クラージュせたがや ~Courage Setagaya~

元はベルマーレ応援サイト「STweb」の別館で2005年7月開始も、2010年12月の韓国赴任を機に半ば休業中。

(日本語訳)あなたの知らない”タックルマシン”ハン・グギョンのすべて

2013-11-08 02:45:51 | 湘南ベルマーレ(ニュース)
韓国の「FOOTBALLIST」というサイトに、ハン・グギョンへのインタビューが掲載されていました。
その日本語訳を拙いながらも以下に記します。

(元の記事のURL)
http://footballist.co.kr/bbs/board.php?bo_table=press&wr_id=6131

(以下、日本語訳)
[人(イン)サイド]あなたの知らない”タックルマシン”ハン・グギョンのすべて

人々は顔に関心が多い。 顔の屈曲と線そして姿に多くの意味を付与する。
だが、その顔が数多くの過去が積もった結果、過去の反映であるという事実には無関心だ。
ハン・グギョンという選手がブラジルとの親善戦に先発で出場して休むことなくタックルで
球を奪ったという事実には熱狂するが、どのように球をよく奪取する選手に成長したのかに
対しては関心がないのも同じだ。

タックルマシン.ハン・グギョンが最近代表チームで得たニックネームだ。
これは現在の顔だ。 過去のハングギョンが高等学校と大学校の時
ジネディーヌ・ジダン、リオネル・メッシのような10番を付けたし、
1998年フランスワールドカップでジダンの活躍に魅了されてサッカーを始めたと話すならば
嘘だと考える人々もいるだろう。
ドリブルに長けていたし、ゴールもしばしば入れた選手だと話すならば
「冗談 本当に上手だね」と鋭く言い放つ人もいるかもしれない。

ハン・グギョンが幼かった時から今に至るまで毎日毎日自ら組んだ計画のとおり生活してきたし、
日本で栄養補充を充実させるために夕方を二回食べていると話すならば「似合わない」という返事が
帰ってくる可能性が大きい。 だが、これら全部が「タックルマシン」という現在の顔の陰に
辛抱しているハングギョンの真の姿だ。 私たちは一種の誤解をしてきたわけだ。
すまないと思う必要はない。 「フットボールリスト」という日本、平塚 現地で
ハン・グギョンに会って読者らより先にそのような経験をしただけだ。



- 2010年に満20才の年齢でJリーグに進出した。 契機は何だったか?
ムンソン高等学校の時 監督とコーチがミッドフィルダーで成功するには日本でプレーするのも悪くないと話した。
日本で良いミッドフィルダーが多くて体系的によく教えるという話を聞いて当時から関心があった。
崇実(スンシル)大学校進学の前にも提案がきたが、すでに大学進学を約束したので
日本に行くことができなかった。 大学1学年の時再び提案がきて決心を固めた。

- Jリーグ進出4年目だ。 日本で生活しながら最も難しいのが何か?
離れて一人で出てきて生きているので、食べるのが最も大きい悩みだ。
球団で結婚していない選手たちのために高級ビュッフェ(バイキング形式)食堂と契約がされていた。
そちらで食事をする。 ある食堂にずっと行けば飽き飽きするので時々は違う所へ行って食べる。
(Jリーグで)そのようなシステムはうまくいっている。
リーグ システムまでは分からないが、Jリーグは選手一人一人を重要に思うようだ。
運動にだけ専念することができるようにしてくれる。 サッカーシューズまで管理してくれる。

-大学校生活をして外国に進出してプロ生活をすれば衝撃がすごいという話を聞いた。
 そのような衝撃は大きくなかったか?
すべての生活自体が違った。 練習が終われば一人であらゆる事を解決しなければならなかった。
練習時間が長くももなかったし、残りはみな私の時間だった。 不安だったりもした。
「こんなに時間がたくさん残ってもかまわないか」という気がした。
それで一つ一つ計画をたてた。 夜ごと個人運動をしなければならないと決心した。
そして食事も上手にするべきだという気がしてどうにか夕方に二食を食べようとした。
ホンミョンボ監督が以前に「若い選手たちは日本に行けばコンビニ弁当を食べてサッカーする’と話された。
栄養補充が重要だという話であった。 それでどうにかつまみ出そうと努力している。

-お母さん、お父さんとともに生活するのではないか?
わざと来られないようにした。 父は忙しくて母一人とおられるべきなのに、
私が訓練と競技を繰り返してしまって 万一遠征でも離れれば
一人でいらっしゃらなければならない状況だった。
そんなことが嫌いで一年に2~3回程度仕える。
初めには寂しく感じてらっしゃいましたが、今はその心を皆知って理解してくださっている。

-生活的な部分の外は危機がなかったか?
初めにきた時はチームが2部で、J1にいた時はゲームでよくプレーできなかった。
エントリーにも簡単に入れなかった。 個人的にはなぜ私がプレーできないのか理解できなかった。
とても気に障った。 1年目の時は本当にひどい目にあった。
監督(反町康治、現松本山雅監督)に練習中に「韓国に戻れ」という話も聞いた。
その監督が日本でオリンピック代表チーム指揮棒まで執った方であったのに
厳しいことで有名だった。 たくさん指摘受けて、「むいて」、傷つきながら成長したようだ。
それをその次のシーズンに入って感じた。 まだ思い出すのは、ある日練習中に
「お前は夢遊病患者か?」という話を聞いた。「違いますが」と答えると
「なぜ考えないで動くんだ!」という言葉が返ってきた。
衝撃的だった。 今では感謝する。 その監督様を通じて強くなって成長した。
プレイスタイルも完全に変わった。

-プレイスタイルがどのように変わったか?
日本にくる前まで私はたくさん走ることもなかったし、私の前に来る球だけ処理しようとした。
パスだけすれば良いという感じだった。 1トップの真下で動く類型だった。
サッカーを始めることになった動機もフランスW杯でジダンのプレーに魅了されたためだった。
高等学校と大学校での背番号も10番を主につけた。 番号だけ見てもプレイスタイルが
分かるのではないか? 「ドリブルを滑らかに上手にする」という話を聞いたし、
「球が君に行けば期待できる」という話も聞いた。
だが、今はそのような選手たちを防いでいる。 その監督が変えた。

-変化が容易ではなかったはずだが?
初めは容易ではなかった。 「なぜ私のサッカーを無視するだろう」という考えになった。
だが、試合に出て行くためにはついて行くほかはなかった。 スタイルを完全に変えた後
監督が「俺はお前の攻撃的才能より守備的な才能を高く評価していた。 俺たちのチームに
守備型ミッドフィルダーが必要だったから変化を望んだ。
とても大変だったはずなのに良くついてきてありがとう”とおっしゃった。

-試合方法に変化を与えながらロールモデルにも変化があったようだ。
先に話したようにジダンを本当に好んだ。 ところが、今はそうした方よりは
情熱を傾けてとてもたくさん走る選手たちに魅了される。
ハビエル・マスチェラーノやジャミ・ケディラのようなやりくり上手に魅力を感じる。
(質問: 国内で自身と似た役割を消化する選手たちを挙げるならば?)
(パク・)ジョンウと少し似ているようだ。 ぴったり何ということはできないが、似ていながらも少し違う。
ファン・ジス選手も魅力的だと考える。 私ぐらいたくさん走りはしないけど、いなければならない所にいて
遮断しなければならない時にする。 それを経験といわなければならないのか? 私は本当に体で苦労するが、
(ファン・)ジス兄は頭をよく使われるようだ。 (笑い)

-スタイルを完全に変わった後「完成された選手」になったと感じた時はいつだったか?
正確に感じたことはオリンピック代表チームに初めて招集された時だった。
代表チームに入るとボールを上手く蹴ってサッカーが上手な人が多かった。
しかし、私のようなスタイルは珍しかった。 希少性があると考えた。
このような方式でもっと発展しなければならないと考えた。

-守備型ミッドフィルダーで巡航したがロンドンオリンピックを前に負傷でもう一度挫折を体験した。
大会が始まる1か月半で、2ヵ月前ぐらいにX線を撮ったが足にひびが入ったのが出てきた。
当時医師がテーピングと治療で十分に参考運動をすることができると話した。
それでその話を信じて運動を継続したがますます状態が激しくなった。

-大会開始前に結局脱落した一方で大きい論議もあった。
英国は芝がすべりやすくて「鉄桑(金属スタッド)」サッカーシューズを履いたが、
それが足にはるかに良くないといったよ。
オリンピックが目標だったために熱心に準備したがある日結局(足が)折れた。 夢が飛んで行き本当に絶望的だった。

-個人的な心情は理解するが、チームのためにははやく交替を
要請していなければならないという指摘もあったが?
適切な言葉だ。 だが、偶然の幸運を望んだのではなかった。 医師の診断もそうだったし、
私も終わる時までは問題がないと思った。 薬を飲みながら治療すれば持ちこたえることができると思っていた。
事がそうなった後に人々の非難は甘受した。 何のためにそのような話を聞くのかよくわかっていた。



-手術後予想より復帰がはやかった。
手術後で3~4ヶ月程度を予想したがぴったり2ヶ月ぶりに復帰した。
回復速度が速くて医師も驚いた。 “良い身体を譲られたご両親に感謝しなければならない”という話を聞いた。
はやく帰って来たくてリハビリを熱心にした。 心が本当に重要なようだ。
早く治りたいという気持ちで努力すると本当に回復がはやくできた。

-代表チームにも予想よりはやく抜擢された。
(チェガンヒ監督は2013年6月「2014ブラジルワールドカップ アジア地域最終予選」 3連戦を控えて
ハン・グギョンを呼び出した)
チェ・ガンヒ監督がそんなに早く代表チームに呼ぶものだと考えることができなかった。
ホン・ミョンボ監督が就任した後にも特別な期待をしなかった。 準備だけよくしておこうと念を押していた。
そのような中で招集ニュースを聞いた。

-最近代表チームで引き続き競技に出ながら「タックルマシン」というニックネームまで得た。
それこそ熱い関心を集める選手になったが?
異常に代表チームに入るたびに負担感が大きかった。 萎縮して緊張した。
私が見ても「なぜこの程度のしかできないだろう」という気がするほどであった。
心が乱れていた。 クロアチアとハイチ戦を経験しながら少しずつ安心するようになった。
私はどうせ失うことがない選手だと考えた。 ここでできなければ所属チームで戻って再び熱心にすれば
良いと考えて試合にでた。「見せられるものだけ見せよう」で自ら注文をした。
ブラジル戦にはさらに緊張を解いた。 ブラジルが私たちより上手にプレーするのは世の中が皆知っていて、
私たちは挑戦する立場だった。 気楽に競技した。
(質問: ブラジルが本当に上手にプレーするか?)
本当に上手! 表情も余裕がある。 どの瞬間にも慌てなかったよ。
個人技量が優れて1対1ではとうてい防げないという気がした。

-そのようなブラジルを相手にタックル実力で注目を浴びた。
ブラジル戦で守備的な面には後悔が残っていない。 しかし球を奪い取った後に展開やそのような部分は惜しかった。
守備的な部分は予想したとおりであった。
(質問: タックルをするノウハウがあるということなのか?)
計算する部分はない。 タッチが長かったりドリブルが長ければ、逃さないで入っていかなければならないと考える。
事実ホン・ミョンボ監督はランニングディフェンスを追求されるので、完ぺきではなければ入るまいと決心している。
だが、その日試合は異常にそのような状況がたくさん出た。

- Jリーグでもタックルで注目を浴びていたか?
ここでは「どのようにファールなしで球をそんなによく奪えるか?」という質問をたくさん受けた。
タックルよりも相手選手の球をファールなしで奪う部分は認められていた。 何も特別なノウハウはない。
私たちが相手の球を速く奪ってこそ攻撃チャンスがたくさん出るのではないか。 そのような気持ちで熱心に走っている。

-ところで韓国では「タックル」といえばこすれたイメージが先に浮び上がるのが事実だ。
事実ハン・グギョンの方式はそうではないが?
相手方をケガするようにしようとタックルをしたことはない。 球を奪取するためにタックルをすることだ。
荒いという考えはしてみたことがない。 ここでもこすれた選手に分類されない。

-長い時間インタビューに応じてありがとう。 今年のシーズンが終われば自由契約身分になる。
移籍と残留の中でどんな選択をする予定か?
ヨーロッパ進出が夢で目標でもある。 だが、最も近い目標はワールドカップ本戦出場だ。
急激な変化を与えればワールドカップに出て行けない危険性もある。 具体的に話す段階ではないが、
大きい変化を与えはしない考えだ。

-ヨーロッパ リーグのうちで最も魅力を感じる所はどこなのか?
イングランド プレミアリーグが好きだ。 ところで最近ドイツ ブンデスリーガにも魅力を感じている。
今監督がとてもドイツサッカーが好きだ。 ドルトムントというチームを主題でミーティングをするほどだ。
度々見ると少しずつ魅了されるようだ。 本当にヨーロッパに進出したい。