家政婦のような・・そうでないような・・

毎日せっせと家族に食事をつくっております

自宅介護その後

2005-10-31 15:41:54 | 自宅介護
自宅介護を始めてしばらくして、施設のデイサービスを受けることになりました。

とにかく立つのがやっとの状態で、自宅の風呂に入れるのは、無理なのです。
(2人がかりなら何とかできそうなのですが・・・)
週2日、お世話になることになりました。

朝早く家を出て、母にご飯を食べさせ、デイのお迎えに乗せる。
家中の掃除をしてから、いったん自分の家に戻る、
昼を自宅で食べて、買い物をして夕食の準備をしてまた母の家に行って
帰ってきた母を看て、夕飯を食べさせて、夜にまた自宅に戻る。

デイの日の方が、私は2倍疲れます・・・。
心も身体もかなり悲鳴を上げていました。

でも、相談できる人がいません・・・
思いましたね、この時に、男はまったくあてにできないって。
兄は何とか皆でうまくやっていけるだろうと、本当に軽く考えていたようです。

軽くはありません、毎日のことなのです。
それも、いつまで続くか分からない、先の見えない介護なのですから・・・

自分もかなり辛くなってきていたのでしょうね、
私が母を連れて、別に家を借りる話に耳を傾けるようになりました。

ささいなことですが・・・・
ある時、兄嫁が私にこう言いました、
「○○さん、ご飯古い方から食べてくださいね」

前の日の残りご飯を母と私に食べろと、こう言うのです。
そりゃ、私はかまいません、何を食べても、だけど、違うでしょう
目の前に炊いたばかりのご飯があるなら、それは母に食べさせてもいいでしょうが。

他の日、兄家族の一人の誕生日でした。
私は知らずに夕飯のしたくをして、ご飯まで炊いていたのです。
帰ってきた兄嫁は
「あら~、今日はご飯いらないって子供に言っておいたんだけど~」

しばらくして、近所の寿司店から、寿司が届きました。

この時母はすでに夕食を済ませており、届いた寿司を悲しそうに眺めていました。
何も言いませんけど、寿司は母の好物です。
 
もし、私が兄嫁の立場なら、きっとこう言うでしょうね、
「○○さん、今日も、ご苦労様、少しだけど、夕食にお寿司持って帰って食べてね」
もちろん、注文する時点で、母の分も私の分もはいっていますよ・・・

悲しかったです、お寿司を食べられないことより、貴方の気持ちが。


2002年、退院へ

2005-10-30 14:08:25 | 自宅介護
1月半ば、退院となりました。

とりあえず、現状のままの退院となり、先のことは先で考えることにして
母は家にもどりました。

兄夫婦家族全員、外に働きに行っていますので、看るのは当然私が一人ということ
になりました。
朝、昼、夕飯、3度の糖尿食。インスリンの注射。飲み薬。
2時間おきのトイレ。車椅子の練習、補助具を使っての歩行の練習。などなど。

朝の6時に家を出て、吹雪の中を歩きます。
朝食は、兄嫁の邪魔にならないように作ります。家で作って持っていくことも。

そうして夜になって兄が帰ってきてから、バトンタッチ。
夕飯を食べさせて、寝かしつけて、私の介護の1日が終わります。
兄が母と同じ部屋に寝て、夜のトイレの世話をします。

この頃は退院したばかり、母も情緒不安定だったのでしょう、
自分がなぜこんなになってしまったか、みんなに迷惑をかけてるんじゃないか
早く直らなきゃ・・・と、いろいろ考えていたと思います。

兄は外で仕事をして、疲れて帰ってきても、夜は母に起こされてトイレへ。
でても、でなくてもトイレに行きたいと言うのです。この頃はまるで赤ん坊。

考えても、こんな状態が長続きするわけがありません。
私が母を引き取って、2人暮らしをしたいと何度兄に話をしたことか。
兄にしてみれば、家から母を追い出すようで、考えたくもなかったのでしょう。
 
だんだん、夜のトイレもつらくなてきたのでしょうね・・・
兄嫁は私に言いました。
「もう~、夜、何回もトイレに行って、うちの人ねてるひまがないのよね~
 それに、ばたんばたんとうるさくて、私もぜんぜん寝れないわ~」

男の介護ですから、やはり大変なことです。
毎日ですから、眠い時に起こされてトイレに、そりゃ、乱暴になるでしょう。
音もたてるでしょう、言葉も乱暴になるでしょう。

でも、看てるのは、貴女ではありません。

一時帰宅その後

2005-10-29 11:02:27 | 入院中のこと
病院から、再び、正月には外泊の許可が出る。

31日から2日までほんのわずか。
それでも喜んで帰ってくる、よかったねえ。

外は雪、でも家の中は暖房で暑いくらいです。家の中もある程度ひろいので
車椅子でもけっこう一人で動き回っている様子。

でも、上手に操作ができないので、あちこち、がんがんぶつかりながら
車椅子を動かしている。(ひょっとしたら、それも兄嫁のイライラの一つかも)

そらそうだ、新しく立て替えた家にあっちにゴン、こっちにガンではねえ。
そのうち、食事の後は、母の部屋にもどされていた。
「お婆ちゃん、そろそろ眠いでしょう~、部屋に戻りましょう~」
別に眠くなくても、だまってされるがままになっていたようです。

再び、病院へ、
戻ってから母に聞いた。お正月なにがおいしかったの?
「せんべいを食べた」

この年は大雪、我が家の雪を片付けるだけでも一仕事。
おかげで、病院の行き帰りもバスが時間通りに運行してくれない・・・
はあ・・・車があったらなあ・・・つくづく思いました。

本格的な退院に向かっての準備をしなければなりません。
 
私はこの頃、すでに決心していました。
兄にだけは話していたのです、
どこか、母と私の二人で暮らせる所を探しておいてくれるように頼んでいました。

でも、ここで計算違いがおきてしまいました。
やはり、男、あてになりませんでした、
みんながみんなではないでしょうが、兄も軽く考えていたのでしょうね。

介護、やはり大変なことです。
何年も介護されてる方に会うと頭が下がる思いです。

退院、そして・・・

2005-10-28 10:08:41 | 入院中のこと
12月の半ばに一度、仮退院をする。

一度家に帰って、様子を見てみるのだそうです。
帰って、家でどのように過ごすか、状態はどうか、家の中の使い心地はどうか、
いろいろとやってみないと、わからないことだらけ・・・

それなのに、兄嫁は、受け入れ態勢が整ってないとか
準備がまだできてないとか、わけの分からんことを言っている。
要するに、母に帰ってきて欲しくないのを遠回りに言っているだけなのです。

帰ってきました。
母にしてみれば、半年振りの我が家です。
興奮しているのがわかります。うれしいのです。

でも、わかっていることと、わからないことが・・・・
家に帰ったのはうれしいけど、兄嫁の顔は見たくない様子。
家の中でも完全に車椅子生活。

兄嫁にしてみれば、もっと簡単に考えていた様子、それが思ったより
手がかかるとはじめて分かったのでしょう。
「あなた達の親なんだから、自分達でなんとかして」
これは変わらないようだ。
 
私は、母の朝食を作りに朝家を出る、寒い、凍えるような寒さ。
糖尿の為、インスリン注射をする。
こそこそ、遠慮しながら食事の準備。

お昼、夕飯、と3度の食事の世話、
この頃、母は2時間おきくらいにトイレ、トイレと言っていた。
そのたびにトイレに連れて行くのだが、でているときと、そうでない時がある。

夕食後、私は夜道の暗い中、吹雪いていても歩いて家に帰っていた。
今考えると、ほんと、なんだかなあ・・・・
つらかった・・・

夜は兄がトイレに連れて行っていた。それもやはり2,3時間おきに。
後で分かったことですが、情緒不安だったのでしょう。


退院前のいさかい

2005-10-27 13:26:23 | 入院中のこと
母の今後については、なかなか話が進まないでいた。

基本的には家に戻って生活をすることが1番いいのは分かっている。
が、24時間の介護生活がまっているのも事実。

病院としても、家の状況を写真で確認してこれなら自宅介護が可能だと判断。
退院後は、母は自宅に戻って生活をすることになった。

問題は誰がどのように母の介護をするか・・・・ということです。
私は実家を出ている身。それに病気をするまで母は兄家族と暮らしていたのに、
兄嫁は私にこういった。

「○○○さんが、看るって言ったから自宅介護を考えたのよー
 いなかったら、施設の世話になるようにしたのに。
 要するに、朝から、晩までの世話が大変だし、この家に通うのも大変だって
 ことよね。

 こういっちゃナンだけど、○○○さん、今、仕事してないんだからねー」

病院での話し合いのときにはこんなことは言っていなかった。

「家のおばあちゃんなんだから、みんなで協力し合って、やれることは
 やっていきましょう、」

みんなってだれ?協力ってどういうこと?
なんか外に向かって言ってることと、私に言ってること違いすぎないか~
はあ~~~、先が思いやられる・・・・(-_-)

 
この頃、病院通いもけっこうつらかった。
朝の寒い時間バス停で冷たい足でバスを待つ、
乗り込むと暖房が気持ちいい、はあ、暖まる~

がっ、また乗り換え、吹雪いてきて寒い、早くバスがきてよ~
時間通りにこない・・・・・寒い・・・

こんな病院通いも3ヶ月つづきました。

2001年11月頃

2005-10-26 14:25:54 | 入院中のこと
この頃になると、母もだいぶ病院生活に慣れてきていた。

毎日決まったスケジュールをこなし、よほどのことが無い限り淡々とリハビリは
進んでいく。若い人のリハビリではないので、進歩はめざましいとはいえないが
それでも、入所当時から比べたら雲泥の差がある。

スプーンを口にもっていく野がやっとだったのに、いまでは、箸がつかえる。
言葉もほとんど話さなかったのが、しゃべりにくいことはあっても、
ユックリだと話をするようになった。

トイレも紙パンツだけれども、行けば、車椅子から自分で便器に移動できる
ようになった、(これは手助けが必要だが)

毎日の訓練がいかに大切か。
只、今後、家に戻った後のことで頭が痛い。
私が、仕事をやめて付っきりでみるのはいいのだけれど・・・

今の、母の家は私の実家でもあるが、母の家であって家でない。
というのは、新しく建て替えをしたので、土地、建物、が兄夫婦の名義
にもなっている。
もちろん、母の面倒をみる様に設計された家なのにである。

ホント、愚痴になるけど大きな声で言いたいよ~~~
あんたら~~母の面倒をみるのに今の家建てたんだろが~~~
それも、全室バリアフリーの自慢の家だよね~~~

トイレも車椅子のまま入れる広さだよね~~
風呂も広いし、手すりもついてるよね~~~

孫が小さいときはみんなお婆ちゃんに育ててもらったよね
大きくなったら、知らんふりか~~~


失礼しました、ああ~ちょっとはすっきりした。
どこにも言えなくて、こんなことが私の具合の悪さに拍車をかけているのよね。
喉の違和感、まだ消えない。
近いうち、検査に行こう。

2001年10月末の頃

2005-10-25 11:46:41 | 入院中のこと
紅葉も深まり、私が病院に顔を出すのは、2日おきくらい。

朝家を出ると、帰ってくるときにはすでに暗くなっている。
はあ~疲れた・・・
私の体重はこの時で、すでにマイナス5キロ。

体重が減るのはいいけど、健康的じゃない、脳疲労からくる体重減少。
最悪だ、食欲なし、慢性の睡眠不足、耳鳴り、めまい、頭痛、喉の違和感、
などなど・・・・・・はあ~~~


病院に行って、母を車椅子に乗せて、敷地内を散歩する。
辺りの山は紅葉の真っ只中。きれいだ~

落ち葉を手に乗せる。喜んで何枚も欲しいと言う。
このまま帰れたらいいのに・・・ふと、そう思ったけど・・・


家にいたとき、友人が温泉に行こうと誘ってくれた。
お昼も向こうで食べればいいと、さっそく出かけた。
久々の温泉、はあ~~~極楽、極楽。
実家で冷たい仕打ちをされていても、友人達には恵まれている。
ありがたいことです。(感謝、感謝)

代1回目の退院に向けての話し合いがおこなわれる、
退院後は何処で暮らすか
誰がめんどうをみるか
おもに車椅子生活になるが環境はどうか
等々・・・

結局、このままリハビリを続けていても、今以上の回復は望めないということ。
・・・・・・・・・・

それでも、入所したての頃から見たら、かなりの回復だ。
スプーンから箸をもてるまでになったし
車椅子も上手ではないが一人で動かせるし

口の方も、ユックリなら話せるようになったし
いろいろできるようになっていた、

かんじんの下の世話は誰かが付きっきりでやらなければならなくなった。
いくら紙パンツを穿いていても、自分では立つのがやっと、
一人で下ろせるわけが無いのだ。

それに、食事、退院後は完全な糖尿食になる。

結局、行き着くところは、食べることと、下の世話、これに尽きる。


病室の変更

2005-10-24 10:40:02 | 入院中のこと
最初に入った病室が2人部屋、隣のお婆ちゃんは寝たきり。

身体は自由に動かないけど、口は達者、たぶん痴呆症はあるのだろうが
言葉は自由に話している、それも一日中です。

初めは母も何もわからないので声をかけられたら、何か返事らしきものを
返していたのだが、あまりにおしゃべりするので、どうしていいのか解らない様子。
1週間ほど同室していたが、夜も寝ないでしゃべりかけてくるので、さすがに
疲れてしまい、一緒にいるのがイヤだと泣いて訴える。

担当さんに頼んで部屋を4人部屋に変えてもらった。
皆さん、ほとんど同年代、でも病状は様々、窓辺の気持ちのよさそうなベッド。
山の中の病院、景色がいいというのは、見舞いに来た人だけ(そりゃそうだ)

さすがにリハビリ専門病院、びっくり!
午前中に訓練があり、昼食後、午後にまた訓練。
食後おのおの、歯磨き訓練、等々・・

広い廊下は車椅子の人が自由に走り回っている、テレビを見ている人
只洗面所に行って外を眺めている人、ロビーを挟んで、症状の軽い人は
歩いて自分で洗濯もしている、実に様々。

でもここは、ほとんどが脳に障害があって訓練している人が多い。
母の場合は小脳梗塞なので運動分野がにがて、
でも、すこしづつ慣れて、バーにつかまって足が前に出るようになった。

立ち上がりも、すんなりでは無いが自分でできるようになった。
ここにきてよかった。心からそう思った。
ほとんど、マンツーマンの指導。とても有難いことでした。

こちらの病院は今でも感謝しております。
スタッフの皆さん、有難う、母は元気にしておりますよ~  


リハビリ専門病院にて

2005-10-23 10:46:24 | 入院中のこと
こちらの病院にきてから、まず変わったことが、オムツ。

オムツから、穿く紙パンツになる、家のものが用意だけしておくと
職員さんが着けてくれる、
朝、起こして車椅子に乗せて全員食堂へ、

それぞれの病状、症状に合わせての食事内容。(当たり前のことなんだが)
どろどろの流動食の人、刻んで細かくした者を食べる人、
何でも食べる人、カロリー制限のある糖尿食の人、いろいろです。

いっせいに食べるのだが、よほどのことが無い限り手をださない。

母を見ていると、あまり食べない。慣れないせいもあるのだろうが
スプーンをうまく口に持っていけないので、イライラしているのだろう。
気長に見守るしかない・・・

私もこの病院に顔を出すには8時のバスに乗り30分
途中乗り換え、(うまくいかないとそこで1時間の待ち時間あり)
またバスで1時間。歩いて30分。

着けば、もう昼近い、すぐに前日の汚れ物を洗濯する、
コインランドリイーなので乾燥機にかけている間に持参した弁当を食べる。

午後、リハビリの様子をみせてもらう
ほとんど、マンツーマンでの訓練の様子。
これなら・・・・という期待がでてきた。

でも、母は相変わらず、帰りたい、家に帰りたいと泣く。
かと思うと、○○○はばかだ!と急に怒り出す。
感情の起伏が激しく、私も見守るしかない・・・・・

4時ぐらいのバスに乗るため帰ることにする。
行くのに時間がかかるので、行けば1日いるが、これから帰っても
家には、乗り継ぎを入れても7時ごろになってしまう。

今度は、しょっちゅう行かれないなあ・・・・(-_-)
何とか、がんばってなれて欲しい。
他の人達も、大勢がんばっているのだからね。

バスの窓からきれいな紅葉がみえている・・・・・。

退院、そして別の病院へ

2005-10-22 10:09:03 | 入院中のこと
退院まじか、また知り合いの義母が入院してきた。

やはり軽い脳梗塞、この方は自分で常に気をつけているので
少しのめまいで病院に来て、検査でわかったとのこと、
まったくモトのように元気に退院された。

嫁である知人は、その義母とうまくいっていないようで
1週間後に始めて病室に顔を出して、私と出会った。
世の中広いようで狭い、それに、みんなそれぞれの生活がある・・・確執も

母の家に冬のシャツ、ももひき、セーター等取りに行った。
兄嫁と顔を合わせるが、一言も無い。
・・・・・・・・愚痴になるけど、もし私が逆の立場なら
「お疲れさん、私が荷物をもっていくところだけど、よろしくね」
 
何でこの一言がないかなあ~~~
そういえば以前に言われたことがあった。
「あなた達兄弟の親なんだから、自分達でやって」

思い出すと今でも腹が立つ、だから思い出さないようにしているが
今日はここに愚痴ってしまった。

先生に紹介してもらって、新たにリハビリ専門病院に転院することになった。
家からだと約2時間半、歩き、バス、バス、歩き、車を持たない私には大変だ。
10月、家に帰れると思っている母を兄と2人で別の病院に連れて行く

リハビリ専門なのでそれなりの専門職員と設備、
ここなら少し希望が持てそうな気持ちになった。

帰るとき、母は泣いた、怒った。
だましてこんなところに自分をとじこめるのかと・・・・
後ろ髪を惹かれる思いで帰ってきた。

ここから、母の本格的なリハビリ生活が始まった。