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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

足利義満

2014-12-22 | 三田村鳶魚を読む
平安末は平清盛、源頼朝などに代表される
武士が政治の中心に立つ時代となる。

彼らは皇族、公家などと交わるうちに上流社会で行われている
男色をたしなむようになり、それが武士社会に流行するようになる。

室町幕府の3代目、足利義満は武士でありながら、
「すべからく公卿を旨とすべし」というほど上層社会にあこがれを持っていた。

義満が猿楽(能の前身)者観阿弥の息子元清(世阿弥)を寵愛したのも
「少年との男色」が公卿のたしなみだったからだ。

世にも稀なる美貌の元清を、義満は常に側に侍らせたという。

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 photo by 和尚



稚児寵愛

2014-12-21 | 三田村鳶魚を読む

平安時代になると、権力争いに敗れた皇族や
位階を継げない貴族の次男坊・三男坊などが出家して仏門に入るということが
慣例化し、大寺院の上層部を出家貴族が占めるようになってくる。

彼らは出家の身でありながら、寒くて不便な山中には住まず
郊外の離宮や別荘に持仏堂や仏殿を建てて風雅に住まうようになった。
ここでの法会は一種の社交と化していき、
仏教世界の稚児寵愛が公家社会に流行していくのだ。



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 photo by 和尚

男色

2014-12-20 | 三田村鳶魚を読む
我が国では古代から「男色」というものがあった。

色(性)に対する概念が今とは全く違っていて、
同性愛がタブー視されるようになったのは、明治期のキリスト教の教えからだそうだ。
それまではいろいろな形の色がおおらかにまかりとおっていたのだ。

奈良時代、女人禁制の僧の世界では、
寺稚児という有髪の少年を、もろもろの世話のためにそばに置いた。

僧と稚児の初夜には「稚児灌頂」(ちごかんじょう)という儀式を行なう。
灌頂を受けた稚児は観音菩薩の化身みなされ、
生身の人間との不邪淫戒を免れるという理屈だ。


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 photo by  和尚

大久保長安

2014-12-19 | 三田村鳶魚を読む
女かぶきや遊女かぶき、恐らくは男児のかぶき踊りなどは
日本各地で持て囃され、慶長16(1611)年には記録に残されるほど
各地に伝播した。

徳川の重臣で佐渡奉行の大久保長安は
何十人もの側室を抱えていたにも関わらず(恐らく女かぶきの)遊女に溺れ、
過淫による衰弱で死んだ(慶長18・1613年)。

出来島隼人一座で危惧したことが、現実のものとなった。
家康は激怒して遊女かぶきを禁止し、彼らを江戸所払い、西国に流した。

こうなるとしたたかに出張ってくるのが男児の一座だ。
もちろん男女入りまじりの一座もある。


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 photo by 和尚




出来島隼人

2014-12-18 | 三田村鳶魚を読む
徳川家康の家臣、水野勝成は京で人気絶頂の
女かぶきの出来島隼人(できじま・はやと)を請出し(慶長12・1607年10月)、
翌年家康の本拠地である駿府で、出来島隼人一座によるかぶきを打った。

恐らくは得意満面だったのだろうが、
群衆の偏狂ぶりをみて家康はこれを淫佚(いんいつ・男女関係のみだらのこと)
であるとして、駿府から追放した。

水野は何を思ったかすぐさま上洛し、
勧進法楽(神仏へ芸能などを奉納すること)と銘打って出来島隼人の女かぶきを打った。

京中の老若男女が見物に殺到したというほどの評判だったという。

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 photo by 和尚