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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

三味線芸者

2015-03-19 | 三田村鳶魚を読む
武家屋敷、屋形船と次々に出先を奪われた踊子は、
深川や日本橋、柳橋界隈に集まるようになる。

八幡町や橘町、村松町あたりに立ち並ぶ「子供屋」と称する置屋に住まい、
もっぱら一中節や河東節など、浄瑠璃の三味線で稼ぐようになる。

踊りが御法度なのだから、三味線なら文句あるまい、というところだろう。
もちろん踊子もいるが、「売女同様な踊子は罰するが、そうでない踊子は
淫らがましくないように品行方正に商売をしろ」というお達しだから、
裏の商売ができない。

そこへいくと三味線芸者には規制がないから、我も我もと三味線に鞍替え、
踊りを踊らない踊子が増殖していくのだ。

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 photo by 和尚


船遊山

2015-03-18 | 三田村鳶魚を読む
(3月8日の続きです)

宝永の禁令で、屋敷方へ出入するのが禁止された女踊子は
河岸を船に変えた。
まだまだ花見に、月見にと武士の船遊山が盛んな時代だ。
浅草川には踊船や遊船がひしめき合っている。

踊子、三味線方を連れて船遊びとは実に風流な時代だ。

「宝永3(1706)年5月2日、
旗本の北条左京が大勢の家来を連れて浅草川へ船遊山に出た。
定紋の幕を打ち、供槍を立てた屋形船へ大数の踊子を乗せ
大陽気に騒いでいるところへ、船回りの御徒目付が来て、
あまり仰山な様子であるのを注意した。
遊興最中ではあり、上下共に酒機嫌ではあり、
端なく北条の家来と船回り御徒目付との喧嘩になった。
中略…
本件のために武士の船遊山がなくなり、やがて屋形船が制限されて
その数を百艘と定められ、その時に踊子もまた禁制された」
とある。

町方の屋形船が百艘とは、ちと少なすぎやしないかと思うのだが、
その後さらに減らされ宝暦7(1757)年頃には70艘ほどになったという。

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 photo by 和尚

脇狂言

2015-03-08 | 三田村鳶魚を読む

芭蕉の門人宝井其角の句に
「花誘う 桃やかぶきの脇おどり」というのがある。
言い得て妙な気配の漂う句だが、これがお上の悩みの種だったのだ。

野郎かぶきの時代になると(承応元・1652年)まず京阪のかぶきから脇踊りが消え、
間もなく江戸に伝播したという。
武士の力も衰え、美少年の色香を売る時代ではなくなったということだ。
(女踊子が小姓の姿をやめたのも時を同じくする)

結果、ドラマ性のある「続き狂言」なるものが生まれ、脇踊りは脇狂言にと姿を変えた。
脇狂言とは、天下泰平・芝居繁昌を祈願する「式三番」の次に演じられる、
一座の繁栄を願う祝賀の舞踊だ。
少人数で演じられるため、容姿ではなく芸力が試される。

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 photo by 和尚 

総踊り

2015-03-07 | 三田村鳶魚を読む
(3月2日の続きです)

若衆かぶきの時代は「総踊り」という若衆総出演の踊りがあった。
これは遊女かぶきの形式、「踊る張り店」を真似たもので、
客は(もちろん男)踊る若衆を品定めして終演後連れ出した。

江戸に一番乗り(寛永元・1624年)した猿若座は、
ワキ狂言師杵屋勘五郎の孫、喜三郎が三味線に才能を示し、舞台で弾き始めた。
正保(1644~)頃には美少年の役者たちも三味線を弾くようになり、
猿若座は遊女かぶきのような連れ三味線で売った。
薄化粧の美少年が目にも綾なる小袖を着て、
これまた美少年の弾く連れ三味線に合わせて輪になって踊る。

この総踊りが「脇踊り」といわれるものだったようで、
女踊子もこれを真似ていたわけだ。

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photo by 和尚

武士の衰え

2015-03-04 | 三田村鳶魚を読む
(3月2日の続きです)

小姓姿の女踊子が男装をやめ、本来の女装になったのは
宝永の禁制をくぐるためというよりは、
武士階級の衰えということが大きな理由にあったようだ。

平和な時代、戦もなく俸禄だけで生活をしなければいけない武士などは
質素な生活を強いられるようになっていたのだ。

毎月の不足分は札差しや金貸しなどからの借金で当てる。
彼ら町人階級が力を持ってくる時代ともなれば、
武士の好む小姓姿より一般男性の好む、うぶな娘姿の方が利益がでるいうことで、
踊子は扮装の矛盾から解き放されたのだという。

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 photo by 和尚