』・前日のブログ参照のこと))書かれた時代は、 かつて江戸中に旋風を巻き起こし、 そのために禁止、弾圧までされた豊後節の親分、 宮古路豊後が亡くなり、 弟子たちが新流派を次々と立ち上げた頃だ。 加賀太夫は富士松を、加賀八太夫は鶴賀を、 文字太夫は常磐津を、 小文字太夫は富本をといった具合に。 宮古路を名乗っていたのでは、 またいつ弾圧にあうやもしれないからだ。 〓 〓 〓 tea break・海中百景 photo by 和尚
原武太夫の教訓-3 2013-01-18 | 薄まる文化 武太夫は断絃、隠居して執筆活動に入ったが、 牛込清水町の自邸に若い芸人を呼んでうんちくを傾けるのが趣味。 芝居にも足を運び、評論家よろしく地方連 の批評などもする。 その武太夫が『断絃余論』(寛延年間・1748~51)を著し 訓示をたれている。 断絃をして10年程が経った50歳前半の頃だ。 「三味線弾きがよく覚えて弾くことは、悪いことではないが 太夫の語る浄瑠璃の息を無視して、自分の拍子で弾くのはよくない」 〓 〓 〓 tea break・海中百景 photo by 和尚
原武太夫の教訓-2 2013-01-17 | 薄まる文化 武太夫が三味線を断ったのは40歳の時(1736・元文元年)だ。 「傾城道成寺」でヒットを打った瀬川菊之丞が 唄うたいの坂田兵四郎とのコンビで 2曲目の長唄となる「風流相生獅子」、 3曲目の「二人椀久」を出したばかりの頃になる。 兵四郎と一緒に長唄を唄ったのが、江戸の名人松島庄五郎。 一連のヒットにより、二人ははからずも長唄流行のきっかけを作ったことになる。 武太夫は岡安原富という芸名を持つ岡安流の三味線の名人だが、 兵四郎からも“ぬめり”という京島原の廓歌を習った。 〓 〓 〓 tea break・海中百景 photo by 和尚
原武太夫の教訓-1 2013-01-16 | 薄まる文化 今から300年程前の江戸に、原武太夫という人がいた。 幕府の与力でこの時(1716・享保元年)19歳。 尾張藩の御留守居番をしながら、芝居小屋の囃子部屋に通う 趣味の玄人。 芸のうんちくを傾けたり、気が向けば地方も勤めるという すでにして三味線の名人だ。 (原武太夫の詳細は当ブログで検索して下さい) 長唄の嚆矢とされる「傾城道成寺」ができたのが 1731(享保16)年、武太夫34歳の時だから、 武太夫は長唄成立以前から三味線(といっても始めは浄瑠璃の) を弾いていることになる。 〓 〓 〓 tea break・海中百景 photo by 和尚