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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

猿若座

2015-01-28 | 三田村鳶魚を読む
京で若衆かぶきを張っていた猿若勘三郎が一座を率いて江戸にやってきたのは
寛永元(1624)年のことだ。

庄司甚内(吉原の開基)がお上の許可を得て
日本橋葺屋町(ふきやちょう)に公認の傾城町葦原(吉原の前身)
を開いて(元和4・1618年)からは、
江戸所払いとなっていた遊女たちがこっそりと戻り、
中橋広小路でちゃっかり女かぶきの一座を再始動しはじめたのだ。
お上にも多少のお目こぼしはあったのだろう。

ここは京の四条河原と同じく、
さまざまな芸能や見せ物小屋がひしめく江戸一番の繁華街で、
勘三郎は奉行所から櫓御免を取り付けて、ここに都育ちの若衆を投入したのだ。

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 photo by 和尚


遊女かぶき禁止

2015-01-27 | 三田村鳶魚を読む
(1月10日の続きです)

江戸で遊女かぶき(女かぶきも含む)が禁止されたのは、1613(慶長18)年のことだ。
20ほどはあったのだろうか、各座のスター級の遊女が130人余り、江戸所払いとなった。

この時お目こぼしとなった女たちが、ちゃっかり若衆かぶきに入り交じったのだろう、
男女混成のかぶきが登場する。
「彼女らは若衆の小姓風の扮装を真似て、女装した男性に見せようとした」と
鳶魚はいう。
そして若衆の三種の神器、「若さ・美形・踊り」の最重要ポイントである
「踊り」を武器に、男色男どもの愛を奪還しようとした、というのだ。
江戸における踊子のルーツはこれだという。


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  photo by 和尚



衆道

2015-01-10 | 三田村鳶魚を読む
戦国時代が終わり、
戦のない江戸時代になると「衆道」は堂々と市民権を獲得し、
その流行はついに町人層にまで降りてゆく。

武士の「男色」をわっちらもやってみたい、という
あこがれの庶民化がここでも起きた。

1603(慶長8)年に阿国が始めたかぶき踊りはすぐさま
遊女に真似をされ「遊女かぶき」を派生させたが、
この時、既存の少年一座なども「かぶき踊り」を真似た。
それが「若衆かぶき」へと進化するのだが、
その時彼らは、男どものあこがれ「小姓」の姿で舞台に立ったのだ。

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 photo by 和尚

小姓

2015-01-09 | 三田村鳶魚を読む
(12月22日の続きです)

足利義満が公卿のたしなみである「少年との男色」を始めてからは
その習慣が他の武士の間にも流行っていく。
何でもあこがれは上から下へとおりてゆく性格のものだから、
大将のすることはあこがれをもって真似るのだ。

戦国時代になると彼ら少年は「小姓」といわれるようになり、
戦地にも同行するようになる。
たんに夜の伽だけではなく、命を掛けて主君を守るという役目を担うからだ。

織田信長や武田信玄、伊達政宗など戦国大名の多くが
美貌でしかも腕の立つ小姓を寵愛した。

武士にとっては「武士道」と「男色」は必ずしも矛盾するものではなかった。
かくして「若衆道」、略して「衆道」という言葉が生まれるのだ。

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 photo by 和尚







小姓

2014-12-26 | 三田村鳶魚を読む
きょうの朝日新聞に載っていた「いいちこ」の宣伝です。

まさに今私がブログで書いているテーマにぴったりの写真です。

昔の男はこういう美形の若者を寵愛していたのでしょう。
女のような派手な小袖を着せて自慢げに所有する。

いわゆる小性とよばれる若者です。
若衆かぶきが模範としたのも、このような美しい容姿の小性だったのでしょうね。
武士たちが熱狂したのも分かるような気がします。