北陸の天気は移ろいやすい。
2020年9月11日、「岩屋の大杉」を出発して40分、
福井県坂井市丸岡町の一本田へ到着した途端に雨が降り出した。
以前、佐多稲子の「夏の栞(しおり)」について書いた(No51. 2010年5月1日)。
「夏の栞」の後半で描かれている丸岡町一本田にある中野重治の墓と生家跡。
いつかは訪ねてみたいものだとずっと暖めていた土地である。
「夏の栞」を読み返すと、中野重治の遺骨が埋葬される一本田でのシーンはやはり心うたれるものがある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/5d/46863c361eacc81bff3f7d41f1601edc.jpg)
中野重治生家の跡
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傘をさして中野重治生家の跡地に立つ。
家は随分と前に解体され礎石が整然と並んでいる。
その並びから推測すると比較的大きな住居だったようだ。
敷地の右奥には中野重治の妹、詩人の中野鈴子の詩碑がある。
佐多稲子は「夏の栞」でこのように描写している。
”塚のように盛った台地に碑石をおいて、塚のぐるりを何かの灌木が囲っていた。「花も わたしを 知らない」と彫られた言葉は、そのあとに小さく、すゞこ、とあるように鈴子自身の詩の一行であり、字は卯女さんが書いた"
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/0a/3a886671e1543b2f65dca8296a119a39.jpg)
中野鈴子の詩碑
以下、「夏の栞」から埋葬の場面を引用する。
そして今回の旅で撮ったいく枚かの写真を添えた。
(略)
中野兄妹の生家の跡に私の立つのは、重治を埋葬するこの日で五度目になる。
地震後の荒壁の家にも泊っており、最初の、中野の選挙の折りは勿論、昔の家であった。
それぞれに残っている印象を記憶の内に重ねる中に「村の家」のいきさつがかすめたりもした。
中野家の墓地は、屋敷のうしろ側の道路を越した向うの田圃の中にある。舗装されたこの道路は、私の来た最初のとき、北陸本線と丸岡を結ぶ電車の線路であった。
その停留所の小さなホームに立って鈴子が、それを中野家の墓所だ、と指差したとき、一本の木を目印しに田圃の真ん中にぽつんとあるその地点は、湖の中に愛らしく突き出た小島のように見えた。その墓所のひとつだけかけ離れているのも、遠い由来によっていた。
中野家の墓地 「太閤ざんまい」
それは中野家の先祖が、太閤秀吉に直々に貰った墓所だという。
この地を見廻りに来た秀吉が、中野家の先祖の出した茶を喜んで、褒美をのぞめ、と云うのにわが身の埋ずまる場所を、と答えてその地を得た、という由来である。
鈴子の立話にそれを聞くとき私は、歴史上の人物の急に身近かになるのも、この地方の由緒かとおもいもした。
中野家のこの墓所を「太閤ざんまい」と呼ぶのは今も土地の人に残っているらしい。
「太閤ざんまい」が稲の植わった田圃の中にあるのは以前どおりだが、かつて1本の目印しに過ぎなかった木は、高く、深々と茂っていた。
道路から畦道へ入って百メートルほどの距離である。
原さんが中野の遺骨壷を抱き、卯女さんと耕太君、そして姪の能登素さんをはじめ、宇野さんと私かつづく。
墓地では中野全集の編集をした村上清さんと、名古屋在住の評論家の岡田孝一さんが待っていた。その人数はあくまでも内輪である。
が、墓地ではじめて婦人たちばかり十人ほどの村の人が、ひっそりと参集していた。
戎居君がこの墓地も整理して、埋葬に供える菊やりんどうの花々を用意している。
生い茂ったタブノキは包み込むように墓地を蔽っていた。
六、七基並んだ古い墓石の端しに並んだ、赤い肌の丈高な自然石が新しく建てられた墓石である。「中野累代墓」と彫ってあるのは原さんの筆跡である。
中野の遺骨はこの自然石の墓の下に納められる。その墓石の台石の下がすでに掘ってあった。
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中野家の墓所
その穴は直かに土である。原さんはその前に遺骨壷を抱いてしゃがんだ。
包みを解いた骨壷が蓋をとって、台石の上におかれる。原さんは、その壷の中に両掌を差し入れて骨を掬うと、その両掌を穴の内に移して、さらさらとそそぎ入れたのである。
それを見つめる周囲は、みんな無言であった。
が、私は胸の内で、声にならぬ声を上げていた。原さんはこれをしたかったのだ。骨は、掘った土の中にそのまま混り入る。中野重治は、文字どおり、生地の土に還る。
「梨の花」と「村の家」の中野重治は、今、その土に還る。卯女さんと耕太君が、同じように壷の中の骨を掬って土に移した。穴は深くはなく、移した骨が土中に白く見えていた。
「どうぞ」
骨壷を支えながら原さんがそう云い、私も壷の骨を掬った。それは、さらりと乾いていた。
土に移したあとの両掌に残るその感触を私はいつまでも握りしめていた。内輪のみんなが、中野の骨を掬い、土に移した。
最後に原さんが、壷に残るこまかな灰も土中に入れて、その穴が閉じられた。
村の婦人たちだけがそれをせず、息をひそめて見守っていた。
そのあと墓前に、赤や黄の菊花を供え、線香をたいた。まとめてたいた線香の火が風にあふられて焔を上げ、それが壮烈な埋葬の終りを告げるように見えた。
煙は曇り日の稲田の上に流れた。空になってわきにおかれている骨壷に気づくと、その白い骨壷に、残ってる花のすべてを入れて墓前においた。
私たちはいっときその前に立っていた。新しいこの墓石の建ったのは、中野の生前だったというから、中野自身も、この埋葬を知っていたのであろう。
中野重治は自身の、郷里の土に還ることを知っており、またのぞんでいたのにちがいない。
原さんがそれに応えた。それだけで云えば、「太閤ざんまい」を持つ中野にして持ち得た仕合せと云えようか。
百メートル向うには、中野の屋敷跡がこんもりと茂る小さな森のように見えていた。
あたりはひっそりと静かであって、村の人たちの、うかがい見るようにしてこの埋葬を感じ取っている気配さえ、逆に伝わるようであった。
仏教の強い伝統の許で村としてのしきたりも何かときびしいらしい。そういうものの残るこの一本田で、読経も鉦の音もない埋葬は、どんなにか異例に見えることであったろう。
原さんはその中で、今日の埋葬をやりとおした。悲哀のこもる内に、気丈にかまえた色合を見せている原さんの表情が、そのことをも語っていた。
中野重治生家跡
次の朝私は、原さんと卯女さんに見おくられてひとり、帰りの列車に乗った。
北陸本線は私になじみが薄いから、そのときの記憶だけが濃い。
中野夫妻と同行でこの線を通ったのは、鈴子の碑を見た帰りであった。
金沢までの途中の空で、大きな山形をなして雁の渡ってゆくのを見た。
それは私の初めて見る雁の列であった。中野重治もそれを見上げた。
「大きな列だね。こんなに大きな列は、なかなか見られないよ。
立派なものだ。こういうのを見ると、やはり感動するねえ」
中野のそう云うのをうなずいて聞きながら私は、無心に心を弾ませてその雁の渡ってゆく山形の列を仰ぎつづけた。頂点から裾長く開いた大きな線が空中に浮んで、それが一定のリズムですすんでゆく。長い列の一羽ごとの翅の動きさえ見えるようであった。
ー こういうのを見ると、やはり感動するねえー
中野重治の、こういうときの中野らしいその言葉を、再び聴くことはもうない。
そして私の、私なりに照応するときどきの感動も、受けとめ手なく宙に浮くしかない。
親不知は今日も、行きと同じように曇り空の下で、しかし何らの音もなく和いでいた。
(『夏の栞ー中野重治をおくるー』(佐多稲子著)から)