「こんな歌なんて歌いたくないよ。」
古今東西、芸能界でのタレントの要望、悲痛な叫びはあった。
郷ひろみ、沢田研二、今も敬愛する西城秀樹ですら。チェッカーズもシブがき隊も。最近ではようやく念願叶って望む歌を歌っている氷川きよしさんもいる。
チャゲアスも本来は7人、BOOWYも6人だったのにメジャー・デビューには人数を減らされてしまったグループもある。
プロデューサーの眼力が正しいケースが多いのだが、芸能界での成功は限りなく厳しく理不尽だ。従ったとしても、必ずしも成功しない。タレント側の判断が正しかったのは私の認識範囲だとハロプロで、モーニング娘とかスマイレージ(現・アンジュルム)だな。メンバー増員が仇になり、それは避けられぬにしてもメンバーの意向に沿えば良かったのに、プロデューサー側がアホだったということもある。
得てして、スポンサーやタニマチ、実力・実績なき大御所の横やりなど摩訶不思議な圧力が入るとろくなことは無い。ファンの要望に敏感すぎるくらいのセンサーが必要である。
ここまで言葉不足であるが、大雑把に書いてきた。
さて、平野紫耀とNumber_iだが、要望どおり自由にやらせてみたらどうなったかという実験にふさわしいケースとなった。新規ファン、特に男性ファンもついたのだが、女性ファンほど添い遂げてくれるほどの情熱はない。
かなり売り上げを落としているとみられる。推定だと現在10万人強ぐらいか。
あとは販売形態(なんとか版別)を掛けるとダウンロードやDISC販売数になる。
楽曲・演出制作陣が比較的優秀なのだが、平野が「解体」している。
意欲・野心・自信は過剰なのであるが、芸能は聴く人あってのものである。
そして楽曲制作やプロモも全部自分でやれるならコストもかからず、先にカタチにできるけど、結局は頼り切りである。つまり、かなりの比重で他者への配慮や調和が必要なのである。その中で個性なり我を発揮しなくてはならない。
以下の部分はAIに任せたが、平野に任せてはいけない理由である。
平野紫耀という素材は“光りすぎるが、暴れ馬”
どんなに天賦のスター性があろうと、彼が単独で成し遂げられる芸能活動など皆無に近い。
🔻彼が“ひとりでやっていけない”根本的理由
1. 構築力・設計力の欠如
2. 言語化能力と対話力の欠如
3. 表現における自律性の弱さ
🔻「成功のために必要な条件」は、すでに逆行している
成功条件とはつまり:
(A)構想するプロデューサー
(B)演出に従う素直さと、信頼関係
これが両立してはじめて、平野紫耀という素材は“光”として昇華する。
しかし現状の平野は――
これは典型的な未熟な“反逆者症候群”の罠。
リード曲(推し曲)の歌詞、但し「HIRAKEGOMA」は除く、をみたら一目瞭然なのだが、下品・幼稚・怨み節(籠の鳥、見返したい願望)の列挙である。
広く世間に受け入れていないことは、世間のせいにする訳にもいかない。
それだと、世間にテロを実行したオウム真理教みたい最期 となる。
単に要望やニーズに合わなかったと諦観してもらうしかない。
アマチュア時代からバンド活動していたら、ファンの要望は皮膚感覚でわかるのだろうが、ずっと「帝国」「帝国内王国」育ったからわからないのかもしれない。釈迦は賢人だったから「王国」育ちでも「苦」に気づき、苦を超えるために王城を捨て、再び将来永きに渡り人々を救う世界を構築できた。
平野は、己の衝動によって“王国を壊しただけ”で、新世界を作れていない。今後も期待できない。
もっと率直に言えば、
平野紫耀は抑圧された檻の中でこそ活きるスーパースターである。
尤も、抑圧と見られているものは殆ど抑圧でなく安全装置である。
そういう観点からいえば、新日本プロレスでの"革命戦士"長州力と似ている。ただし輝き方は違う。長州はまがりなりにも新日本と全日本登場初期は「革命」装飾は効いていた。平野はキンプリ時代の貯金を食いつぶしていただけで、優秀なクリエーター達のおかげでなんとか「新世界」を演出しようとしたが、幼稚・下品・破壊的で嘲笑のほうが多かった。意欲だけは買うが。いや買わないか(笑)。