クラージュせたがや ~Courage Setagaya~

元はベルマーレ応援サイト「STweb」の別館で2005年7月開始も、2010年12月の韓国赴任を機に半ば休業中。

「無名チームを1等へ導いて人生勉強」ユン ジョンファン監督インタビュー

2014-06-16 21:48:11 | アジア、韓国のサッカー
6/7の韓国ハンギョレ新聞 土曜版の1面トップにサガン鳥栖 ユンジョンファン監督写真が大きく載っていて、インタビュー記事は新聞紙2ページ分に大々的に掲載されていました。
Web翻訳も使いながらですが、そのインタビュー記事を日本語訳してみました。

(元の記事のURL)
http://www.hani.co.kr/arti/sports/soccer/641218.html

“無名チームを1等へ導いて人生勉強…それでもヒディンクを最も尊敬”
▲スポーツは多様なドラマを作り出します。 ワールドカップとオリンピックなど大きい舞台で活躍して派手なスターで非常だったり、助演に留まったり失敗の苦味を見る場合もあります。 4強神話を書いた2002年ワールドカップも例外ではありませんでした。 当時韓国代表チームでただ1分1秒もプレーすることが出来なかった選手は5人いました。 その中1人であるユン・ジョンファン サガン鳥栖監督はJリーグで成功神話を書いています。 今回のワールドカップではどんなドラマが繰り広げられましょうか。

“率直な気持ちでその時はとてもくやしかったです。”
2002年ワールドカップ、国民皆が勝利の歓喜に陥っていた当時候補選手でベンチに座っていたユン・ジョンファン(41)サガン鳥栖監督の心は鬱憤でいっぱいだった。 フース・ヒディンク監督は彼をただの1分もワールドカップ競技場のピッチに立たせなかった。ヒディンクは体力が不足して守備加担に積極的でないとの理由でユン・ジョンファンとアン・ジョンファンの二人のテクニシャン(技術が優れた選手)の選抜を排除してきた。 ところが、ワールドカップが近づくのにゲームを解いていくプレイメーカーがないという世論が大きくなるとすぐに二選手を最終名簿に含ませた。 結果は雲泥の差であった。 アン・ジョンファン MBC解説委員はワールドカップで決定的なゴールを2つも入れて4強神話の主役になったが、ユン監督は結局トルコとの3・4位決定戦でもグラウンドを踏むことができなかった。 ユン監督は「家族を考えてもグラウンドで1分でもプレーたかった。 ワールドカップが終わって色々な行事があったがその場から抜け出したい気持ちだけだった」と話した。 代表チーム解散直後日本の所属チーム セレッソ大阪に復帰したユン監督はその年7月8日「ハンギョレ」との電話インタビューで中に入れた話を難しく取り出した。 「私の人生で最も大変で、最も長い時間だった」、「酒は1年に一度もしくは二度飲むが、今回深く飲んだ。 飲むこともできないが飲まなければ頭がさく烈しそうだった。 一度思いきり飲んだ」として苦しさを吐露した。

2014年、また再びワールドカップが帰ってきた今年、ユン監督は日本プロサッカーリーグで「神話」を描いている。 2011年、2部リーグでも中下位圏にぐるぐる回っていた「弱いチーム」サガン鳥栖の監督に赴任してチームを1部リーグ優勝を狙う「強いチーム」へ作ったのだ。 サガン鳥栖はリーグ中盤である現在、9勝1分け4敗で勝点1点差で2位を記録中だ。 ユン監督赴任初年度にチーム史上初で1部リーグ昇格という成果を出して、2年目には再降格するだろうという専門家たちの予測をひっくり返してリーグ5位でシーズンを終えた。 Jリーグ史上、昇格したチームの中で最高成績だった。 サガン鳥栖は地域住民の自慢の種になった。 人口7万人である小さい都市鳥栖でホームゲームが開かれるたびに観客数が1万人を越える。 国内で鳥栖市と似た人口を持つ都市は忠南(チュンナム)扶余(プヨ)程度だ。 日本サッカー協会の資料を見れば、昨年サガン鳥栖のホームゲームの平均観客数は1万2026人だ. わずか10年前である2004年ゲーム当たり平均観客数は3610人に過ぎず、5年前には5939人だった。 ユン監督はどのようにサガン鳥栖を強いチームにしたのだろうか。 また、2002年ワールドカップ悲運のスター ユン・ジョンファンがこれまでの12年間どのように過ごしてきたのだろうか。 ブラジルワールドカップを1ヶ月余り控えた5月18日、日本、九州、佐賀県、鳥栖市のサガン鳥栖 クラブハウスでユン監督に会った。

-選手時期創意的なプレーをするという評価をたくさん受けたが、唯一ワールドカップとは縁がない。

“1994年アメリカワールドカップを控えてキム・ホ 当時代表チーム監督に何度も招請を受けたりもしたが、結局最終名簿に入ることができなかった。 その時は大学生であったし年齢も幼かった。 1996年アトランタオリンピックに出場した以後チャ・ボムグン監督がとても大切にしたが期待に相応できなくて1998年ワールドカップにも出て行けなかった。 2002年にはかろうじて最終名簿に入ったのに試合でプレーすることができなかった。 国家代表で選抜されて色々な試合でプレーしたが、ワールドカップを一度も走ることが出来なかった痛みがある。 切歯腐心をすることになった契機でもある。”

-2002年ワールドカップ直前だけでもプレイメーカーで重用されるだろうという予測が多かった。 評価試合だったスコットランド戦では1ゴール1アシストで猛活躍した。

“自ら熱心に運動したし、監督が願う姿を見せようと努力した。 練習する時は他の選手たちより一歩でもさらに走ろうと歯をくいしばった。 それでもグラウンドを踏んだこともなくてとても自尊心が傷つけられた。”

ユン監督にワールドカップは相変らず悔恨の対象だった。 だが、同時に絶えず自身を焼き入れする原動力でもあった。 選手時代、ユン・ジョンファンはちょっとしたした格別な選手であった。 彼が球を捉えれば予想できないところで前進パスが続いたし、相手守備選手が届かないのに同じチームの攻撃の選手が走って行って受けることができる地点に正確に球が届いた。 他の選手たちの動きを注視して、球を受けると同時に即見つめることもせず守備があけられた地点で正確にパスを連結した。 そのような彼に「パスの代名詞」「最高のプレイメーカー」、「悪知恵石が」というニックネームが相次いだ。 だが「体の小競合いと体力が弱い」、「守備に積極的でない」という評価もあった。 長所は彼をスター選手で育てたが短所はワールドカップに走ることが出来なかった悲運の選手に残るようにした。 だが、監督としてのユン・ジョンファンは違った。

-どのようにサガン鳥栖にくることになったか?

“全北(チョンブク)で2005年シーズンを終えて、選手生活をして指導者教育を受けることができるチームを探した。 2000年から3年間セレッソ大阪で走ったことがあったので日本のリーグがなじんだ。 その時エージェントが物色したチームがサガン鳥栖であった。 このチームのヘッドコーチが韓国にきて私が試合でプレーする姿を見て、正式に招聘手続きを踏んだ。”

-サガン鳥栖はその時2部リーグ チームではなかったか?

“セレッソ大阪で走る時も2部リーグで降格されたチームを1部リーグで再昇格させた経験がある。 サガン鳥栖も1部リーグを目標にした。 当時サッカー選手として年齢も結構ある方なので好きなサッカーを継続できるチームに行きたかった。 1部リーグ昇格という成し遂げようと思う目標があるという点も興味をそそった。”


-このチームの第一印象はどうだったか?

“日本のプロチームだと思うのは難しいほど劣悪だった。 更衣室さえなくて選手たちが倉庫などを借りて服を着替えた。 練習場も狭苦しかった。 控え選手たちは近くにある公園に行って訓練をしなければならないほどであった。”

1997年に創立されたサガン鳥栖は1999年日本プロサッカー2部リーグに参入したがほとんどの中下位圏にぐるぐる回った。 そんな中最高成績をあげた時期がユン監督が選手として合流した初年度である2006年だ。 その年4位に上がった。 だが、翌年再び8位に墜落した。

-選手として来てどうやって監督になったのか気になる。

“試合をすることになれば監督やコーチ以外に競技場の中でのリーダーが必要だ。 サガン鳥栖がベテランだった私を選んできた理由もそのためだ。 そんなにチーム内でリーダー役割をして試合を調整して導いた。 ところで共にプレーする選手たちの心がけを見ると勝利に対する切実さが見られなかったよ。 一度は監督が選手たち1人1人にスピーチをさせた。 その時私がした話が「2002年ワールドカップの時誰が韓国が4強に上がることができたか。 成し遂げようと思う夢があってそれを達成するために激しく努力すれば明確に達成する。 ところで私たちのチームはそのような努力も、目標も見られない」でした。”

-監督がしなければならない話のように聞こえる。

“当時監督、コーチが導く指揮方向に良く従った。 だが、中では自らチームをどのように変えてこそ強くなれるかを研究した。 また、選手としてプレーする時、1年に一回ずつ退場になった。一度は私たちの選手が倒れているのに相手チーム選手がボールを蹴って試合を続行したよ。 走って行って相手選手のからだを押し退けてすぐに退場になった。その時クラブ経営陣が日本選手から簡単に見られない勝負根性を有しているとし私を注視したといった。”

-引退して再び韓国にくるつもりはしなかったか?

“韓国に行こうという考えもしばらくしてみた。 だが、韓国に行けば監督をする機会が簡単にくるのではない。 ここよりは条件が良いチームでコーチができるが、何もない状態で一つ一つ作っていくことが意味があると感じた。 球団経営陣も「ここで良い結果を出せばチームの歴史を新しく描くということ」といった。 そのような話を聞いて挑戦意識ができた。 何でもない状態で挑戦してみるほうが良くないか。 私がちょっと自分自身を骨を折るようにさせて勝ち抜こうとする性格だ。 若干変態的な性格だ。(笑い)”

-監督になる当時日本プロサッカー1,2部リーグあわせて最年少であった。

“2007年シーズンを最後に引退してクラブの技術顧問(technical adviser)になった。 クラブで新しく職責を作って指導者教育を受けられるように配慮した。 技術を諮問して片方ではアカデミーチームを引き受けて指導した。 その時会社がどのように選手を育成して収益を出すのかなどチーム運営と経営に対してあまねく見回すことができた。 2009年にコーチ1人が出て行ってその場に入ったし、その年リーグで5位を記録してかなり良い成果を出した。 だが、シーズンが終わって、当時の監督がいくつかの主力選手を連れて他のチームへ移籍してチームが難しい状況に置かれた。 その時球団ではすぐに私を監督に任命しようとしたが韓国で取得した指導者ライセンスでは日本のプロチームの監督になれなかった。 それで1年間ヘッドコーチをしながら指導者ライセンスを取得した。”

-監督が予約されたヘッドコーチだったということなのか?

“経営陣がチームの総括運営を任せようと連れてきた松本育夫団長に1年間臨時監督を任せた。 だが、チーム練習は私に一任した。 その時から私たちのチームがしなければならないサッカーを選手たちに説明したし、それに合うようにトレーニングし始めた。 特に体力トレーニングだけは苛酷にさせた。 ここに近隣にアサヒ山だと案外浅い丘がある。 てっぺんまで上がるには290段の階段を上がらなければならない。 降りてくるところは傾斜が低い斜面の長さだ。 そちらを初年度に7周走ったし毎年輪数を増やして今年には12周を走った。 初めには選手たちが経験してみることができないこのような訓練をいぶかしいといった。 戦術的にも新しい変化を試みた。 サガン鳥栖はパス中心の競技をするには組織力と選手たちの個人技量が不足した。 かえって自陣でパスを回して奪われて失点する場合が多かった。 そのようにすることよりはターゲットマン(前線の選手)を前に置いて相手陣内でボールを浮かせば、空中のボールを争ってミッドフィルダーがプレッシャーをかけて球を取り出すほうが良い。 そのようにすれば安定的に攻撃することができて、ボールを奪われてもすぐに逆襲にあわない。 また、突破力が良い選手を左右サイドで前に出してサイド攻撃を円滑にした。”

-それでも監督が別々にいるから選手たちが紛らわし思わなかったか?

“その点が問題であった。 1年後監督を引き受けることにしたが監督の指示と混線がある時があった。 また、選手たちは新しい方式のトレーニングと戦術を信じることができなかった。 チームを新しくさせるためにはまず選手たちの混沌から捉えなければならないと考えた。 シーズン中盤以後から選手たちと個人面談をたびたびした。 その時私がどんなチームを作ることで、各選手たちがどんな役割をしなければならないかを詳しく説明した。 その時の日信じてついてきた選手たちは今でも主軸選手として残っている。”


-抵抗する選手がいたと聞いた。

“今はチームの主軸である豊田陽平選手が訓練方式に不満を持ったことがあった。 抵抗までではなくてハプニングだった。 一日は私が審判の役割をして練習試合をさせたが豊田が守備選手の足につまずいた。 私は試合を続行したが豊田が口で笛を吹いて試合が突然中断された。 選手たち大部分が新しい練習方式に苦しがった鋭敏な時期であった。 私は豊田選手に近付いて何かご用かといった。 彼は「反則なのになぜホイッスルを吹かないのか」として問題を提起して、私は「試合では審判が見えなくて倒れてもそのままプレーしなければならない。 それがプロだ。 このように訓練するには君が監督をしろ」としてホイッスルを渡した。 豊田は慌てて再び試合を続行した。 その時私もちょっと強く出て行ったが、誤った行動は明確に指摘しなければならなかった。 その選手は後ほど別に呼んで私の意図を再度説明して感情をほぐした。”

ユン監督は選手時代、多少内省的で鋭敏な性格で知られた。 選手たちが集まった席でも口数が多くなくて、監督に先に近付く性格でもなかった。 1998年ワールドカップ当時韓国国家代表チームを導いたチャ・ボムグンSBS解説委員は当時韓国サッカーの未来だと指を折って数えたユン・ジョンファン、コ・ジョンスを示して「コ・ジョンスは性格が快活で話をすれば受け入れられたのかそうでないのかが分かるが、ユン・ジョンファンは内に秘めていくスタイルなので話をしても受け入れたことかそうでないかを知ることはできない」と話したりもした。 ユン監督の妻は「夫はとても徹底して鋭敏な人」と評した。 彼は意地が強かったが心中をあまりさらけ出さない性格でもあった。 2002年ワールドカップ直後「ハンギョレ」とのインタビューでも「私は(痛みがあっても)の中にしずめるスタイルだ。 項上の中に一人でしずめる。 そのためか(当時ワールドカップ)試合が終われば後頭部が重苦しくて頭が痛かった」と話した。 サガン鳥栖でも彼の一本気の気質は相変わらずだ。 選手時期からチームと選手たちを注視して自分それなりの構想と計画をたてた。 だが、これを実行する方式は違った。 選手たちに先に近付いて対話して苛酷な体力トレーニングを監督である彼も共に受けた。

彼のトレーニング方式に不満が多かった豊田はもうチームの主軸だ。 1部リーグ昇格初年度に19ゴールで全体で得点2位、昨年には20ゴールで得点3位を記録して日本代表チームにも選抜されたが今回のワールドカップでは惜しく最終23人名簿に含まれることができなかった。 豊田は「ハンギョレ」とのインタビューで「初めてユン監督が赴任した時は、訓練方式や戦術などにいぶかしい大きな課題が多かった。 訓練量も過度に多かった。 果たしてこのようにしてチームが良くなれるか疑問が大きかったが今はユン監督について行けば間違いないと考える」と話した。 彼は去る2年間日本と中国のプロチームからより多くの年俸とプレー機会を保証される条件で招聘の提案を受けた。 だが、彼は相変らずサガン鳥栖の主力攻撃手として残っている。 理由を尋ねる質問に彼は「ユン監督に義理を守りたかった。 より良い待遇を受けることよりユン監督のようにプレーすることがさらに価値があると考えた」と答えた。

ユン監督が作ったサガン鳥栖のチームカラーはインタビュー一日前である5月17日大宮アルディージャとの試合でも如実にあらわれた。 この日の試合はサガン鳥栖は0-1で引きずられて行ったが、試合終了20分余りを残して一方的に追い詰めた。 結局後半38分ペナルティーキックを成功させて同点になった。 残った10分余りの間にもサガン鳥栖は攻勢を止めなかったが、結局引分けで競技が終わった。 この試合前までリーグ1位を走ったサガン鳥栖は同日勝利した浦和レッズに勝点1点差で押し出されて2位に降りてきた。 だが、相変らず先頭圏で優勝に向かって競争している。

-昨日試合を見ると試合後半に強い体力を基に相手を圧迫することが印象的だったよ。

“私たちのチームが後半に行くほど強いということは今は日本国内で有名だ。”

-監督が選手の時にしたプレーとは差があるようだ。

“私も初めにはパスサッカーをしようと努力した。 私がそのようなサッカーを楽しんだし、好きなチームも精密なパスで良いプレーをする英国プレミアリーグのアーセナルだった。 だが、私たちの選手たちに合うサッカーではなかった。 多くの日本チームはパスをしながら前進するが、私たちは前へパスしてそこでこぼれ落ちる球を捉えて攻撃する。 私たちは相手陣営から圧迫するので選手たちの個人技量が良い名門チームもサガン鳥栖と試合をすれば困りきった。 その結果簡単に負けないチームを作ったし、選手たちの敗北意識も追い落とすことができた。 これはヒディンク監督のオランダ サッカーから借用した部分もある。 これからは鋭いスルーパスなど技術的な部分もさらに練磨するだろう。”

ユン監督が新しい戦術を適用した赴任初年度にサガン鳥栖は2部リーグの22チームの中で2位を記録した。 チーム歴史上初めての1部リーグ昇格だった。 1部リーグに飛び込んだ初年度である2012年チーム総年俸は51億ウォンに過ぎなかった。 伝統の強いチームである浦和レッズ(272億ウォン),名古屋グランパス(313億ウォン)等に比較すれば5分の1もならない水準だ。 だが、サガン鳥栖は強いチームを連破してシーズンずっと上位圏にぐるぐる回ったし、シーズン終盤までリーグ3位まで与えられるアジアチャンピオンズリーグ(ACL)出場権を争った。 だが、終盤の二つの試合で続けて敗北してリーグ3位であった浦和レッズに勝点2下の5位で終えた。 その成績も2部リーグで昇格したチームが記録した歴代最高順位であった。

-鳥栖は小さい都市だがサッカー熱がすごい。 通りごとにサガン鳥栖旗がかかっていて、食堂ごとにチーム ポスターがついている。

“今はサガン鳥栖が九州で唯一の1部リーグ チームだ。 九州に8個のサッカーチーム(注 正しくは9つか)があるがサガン鳥栖を除けば今は全て2部、3部リーグにある。 ここに市民はサガン鳥栖に自負心を持っている。 初めてこちらにきた時は日本の人々間でも「鳥栖がどこにある都市なのか」分からない人々が多かった。 だが、今はサガン鳥栖がリーグ1,2位を争うので日本で鳥栖という地名を分からない人は殆どない。”

5月17日午後鳥栖では家族単位でスタジアムを訪ねる人々が多かった。 ユニフォームを着た子供たちは両親の膝を上がっては下りたり、車椅子に乗って来た障害者も目についた。 時々刻々歓呼して惜しむ声があったが(注 Kリーグの一部のクラブと違って)大きな音響装備やチアリーダーはなかった。 この日スタジアムを訪ねた韓国人ソク・ジヌン(51)さんは「家族単位でスタジアムをたくさん訪れるので韓国とは応援文化がちょっと違う。 さらに物静かで試合観戦に集中する雰囲気」と話した。 幼い子供らとスタジアムを訪ねたツツミ ナオキ(47)さん夫婦は「ユン監督がきて試合毎に期待できる。選手の時から胸がとても熱い人であったのに、今は冷静な戦術家の風貌も感じられる”と話した。 チームバスの前で豊田選手のサインをもらおうと待っていた中山(43)さんは「今日勝つことができるチャンスが多かったが引き分けて惜しい。 それでもJリーグで1,2位争いをしているというのが本当にすごい。 鳥栖市民は相当に自負心を持っている。 ユン監督がきてこのすべての変化が始まった」と話した。 選手たちのユニフォームを販売するショップの職員クキモト アイカ(18)さんは「毎年ユニフォームに彫られるスポンサーとデザインが少しずつ変わるのにファンたちはほとんど毎年新しいユニフォームを購入する」と伝えた。

-幼い時に本でサッカーを習ったと聞いた。

“小学生の時期、ボールを本当によくけりたかった。 その時サッカー協会から発刊されたサッカー基本技に対する本を誰かからもらった。題名が思い出せないけれどその本にはサッカーの基本技と戦術的な部分がぎっしりといっぱい詰まっているように記されていた。 その本を中学校の時まで毎日見て練習した。 本に出てきた通りドリブルとトラッピングをしてボールを蹴った。 高等学校の時からはイメージ トレーニングをたくさんした。 幼い時部屋に横になれば天井がサッカー場と似た比率の長方形だった。 そこに仮想でフォーメーションを作って浸透パスをどのように入れてこそ守備陣を崩すことができるかを想像したりした。 サッカーをする夢をたくさん見て狭い部屋で一緒に寝た兄たちをゆめうつつに足でたくさんけった。(笑い)”

-イメージ トレーニングが格別なパスの秘訣か?

“どのような事物や状況を観察する時も、意識的に他の観点で見ようとすることが幼い時から習慣だ。 例えばバルセロナとある弱いチームが試合をするとしよう。この場合多くの人々はバルセロナの派手な攻撃に集中する。 だが、私は弱いチームを注視する。 どのように対応して戦うのか、よく防いでいれば秘訣が何か、崩れていれば何が問題なのかを観察する。 そのような性格がプレーにも影響を及ぼすようだ。”


-今日のユン監督を作った指導者は誰か?

“キ・ソンヨン選手のお父さんであるキ・ヨンオク 前錦湖(クムホ)高校監督が恩師だ。 その方を通じて初めてサッカーに目を開いた。 キ監督は考えるサッカーを強調した。 他の方向を眺めてパスをしたり視野を広く見る訓練を集中的に受けた。 1996年アトランタオリンピックで代表チームを導いたアナトーリ ブイショベツ監督と初めてのプロチームだった富川(プチョン)油公(注 現済州ユナイテッド)を導いたバレリー ニポムニシ,二人ののロシア監督のおかげで今日の私があるのだ。”

ユン監督は選手時期韓国サッカーを一段階引き上げたと評価される「ニポチュック」(ニポムニシ サッカー 注:チュック=韓国語でサッカー)の核心だった。 ニポチュックに魅了されたファンたちは1995年国内最初のサポーターである「ヘルメス」結成したし、初期サッカーブームを導いた。 ヘルメスは2006年に富川エスケイ(SK)が済州(チェジュ)へ縁故地を移して応援するチームを失うとすぐに十匙一飯で力を集めて2007年市民クラブ「富川FC 1995」を創立した。 この球団は2008年アマチュアリーグであるK3リーグに参加して、2012年末にプロサッカー2部リーグであるKリーグ チャレンジに正式に登録した。 ニポムニシとユン監督が作った富川油公の遺産が今でも続くわけだ。

-韓国サッカーが良い成果を出したりもしたが、学閥・人脈で形成された派閥が問題という指摘もある。 同意するか?

“派閥が明確にあって影響力を及ぼす。 表面に現れないだけであって、内部では多くのことが起きる。 私は学閥が殆どない地方大を出た。 地方大出身で国家代表になるのも難しいことだが、選手はある程度実力で克服することができる。 指導者になれば派閥の影響をさらに多く受ける。 日本で指導者生活を始めたのもそのような影響がある。 ここで成功して実力を認められて後に韓国でも指導者生活をしたい。”

-今後の目標があるならば?

“選手の時にも国家代表が目標だったように、今でも同じように国家代表チーム監督が目標だ。 後に年を取れば幼少年サッカー教室を開いて子供たちを教えたい。”

-サガン鳥栖というのはユン監督にとってどんな所なのか?

“人生の勉強をするようにしてくれたところだ。 頭の中の構想を現実化して、目標にしたのを達成する経験をするようにしてくれた。監督をする間にサガン鳥栖が名門チームへ跳躍するための軸を用意したい。 今はサガン鳥栖でプレーしたい選手たちが相当に多い。 このような時、良い選手たちを育てて少しだけ基盤を定めれば10年、20年と1部リーグに留まる名門チームになることができる。”

-ユン監督のように代表チームに選抜されてもワールドカップにプレーすることができない選手ができるならば、何の話をしてあげたいのか?

“その心があまりにも大変なことということをよく分かる。 だが代表チームに選抜されたことだけでも光栄なことだ。 試合でプレーしなくてもチームに役に立つことは明確にある。”

-最も尊敬する人は誰か?

“ヒディンク監督とニポムニシ監督だ。”

-本人に大きい痛みを与えたのにヒディンク監督を最も尊敬するか?

“その時は空しい心があったが、その方に本当にたくさん習った。 選手に動機を付与する能力は卓越する。 2002年当時にも私に「(疑問を持っていた)体力がこれ以上問題でないと考える’と話してさらに熱心に訓練するように促した。 私もそのような話を聞いてさらに期待感を持って熱心に訓練に臨んだ。 たとえ結果は良くなかったが、ヒディンク監督が選手に近付いて動機を付与しようと努力したという点は明らかだ。 私もそんなにチームを上手く導く指導者になりたい。”


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ありがとう (名無し)
2014-06-19 21:03:23
ユン監督の監督にかける思いの背景が良くわかる記事ですね。ハングルが読めないのでありがたいです。またユン監督関連のニュースがありましたら、ご紹介をお願いします。
返信する
どういたしまして (せたがや)
2014-06-24 22:57:49
どういたしまして、
正直読みづらいところも多くなって恐縮ですが・・・
私にとっても発見が多い記事でした。
一般紙の一面に扱われる、とても貴重なケースでした。
また何か注目記事がありましたら、ご紹介いたします。
返信する

コメントを投稿