写真は、楽家七代、長入の黒楽茶碗です。
長入は1714年に生まれているので、
江戸時代中期を生きた人です。
物の本では、「個性のとらえにくい作者」とか
「あまり上手ではない」などと書かれています。
しかし、手にするとゾクゾクするものが伝わってきます。
最近は、楽茶碗大好き人間になってしまいました。
2006年10月のブリキ星通信では楽茶碗を、
「つくり手の思いの入り過ぎている茶碗 」は
重くて苦手といっていたのに、
どうしてでしょう・・・
モノとしての美しさでは李朝の茶碗の方が凄いと思うし・・・
茶臭がするといわれる唐津の茶碗の方が、
まだ自然なたたずまいだと思うし・・・
楽家当代の楽吉左衛門さんは、
“とても使いにくい茶碗をつくる人”
というくらいにしか、よく知らなかったのですが、
少し前の芸術新潮(2008年3月号) の特集を読んで、
心を動かされました。
ああそうだったのかと、通じるところがありました。
それは、楽さんと川瀬敏郎さんの対談
「茶碗と花の苦しみと楽しみ」で、
語られていた「切実さ」についてです。
楽さんは近代のつくり手のなかで、
加守田章二さんを「あの人には作家としての切実さがあったと思う」
と評価していました。
一方、川瀬さんが、
切実さ=哀れさから解放されたらどんなに楽になれるだろうか、
というようなことを言っていた気持ちもよくわかりました。
これを読んで、私の楽茶碗の見方が、
モノとしてだけからつくり手への共感へと変わっていったようです。
「ブリキ星」をオープンして、
絵や工芸の現代作家の展覧会を今まで100回近く続けていますが、
いつもそこからいただいている刺激は、作家の「切実さ」。
私が、代々つくられてきた楽茶碗に共感するのは
(勿論、すべてがではありませんが)、
絵を見るときと同じように、
そこから伝わってくる「切実さ」なのかもしれません。