京で若衆かぶきを張っていた猿若勘三郎が一座を率いて江戸にやってきたのは
寛永元(1624)年のことだ。
庄司甚内(吉原の開基)がお上の許可を得て
日本橋葺屋町(ふきやちょう)に公認の傾城町葦原(吉原の前身)
を開いて(元和4・1618年)からは、
江戸所払いとなっていた遊女たちがこっそりと戻り、
中橋広小路でちゃっかり女かぶきの一座を再始動しはじめたのだ。
お上にも多少のお目こぼしはあったのだろう。
ここは京の四条河原と同じく、
さまざまな芸能や見せ物小屋がひしめく江戸一番の繁華街で、
勘三郎は奉行所から櫓御免を取り付けて、ここに都育ちの若衆を投入したのだ。
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photo by 和尚
寛永元(1624)年のことだ。
庄司甚内(吉原の開基)がお上の許可を得て
日本橋葺屋町(ふきやちょう)に公認の傾城町葦原(吉原の前身)
を開いて(元和4・1618年)からは、
江戸所払いとなっていた遊女たちがこっそりと戻り、
中橋広小路でちゃっかり女かぶきの一座を再始動しはじめたのだ。
お上にも多少のお目こぼしはあったのだろう。
ここは京の四条河原と同じく、
さまざまな芸能や見せ物小屋がひしめく江戸一番の繁華街で、
勘三郎は奉行所から櫓御免を取り付けて、ここに都育ちの若衆を投入したのだ。
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