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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

踊子禁止

2015-03-02 | 三田村鳶魚を読む
宝永3(1706)年6月、
お上は再度踊子の屋敷方への出入を禁止した。

ということは先の禁令が喉元過ぎればで、じわーっと復活していたのだろう。
この時は女奉公人や綿摘(わたつみ)といった、遊女まがいの私娼までもが出入禁止となった。

そればかりか、女師匠が踊子に踊りを教えることまで禁止しているのだから
よほど腹にすえかねたのだろう。

さらに翌年にはその類いの女の抱え置きや、町中の徘徊さえも禁止となった。
ようは軟禁だ。
そこまでしてお上は男の品行を正そうとしたのだろう。

鳶魚翁によるとこの禁制で女踊子は小姓姿の男装をやめ、
女装の娘姿になったのだという。

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 photo by 和尚



2015-03-01 | 三田村鳶魚を読む
(2月18日の続きです)

元禄2(1689)年、5月
「踊子の屋敷方はいうに及ばず、いずれへも出入法度」という町触れがでた。
踊子とは小姓の姿をした女踊子のことで、
彼らは踊りという芸をするが、その実は酒や夜伽の相手もする売笑婦だ。

お上がお触れを出して禁止せねばならぬほど、市中にはびこっていたのだろう。
事実、吉原には公認の遊女が、湯屋には湯女が、市中には私娼や夜鷹が、
芝居町には色子や陰間などがいるのだから、町を歩けば色だらけで、
江戸の男はいったいどうなっていたのだ。

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 photo by 和尚



御法度

2015-02-18 | 三田村鳶魚を読む
(2月7日の続きです)

若衆かぶき禁止、町中の色子宿営業禁止と、
幕府は大名旗本の男色規制にのり出した。
つまりは正常な性愛への回復運動を始めた訳だ。

事実、若衆かぶきは舞台に立つ役者以外に、
売色のみの蔭子や、どさ回りの飛び子などを抱えていた。
その種類も多く、人数も夥しかったというのだから、幕府がやっきになるのも当然だろう。

しかし、御法度が出たからといって
武士階級からそう簡単にこの怪しい風習が一掃されるとは思われない。

湯女勝山に群がったのも、旗本や御家人、浪人たちだ。
彼女らの客層はまだまだ戦国気質を残した武士階級であったため、
小姓の姿は生きる智恵でもあったのだ。

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  photo by 和尚


湯女勝山

2015-02-07 | 三田村鳶魚を読む
神田雉子町は、湯女風呂街として有名で、
中でも松平丹後守の屋敷前には、
湯女を何十人も抱える大店の湯女風呂が立ち並んでいた。

ゆえにこの辺りの湯女風呂を特に丹前風呂といった。

この湯女街で名を馳せたスターが勝山だ。
勝山は美形で気っ風がよく、おまけに歌・三味線がうまいときている。

おまけに外出の折りには小袖に袴を付け、大小の木刀を差し、編み笠をキリリと被る。
まさに巷で流行の小姓の出で立ちだ。
旗本奴の心をつかまぬ訳がない。

(photo by 和尚)

湯女風呂

2015-02-06 | 三田村鳶魚を読む
またその当時湯女風呂という、
垢かき女を抱えた湯屋が江戸中にあった。

葦原が高級路線を目指すようになると、俄然人気が出てきたのだ。

昼間は客の垢をかき、髪を洗ってくれる湯女が、
夕方4時に風呂業を終えると、着物を着替えて夜の部の営業を始める。
部屋の設えを変え、酒や料理を出し三味線を弾いて小歌などを歌う。

その後は二階へ上がってお定まり。
これが安価にできるとあって、どの店も大繁昌だ。

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  photo by 和尚