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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

芸者

2021-07-11 | 浮世絵で見る悪所の変遷
これは芸者がお座敷に出勤するところを描いたものです。
女子衆の持っている三味線箱が長いので、吉原芸者か(建前上、吉原以外での長箱はご法度でした)。

作者は三代目歌川国貞(1848〜1920年)、制作年は文政8(1825)年です。

芸者像がかなり確立されきています。

     

向島芸者

2021-06-30 | 浮世絵で見る悪所の変遷
この絵は勝川春潮の浮世絵です。
春潮は春章の門人で、生没不詳ですが、
安永から寛政(1772~1789)にかけて活躍したとあります。

向島の桟橋に着いた船から、芸者衆が降りるところを描いたものです。
当然向島は岡場所ですが、おおらかに営業していたようです。

    

日本堤

2021-06-25 | 浮世絵で見る悪所の変遷
これは歌川広重(1798~1853・寛政9~安政5年)の「名所吉原 よし原日本堤」」、
安政5(1857)年の作です。

ちょうど吉原開店の頃の時間でしょうか、雁はねぐらに帰り、男は吉原を目指す。
新吉原開基から150年ほども経っているのに、依然として土を盛り上げた土手のままのようです。
道端に出茶屋が見えます。
行き帰りに休憩したのでしょう。

駕籠の客より歩きの客の方が圧倒的に多かったようです。

(「衣紋坂」でブログ内検索をしていただくと古い時代の日本堤が出てきます)

    

中洲料理屋

2020-02-29 | 浮世絵で見る悪所の変遷
隅田川下流の大川にある中洲を埋め立てて、中洲新地ができたのは
安永2(1773)年のことです。
数多くの料理屋や出茶屋が所狭しと立ち並び、江戸一番の繁華街になりました。

当然中洲芸者もわんさと沸いて出ましたが、あまりにも殷賑を極めたため
6年ほどで取り潰しとなり(1779年)、もとの浅瀬に戻ってしまいました。

この絵は細田栄之(宝暦6~文政12・1756~1829年)が取り潰しの1年前に描いたものです。
扇屋という料理屋のはずですが、これを見ると遊女や禿がいて客が布団の上で料理を食べている。
まるで吉原遊郭です。
岡場所であるはずの中洲が堂々と遊女家業をしているのですから、お取り潰しになるのもむべなるかなです。

    

新富座

2020-02-28 | 浮世絵で見る悪所の変遷
この絵は2代目歌川国政(文政6〜明治13・1823〜1880年)の絵で、
明治11(1878)年に完成した新富座の新舞台を描いたものです。

新富座は旧守田座で、歌舞伎不況の時代を株式組織にして乗り切ろうという意気込みなのです。

幕が閉まっているのでよく分かりませんが、額縁式の洋式舞台だそうで、丸いシャンデリアのようなものは
ガス燈です(昨日の絵と比べてみてください)。
ガス燈にしたことで明かりが十分に確保できたのでしょうか、夜興行も行なったといいます。

今まで天井からぶら下がっていた提灯はお役御免になり、舞台下手現在と同じ位置に黒みすが登場しました。
また西洋化に伴い、椅子席も設けたといいますが、この絵には見えません。
もっと後のことなのでしょう。

この舞台で杵屋正治郎(3)作曲の「元禄風花見踊」が初演されました。