ぶらいやWATTY 探求の泉

人生も残り少なくなってきたので、単なる近況報告となります。

【妄想】転生と人生中の変位

2024年03月24日 10時51分02秒 | 妄想
諸々の因縁により環境は変遷していく。
ひとつの人生の中でも環境は大きく変わり、昔の常識とやらが今は通用しないこともある。仕事中でも注意・指導の範疇のはずなのに、パワハラ扱いになるから止めてくれと言われたこともあり、納得できないのでその職を辞したこともある。
一応、人事課や組合相手で「何が駄目なのか説明してくれ」「(私は自他共に甘い人間であるのだが、その私ですら我慢できないので)指導とパワハラに関する議論はできないのか」と尋ねたこともあるが、彼らはただただ揉め事が嫌なだけと悟り、こんな有様だから、日本では「信仰や思考の純化」も覚束ないし、ろくな教育も外交もできないのだと再認識して落胆もした。騒乱さえ無ければ問題が無ければ良い。真面目にやることが馬鹿らしくなるだろう。

さて、自分のことはさておいて、(多分、その実態について認識は異なるのでこの用語は使用したく無いが、使わないと説明できないので)輪廻転生中の各世や現世で、生活環境の善悪基準が大きく変動することもある。
通常、一般市民規範は人であるならば原則、法令等を含め同じ刑罰・制裁が課せられるべきであり、身分や立場によって違ってはならない。属する会社や組織によって違ってはならない。同じ罪には同じ刑である。特別区域を設けるにしても根拠等も含めあらかじめ明文化するべきである。
さて、この発想はどこからきたのだろうか。
学問的には、禁欲的プロテスタンティズムにより、誰でも平等に通用する唯一の規範が只の題目だけでなく厳しい禁欲的要求と実践をもって培われた。
カルヴァンのジュネーブは食欲や性欲、あらゆる欲望を断ち、日々の勤労に励み、質素に暮らす。この禁欲的な職業倫理を守ることで、カルヴァン派の人々は「今日一日、罪を犯さずに済んだ」と安心し神の救いを得るという確信に一歩近づくのであった。
日常生活の全てを信仰と労働に捧げる「世俗社会の修道院化」によって近代資本主義や科学的合理的精神が生みだされるのだが、それは今ここの本論でないので(私以外の)他の機会に譲る。

折角、築き上げられた誰でも平等に通用する唯一の規範が宗教、キリスト教プロテスタンティズムの希薄化、日本においては「天皇教」残滓の消滅やカルト的非文規範の創設、多文化主義・多様性尊重によりゴナゴナに砕かれている最中である。

(ここから妄想域)
輪廻転生では六道輪廻といろいろな世界を転生することとなっている。各界の具体的描写はバラモン教などの古代インド思想から取り入れて説明に用いているが、おそらくはそれぞれの規範は異なっており、動物の世界を見たらわかるとおり弱肉強食は当然で殺すことが罪でない世界もある。修羅の世界だ。
自分から見て外界の規範は異なるが、一つの生においても規範が変わることはありうる。戦争の前後とか。軍国主義から民主主義。精神世界も。但し肉体という桎梏のため心は完全に自由でなく、ある程度は固定されているが。
外面的善悪基準は変遷する。
社会のグレイドが上がると外面的善悪基準は変わり規範も変わらなければならぬ。霊界なるところと異なり、物質世界においては霊格なるものがなく表面的人格で判断するしか無いので、雑多な人達が入り乱れ、本来は文明の「果実」を得る資格の無い者が享受してしまう。内面は普通は外面に出るものだが、醜悪な内面を徹底的に隠し通す人も居る。本当の知恵者なのかもしれん。簡単に内面が表面に出るやつは賢くないとも言えるが、わかりやすいからそのほうが助かる。
成人式は儀式的でなく、そこで再度「社会契約」を結ばせ、何らかの誓いが要るものにして、どうしても契約したくない奴(そんな人は居ないと思うが)は死なせるなり国外追放(遠島申し付け)すれば良いのではないか。
あらためて自分が日本社会の構成員と心に刻む機会が無ければ、一般市民規範と遵守しようと意思をもつことさえ無かろう。

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