goo blog サービス終了のお知らせ 

西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

守破離の破-3

2012-12-08 | 薄まる文化

薄まる文化-17

私の考える「破」は、親離れに似ている。
特に母親。

自分を産んでくれた親が存命中は、こちらがいくら歳を取ろうが
親に依存し、甘えていた子供時代のなごりが心の中にある。
確かにこの母の体内から産まれてきたのだ、という安心感は大きい。

ところが、母親を亡くすとその依りどころがなくなる。
これからは自力で生きなければいけない。

第二のへその緒を切られて、娑婆に放り出されたようなもの。
そして仕方なく一人で生きる術を見つけ始める。


 〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚

守破離の破-2

2012-12-07 | 薄まる文化
薄まる文化ー16

しかし、私が長唄の何たるやを理解し始めたのは
恥ずかしながら40歳を過ぎてからだ。

三味線弾きとして重宝されだしたのもこの頃で、
杵屋静子氏が私の歳を聞いて、
「女も三味線も40過ぎないと使い物にならないわね」
と、のたまった言葉が忘れられない。
いかに芸と人間の成長が二人三脚であるか、ということを言いあてて妙だからだ。

世阿弥は四十四五歳になったら、能のやり方を変えろという。
身体が衰え、見た目の美しさがなくなっていくからだという。

私はこれを「破」と理解した。
私の破もこの頃からだが、破に確信を得たのは
師匠を亡くしてからだから、55歳からということになる。

 〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚

守破離の破-1

2012-12-06 | 薄まる文化

薄まる文化ー15

稽古の進み具合には個人差があるから一概には言えないが、
世阿弥の「花伝書」によると
三十四五歳までに芸の何たるやを理解し、
ある程度技を極め、名人としての評価を得ていなければ
先にいっても望みはないとある。

6歳から始めておよそ30年ということになる。

私は3歳頃から三味線を始めたので、
およそこの基準にあてはまる。

しかしこの歳に名人としての評価などはされなかったが、
国宝となられた綾子先生に引き立てられ、
同じ舞台に立つことができたことは幸いだった。

名人と一緒に弾いているのだから、
上手いのだろうと世間は思うからだ。

こじつければ世阿弥の論に当てはまる。


 〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚

守破離の守

2012-12-05 | 薄まる文化
薄まる文化ー14

芸道・武道・茶道・華道・剣道・柔道など、およそ「道」のつく
技を会得する上で、理想のプロセスを言い表す言葉に
「守破離」(しゅはり)というのがある。

守は教えられた「型」をきっちり守り踏襲する段階。
ここで師匠の技や、思想、哲学といったものまで
有無を言わさず叩き込まれることになるのだから、
いい師匠につくことがいかに大事か分かるだろう。

この段階では師匠に絶対服従で、師匠が黒といえば白でも黒だ。
芸の人格などない段階だから、理屈は御法度。
「芸は理屈ではない」というのはこの段階を言い得て妙なる言葉だ。

もっとも「習い事は6歳の6月6日から始めるべし」、
という時代の教訓だから「守」の期間は当然子供。
子供は稽古と同行二人(どうぎょうににん)で
人格、芸格を身につけていく。

今のように大人になってから習い事を始める場合、
理屈御法度は自己との戦いになるのだろう。

 〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚

今藤長一郎

2012-11-19 | 薄まる文化

薄まる文化-13

長之氏が亡くなってもう11年が経つ。

いまや勢力図が塗り替えられ、
いろいろな唄うたいが台頭しているが、
なかでも私は今藤長一郎氏の唄が好きだ。

長一郎氏は京都での少年時代から文子先生の弟子で、
同じく学生時代に文子先生に習っていた、長之氏と同じ匂いがする。

天性の喉に上方の感性。
まだ中堅なのでタテの機会は少ないが、
何ともすいたらしい品のある唄だ。

長唄の初期、京都に坂田兵四郎という名人がいたのだが、
兵四郎が唄った「傾城道成寺」や「無間の鐘」などの唄を聞くと
(もちろん伝存している節からの想像)、
なぜだか長一郎氏とイメージがだぶってしまう。

私は密かに、長一郎氏は兵四郎の生まれ変わりではないかと思っている。


 〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚