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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

島原遊郭

2015-03-31 | 三田村鳶魚を読む
これも西川祐信の浮世絵だ。
島原遊郭揚屋の中戸口(勝手口)らしき所で、三味線の稽古をしている遊女を描いたもので、
1731(享保16)年の作とある。
通りから門を潜って正面にあるのが中戸口なので、ここは屋敷内だ。
だから表にいる遊女は手紙を読みながら、のんびりと歩いている。

この年は初代瀬川菊之丞が江戸に下り、
中村座で「傾城無間の鐘」のヒットを飛ばした年だ。

祇園や北野などの岡場所には芸妓や舞妓がいたが、
遊郭ではまだまだ遊女が芸をやっていたのだ。

   

    

上方芸妓

2015-03-30 | 三田村鳶魚を読む
これは西川祐信(1671~1750・寛文11~寛延3年)の浮世絵だ。
祐信は京都で活躍した絵師なので、この絵は上方芸妓の姿を描いたものだろう。
これから演奏を始めるのか、二人とも三味線箱から三味線を出して、調子を合わせている。
江戸の三味線箱は黒く塗られているが、上方は白木だったのだろうか。

羽織りを着ているところを見ると、深川の羽織り芸者の逆輸入か。
当時羽織りは男専用のものだった。

宮古路豊後掾が江戸下りして、江戸中に豊後節ブームを巻き起こした頃、
元号が享保から元文に変わり(1736年)、
貨幣も改鋳され、文の字が刻印された文字金(ぶんじきん)となった。

そこで当時はやっていた豊後風のファッションを豊後の「豊」と文金の「文」をかけて、
文金風(ぶんきんふう)とはやした。
髷の根を高くした島田髷は文金高島田といい、江戸中の女が結ったし、
ぞろりと長い文金風の羽織りを江戸中の若者が着た。

気っ風のいい深川の芸者がそれを真似、女だてらに羽織りを着るようになり
羽織芸者とよばれるようになったのだ。
   

鷺娘

2015-03-28 | 三田村鳶魚を読む
瀬川菊之丞の活躍によって、踊子の芸が歌舞伎移しになっていくと、
自然と年長者が三味線へ回り、若い踊子が踊りに回るようになっていく。
こうして年増の芸者に、若い踊子、
つまり半玉(芸者見習い)と一本(大人の芸者)という概念が生まれてくるのだ。

これは大名屋敷での芸者と踊子の演技を描いた図だ。
1760年頃とされる鈴木春信の絵だが、衣裳を見ると長唄の「鷺娘」と思われる。
「鷺娘」は、2代目菊之丞によって、宝暦12(1762)年3月に市村座で初演されたので
これをすぐさま真似て出来立てほやほやを披露したのだろう。

  

これは同じく春信の「鷺娘」だ。
恐らく2代目菊之丞の舞台姿を描いたものだろう。
2代目菊之丞は類い稀なる美貌の持ち主で、すらりと柳腰。
女形になるために生まれてきたような役者だ。
        
   

志賀山俊

2015-03-26 | 三田村鳶魚を読む
素人の娘がみな踊りを習うようになると、忙しくなるのは踊りの師匠だ。
この頃、江戸で一番と言われた師匠は志賀山俊という女師匠だ。
俊は江戸で最初の振付師、志賀山万作の弟子で、
夫は長唄の名人、中山小十郎だ。

(昨日の文章の続きです)
「そうなると娘の立身出世を嬉しがって、立派な町人の子供も踊りを習う。
失費を厭わず御祭礼の踊屋台へ出演させて、世間から騒がれるのを自慢らしく眺め、
踊りの評判から大名の妾になり、両親は御部屋様の親御様のと尊敬され、
生まれもつかぬ武士にもなる。
中略…
これがお茶の間子供といって大名の奥向きで演技者として御奉公を申すことになり、
踊りの師匠様は御狂言師といって、三四軒の大名へ出入するようにもなった」

というわけで、俊のもとにはさばききれないほどの大勢の娘が通い、
お屋敷への出稽古もあって大変な羽振りのよさだった。
「江戸芸者 振りは志賀山 唄は中山」と囃されるほど、
芸者、踊子までもが夫婦のもとに殺到した。

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 photo by 和尚

瀬川菊之丞

2015-03-25 | 三田村鳶魚を読む
「踊子が大分怪しくなってきた延享(1744~)の頃までも、
町人の娘で踊りを習う者は真に少なかったが、鳶の者や芝居の出方(客の世話係)や、
売薬の言い立て(口上)などをする者の娘だけが稽古した。
この頃では踊子が諸大名の奥向きへ呼ばれて、踊り狂言を勤めるようになり、
それが多分の報酬を貰う。
中には踊りが御縁になって、羽振りのいい重い御奉公をするのもあったから、
営業する踊子はこの方面を素人出の踊子に奪われてしまった」
と鳶魚翁はいう。

京で評判の女形瀬川菊之丞が江戸に下り、中村座で「傾城無間の鐘」を演じたのは
享保16(1731)年のことで、これが大当たりを取った。

菊之丞の踊りのうまさ、美しさもさることながら、
坂田兵四郎の唄う聴いたこともない長唄にも驚いたのだ。
菊之丞はこの「傾城道成寺」の後「風流相生獅子」(1734)・「二人椀久」(同年)
とヒットを飛ばす。
この菊之丞が、町娘の間に踊りを流行らせる原因となったことは間違いないだろう。


春信より少し前の絵師、奥村利信(生没不詳。享保から寛延にかけて活躍)
の描いた初代菊之丞。画中に「瀬川菊之丞おおあたり」とある。