昨日西城秀樹さんの告別式があり、遠方で駆けつけられない私は残念ながらネットでその様子を観た。
1万人以上の参列者が青山葬儀所を訪れたそうで、私が行って熱心・熱烈なファンの邪魔をしなくて良かったと思った。当時幼すぎて財力が全く無かった私ではレコード1枚買えなかったもんな。
今はベスト版持っているし、レンタルでも借りてダビングしたものもある(CD-Rは紛失中だが)。
しかし、本当に彼の死は予想以上に堪えた。
あの輝いていたスーパースター、スーパーヒーローでさえ死を迎え、しかもその葬儀の様子を見届けなくてはならないとは。
自分も当然同じだけ歳をとり死を迎えることに恐れや困惑を感じるとは。
時間が経ち、自分を自分で有らしめたものが徐々に消えていくことを実感するとは。
私の人生など取るに足らないつまらぬもので、誰にも影響力もなく、自分自身も不本意で全く充実したものでないのだから、さっさとこの人生が過ぎ去ってしまえばいいとは考えていたので惜しいという気持ちは無いんだけど、一つ一つに終わりがあることに何らかの虚しさ、切なさを思い、石のように心も体も固まってうずくまりたくなる。
まあ、本日で彼を偲ぶのは一旦やめる。私はまだ生きていかねばならないからここでうずくまっていることはできない。
西城秀樹さんは本当に情熱と眩しさ、才能の塊みたいな人だった。晩年は健康を害して苦痛に耐える人生で、若い頃の不摂生や無理なリハビリを指摘する発言も聞かれたが、それらもやむを得ないと思う。
あの才能はどこからきたのだろうか。彼が西城秀樹として誕生する前から備わっていたとしか思えない。
彼に限らず才能溢れる人達を見ると、神の摂理や輪廻転生を信じたくなるから不思議だ。
清原和博さんや沢田研二さんみたいに、才能を早期に枯渇させたり放棄したりする人達もいる。
覚せい剤とか浪費、急に過度な思想に走り「膝がガクガク ホーホケキョ」(屋久島MAY)と歌い顰蹙や失望させたりしている。それは彼らの人生だから好きにすれば良いだろう。ただ、法律違反やファン軽視・無視には、相応の報いを受けなければならぬだろうけれども。
もし仮に転生というものがあるなら、松田聖子さんや沢田研二さんは来世ではスーパースターで無いだろうし、そのほうが本当の幸せを知る可能性もある。西城秀樹さんは来世でも再びスーパースターになるような予感もするが彼がその座を選ばないかもしれない。しかし、本当のスターは周囲が放っておかないというか盛りたててくれるというか、いつのまにか輝く存在になっているものだ。
そこに仏教でいう「縁起」を思い浮かべてしまう。スターとかヒーローはその人の才能だけでなく、周囲の人達の力とか時代に愛されているという表現のごとく時代・環境・支持者もセットになっているものだ。
おそらくは内面の世界、精神世界を充実する人生になるので、傍から見たら、世間への露出が少なくパッとしない人生かもしれないが、より精神的には満たされたものになりそうとも思う。2時間しか寝られない、遊ぶこともままならない、分刻みの多忙な人生が本当に幸せとは思えないからだ。
私にもスウェデンボルグやエドガー・ケーシー並の力が有ればよかったんだが。まあ「自分こそそうだ」という詐欺師・妄想族は沢山いますがね。そのような輩には、まず自分に取り付いた悪霊か病気、虚栄心を追い払ってもらうのが先だろうと罵りたくなります。
いや、本当にある程度の超能力があっても破綻・破滅する場合がありますから(前述のスウェデンボルグやケーシーですらそうだ、つまり根拠なき妄想が混じっているという説もある。人間を電波のレシーバーに例えるならその性能によって混信、不具合もありうるということかも)。
自分が高名な宗教家や大スター、神々の生まれ変わりという奴は、本当にそうならば、強力な味方・スタッフ、周囲、支持者、時代と環境などもセットのはずだから、いつまでも芽が出ないのは「紛い物」「嘘つき」「邪心者」と思って間違いありません。本当にそうであるなら、誰々の生まれ変わりなど語らなくても魅力や才能を発揮して輝く存在となっていきます。
西城秀樹ならどうするか、どうなるか。いろいろと妄想すると楽しそうだが、次は単なる歌謡スターでないかもしれない。何かの組織の長とスターを兼ね備えた存在の予感すらする。奴隷のように働かされることもなく、だが精力的に人々に物語や夢を訴えるような存在になってほしいね。せめて私の妄想の中で。さようなら西城秀樹さん。
1万人以上の参列者が青山葬儀所を訪れたそうで、私が行って熱心・熱烈なファンの邪魔をしなくて良かったと思った。当時幼すぎて財力が全く無かった私ではレコード1枚買えなかったもんな。
今はベスト版持っているし、レンタルでも借りてダビングしたものもある(CD-Rは紛失中だが)。
しかし、本当に彼の死は予想以上に堪えた。
あの輝いていたスーパースター、スーパーヒーローでさえ死を迎え、しかもその葬儀の様子を見届けなくてはならないとは。
自分も当然同じだけ歳をとり死を迎えることに恐れや困惑を感じるとは。
時間が経ち、自分を自分で有らしめたものが徐々に消えていくことを実感するとは。
私の人生など取るに足らないつまらぬもので、誰にも影響力もなく、自分自身も不本意で全く充実したものでないのだから、さっさとこの人生が過ぎ去ってしまえばいいとは考えていたので惜しいという気持ちは無いんだけど、一つ一つに終わりがあることに何らかの虚しさ、切なさを思い、石のように心も体も固まってうずくまりたくなる。
まあ、本日で彼を偲ぶのは一旦やめる。私はまだ生きていかねばならないからここでうずくまっていることはできない。
西城秀樹さんは本当に情熱と眩しさ、才能の塊みたいな人だった。晩年は健康を害して苦痛に耐える人生で、若い頃の不摂生や無理なリハビリを指摘する発言も聞かれたが、それらもやむを得ないと思う。
あの才能はどこからきたのだろうか。彼が西城秀樹として誕生する前から備わっていたとしか思えない。
彼に限らず才能溢れる人達を見ると、神の摂理や輪廻転生を信じたくなるから不思議だ。
清原和博さんや沢田研二さんみたいに、才能を早期に枯渇させたり放棄したりする人達もいる。
覚せい剤とか浪費、急に過度な思想に走り「膝がガクガク ホーホケキョ」(屋久島MAY)と歌い顰蹙や失望させたりしている。それは彼らの人生だから好きにすれば良いだろう。ただ、法律違反やファン軽視・無視には、相応の報いを受けなければならぬだろうけれども。
もし仮に転生というものがあるなら、松田聖子さんや沢田研二さんは来世ではスーパースターで無いだろうし、そのほうが本当の幸せを知る可能性もある。西城秀樹さんは来世でも再びスーパースターになるような予感もするが彼がその座を選ばないかもしれない。しかし、本当のスターは周囲が放っておかないというか盛りたててくれるというか、いつのまにか輝く存在になっているものだ。
そこに仏教でいう「縁起」を思い浮かべてしまう。スターとかヒーローはその人の才能だけでなく、周囲の人達の力とか時代に愛されているという表現のごとく時代・環境・支持者もセットになっているものだ。
おそらくは内面の世界、精神世界を充実する人生になるので、傍から見たら、世間への露出が少なくパッとしない人生かもしれないが、より精神的には満たされたものになりそうとも思う。2時間しか寝られない、遊ぶこともままならない、分刻みの多忙な人生が本当に幸せとは思えないからだ。
私にもスウェデンボルグやエドガー・ケーシー並の力が有ればよかったんだが。まあ「自分こそそうだ」という詐欺師・妄想族は沢山いますがね。そのような輩には、まず自分に取り付いた悪霊か病気、虚栄心を追い払ってもらうのが先だろうと罵りたくなります。
いや、本当にある程度の超能力があっても破綻・破滅する場合がありますから(前述のスウェデンボルグやケーシーですらそうだ、つまり根拠なき妄想が混じっているという説もある。人間を電波のレシーバーに例えるならその性能によって混信、不具合もありうるということかも)。
自分が高名な宗教家や大スター、神々の生まれ変わりという奴は、本当にそうならば、強力な味方・スタッフ、周囲、支持者、時代と環境などもセットのはずだから、いつまでも芽が出ないのは「紛い物」「嘘つき」「邪心者」と思って間違いありません。本当にそうであるなら、誰々の生まれ変わりなど語らなくても魅力や才能を発揮して輝く存在となっていきます。
西城秀樹ならどうするか、どうなるか。いろいろと妄想すると楽しそうだが、次は単なる歌謡スターでないかもしれない。何かの組織の長とスターを兼ね備えた存在の予感すらする。奴隷のように働かされることもなく、だが精力的に人々に物語や夢を訴えるような存在になってほしいね。せめて私の妄想の中で。さようなら西城秀樹さん。