長年生きてきて、ものすごく楽しいことなど無かったけれど、時偶、嬉しいことや心温まることはあった。周囲の期待に応えられることは概ねできなかった。
今頃は世界を股にかけて大活躍して、偉業を成し遂げて引退の準備に入り、南国のプールサイドで美女を3人ばかり侍らせて「たまには日本のことも思い出してやるか。」とトロピカルジュースを飲んでいたはずなんだが、無惨にも床に臥してしまっている現状である。
前置きは長くなったが、自分の世界観というのはやや乱暴に述べると、古代原始仏教とスゥエデンボルグの世界を融合させたものがベースで、後は経験により色々と付加されているものである。幼少のときから、"本当の"世界とはどういうものか、とあれこれ悩み書き留めてきて、ああでもないこうでもないと修正や何度も思考を繰り返してきた結論がたったそれだけで表現できてしまうとは虚しいものである。幼少のときはノート、青年期はルーズリーフ、成人になってからはワープロ専用機やPCのHDDに蓄えてきたものが自身の錯乱で消失してしまったのは残念無念である。
(以下5/7追記)
「霊界の太陽」「法(ダルマ)」なる力の根源なるものがあり、秩序を保ち「霊界」なるものを形成して「物質界」が「霊界」の想念や想像力でその一部として造られているとして、輪廻転生を考えたとき、問題は「霊界」と「物質界」の関わり方がどうなっているかということである。
幼少のとき、初めて輪廻転生の考えを知った際、個人の肉体が滅したとき霊体がすぽっと抜けるというイメージだったし、おそらく実際も当初はそうなのだろうが、何か物足りないとか違和感を感じていた。
私もこの齢となり、数多くの意見や考えを見聞きしてきたが、未だに全貌は実感できず文字通り「死んでみなければわからない。」とある意味「死」を期待しているのだが、今度は、死んでしまうとまだ生存している他者に状況を容易に伝えることができなくなるという悩ましい事態が待っている。
しかしながら、死んでしまうということは、老齢においては不具合や故障・劣化した肉体や、生存時の負担(借金など)や苦痛も捨てていくので、過去への未練や残してきた者達への心配が無ければ、持てる能力(思考力)を発揮できるのでとても快適に旅立つことができ「君達も死ねばわかるさ」「とりあえず生けるところまで生きてくれ」と爽やかに新しい旅とか配役の舞台に向かってもらいたいものだ。
ただ、ひとつ確実なことは、その人そのものはそこで完全に終わるということだ。そして、その人の言を聞くことは二度と叶わない。思考として飛び込んでくることはある。けれども聞きたい人が聞けるということもまず無かろう。
正確にいうならば、生存中でも人は少しずつ移り変わって、細胞等の死滅や入れ替わりしながら、常に新しい存在に変わっているのである。
死亡時には細胞DNAなど肉体全体や社会環境ともお別れで肉体的に完全に終わり、霊的な面でも因縁は剥げ落ちていく。
(執筆中)