温泉めぐり紀行

丹沢の新緑(2022年5月)

888.大露天風呂

2020-09-30 | 旅の空

旅も五日目ともなると温泉に入りたくなる。
富山から国道471号線に入り神岡を抜け新穂高方面へ向かう。
あともう少しで新穂高ロープウェイというところに「深山荘」がある。
ここに大露天風呂があるのだ。
むかし、新穂高の展望を楽しんだあと奥さんとこの大露天風呂に入ったことがある。懐かしの温泉というわけだ。


蒲田川に架かる吊り橋を渡って深山荘の玄関へ。入浴料500円。
流れの強い川岸に向かって段々畑のように露天風呂が三つ。
脱衣場の前にある露天風呂に飛び込む。
やや青みがかった強い湯が体を刺激する。熱いけど気持ちがいい。
青空の下で入る露天風呂はなんといっても最高の気分だ。
心身ともにリラックスする。

   

     

 

■夫婦岩

深山荘に向かって川沿いの国道471号を走っているときだ、子宝の神、夫婦岩神社の看板がみえた。そろそろお腹も減ってきたし、コンビニで買った弁当を食べる場所を探してたこともあってここで休憩することに決定。

河原には簡単な鳥居が建っていて、広場にはテーブルもある。
これならお湯も沸かせる。ラッキー!ってなわけだ。
湯が沸くまで河岸の夫婦岩を見に行った。

なぁ~るほどねぇ、これはこれは立派な男根岩が屹立しているではないか。
オットセイのようにも見える。
その手前にはなんとなくエロチックな岩が露出している。これが陰石だ。
この二つの岩をあわせて夫婦岩ということのようだ。陽石の高さは4メートル、一方、陰石の高さは1.5メートル、凹分の深さ1.5メートル。ちゃんと測ってる律儀さが笑いを誘う。



 
    陽石                 陰石

 


 


887.なぎさドライブウェイ

2020-09-25 | 旅の空

石川県羽咋(はくい)市の「千里浜なぎさドライブウェイ」。

この道は国内で唯一、砂浜の波打ち際を走ることができる全長約8kmの長い海岸として知られている。千里浜は「ちりはま」と読む。
旅に出る直前の9月4日、
NHK「ドキュメント72時間」で「なぎさドライブウェイ」の3日間を放送していた。
この日は妙成寺(羽咋市滝谷町)へ行くつもりだが、ちょうど通り道なので立ち寄り先に急遽くわえることにした。

 

▲日本海に面する「千里浜なぎさドライブウェイ」(写真:石川県観光連盟)
 写真右のまっすぐに延びる道路が「のと里山海道」


日本海に沿って走る「のと里山海道」は有料道路かと思うほど快適なドライブウェイである。防風林の松林が左右にずっと続いている。
今浜ICで降りるとあっという間に砂浜に出る。時は2020年9月11日午後3時。

ここから先、ずっと砂浜が続いている。
視界の左に日本海。波はおとなしい。
砂粒が細かいため水分を含むとギュッと締まって固くなる。
実際に走ってみると、タイヤとハンドルからソフトでやわらか固め(?)の独特な感触が伝わってくる。
普通の道路では体感できない感覚だ。

混雑というほどではないが、そこそこにクルマが行き交う。
思い思いに好きな場所にクルマを止め、写真などを撮ったりしている。
確かにここは楽しい砂浜で面白い。かつて砂浜の幅は100メートルほどあったらしい。浸食され次第に細くなったとか。


交通量は少ない


愛車を波打ち際に寄せる


焼きハマグリなどの店が出ている

▲日本海に沈む夕日も楽しめる(はくい市観光協会の写真)

 

■妙成寺 ~前田家ゆかりの寺~

砂浜を後にして国道249号線を走る。能登半島の付け根あたり。
この辺りを羽咋市という。気多神社を通過し脇道へと入り込む。
午後3:40分、妙成寺に到着。
ここまで延べ走行距離870キロ。
再び雨が降り始めた。さすがにこの時間では参拝客は誰もいない。
門前のみやげもの屋さんも店を閉め始めている。

ところでなぜこのお寺さんに来たかったのか。よく考えると動機が不明。
たぶん五重塔を見たかったのだと思うが・・。テレビの旅番組などを見てメモしたのかもしれない。

受付で入山料500円を払い、山門をくぐる。
ここから見上げる五重塔は迫力があって美しい。
そう、これを見たかったのだと納得。


パンフレットをみると妙成寺は日連宗本山の加賀前田家ゆかりの寺。
建物は加賀前田家初代から五代にわたって造営、とくに三代の利常公は生母寿福院の菩提所として本堂・祖師堂・五重塔などを建立した。

余談だが次の日、高岡市の瑞龍寺を訪ねた。実はこの瑞龍寺も利常公が二代藩主・利長公の菩提を弔うため建立している。どうやら利常公はとても信仰に篤い人のようだ。

妙成寺の広い境内には本堂を初めとして経堂、書院など全部で11の建物が国指定重要文化財になっている。
京都建仁寺流の技により桃山時代の建築様式が取り入れられているせいか、本堂のたたずまいが端正で美しい。

雨足が強くなってきた。迫る夕闇にせかされるように参拝する。
写真を撮っている間に、寺の関係者があちこのお堂の戸締まりを始めた。
時刻は4:30だが雨も降ってるし、もう参拝客も来ないだろうから早仕舞いということなんだろう。

 

さてっと、これから高岡のホテルまでひとっ走りだ。
ホテルは北陸新幹線・新高岡駅の真ん前だった。
ここまで延べ走行距離は925キロ、今日だけで350キロ走った。
夕食はイオンモールのなかの大戸屋で鶏の甘酢あんかけ定食。うまかった。

 



 


886.「夏の栞」を訪ねる

2020-09-23 | 旅の空

北陸の天気は移ろいやすい。
2020年9月11日、「岩屋の大杉」を出発して40分、
福井県坂井市丸岡町の一本田へ到着した途端に雨が降り出した。

以前、佐多稲子の「夏の栞(しおり)」について書いた(No51. 2010年5月1日)。
「夏の栞」の後半で描かれている丸岡町一本田にある中野重治の墓と生家跡。
いつかは訪ねてみたいものだとずっと暖めていた土地である。
「夏の栞」を読み返すと、中野重治の遺骨が埋葬される一本田でのシーンはやはり心うたれるものがある。

 
    中野重治生家の跡

・・・・・・・・・

傘をさして中野重治生家の跡地に立つ。
家は随分と前に解体され礎石が整然と並んでいる。
その並びから推測すると比較的大きな住居だったようだ。
敷地の右奥には中野重治の妹、詩人の中野鈴子の詩碑がある。
佐多稲子は「夏の栞」でこのように描写している。

”塚のように盛った台地に碑石をおいて、塚のぐるりを何かの灌木が囲っていた。「花も わたしを 知らない」と彫られた言葉は、そのあとに小さく、すゞこ、とあるように鈴子自身の詩の一行であり、字は卯女さんが書いた"

  
      中野鈴子の詩碑

 

以下、「夏の栞」から埋葬の場面を引用する。

そして今回の旅で撮ったいく枚かの写真を添えた。

 


 

(略)

中野兄妹の生家の跡に私の立つのは、重治を埋葬するこの日で五度目になる。
地震後の荒壁の家にも泊っており、最初の、中野の選挙の折りは勿論、昔の家であった。
それぞれに残っている印象を記憶の内に重ねる中に「村の家」のいきさつがかすめたりもした。


中野家の墓地は、屋敷のうしろ側の道路を越した向うの田圃の中にある。舗装されたこの道路は、私の来た最初のとき、北陸本線と丸岡を結ぶ電車の線路であった。
その停留所の小さなホームに立って鈴子が、それを中野家の墓所だ、と指差したとき、一本の木を目印しに田
圃の真ん中にぽつんとあるその地点は、湖の中に愛らしく突き出た小島のように見えた。その墓所のひとつだけかけ離れているのも、遠い由来によっていた。

 

  

       中野家の墓地 「太閤ざんまい」

 

それは中野家の先祖が、太閤秀吉に直々に貰った墓所だという。
この地を見廻りに来た秀吉が、中野家の先祖の出した茶を喜んで、褒美をのぞめ、と云うのにわが身の埋ずまる場所を、と答えてその地を得た、という由来である。
鈴子の立話にそれを聞くとき私は、歴史上の人物の急に身近かになるのも、この地方の由緒かとおもいもした。

中野家のこの墓所を「太閤ざんまい」と呼ぶのは今も土地の人に残っているらしい。
「太閤ざんまい」が稲の植わった田圃の中にあるのは以前どおりだが、かつて1本の目印しに過ぎなかった木は、高く、深々と茂っていた。
道路から畦道へ入って百メートルほどの距離である。

原さんが中野の遺骨壷を抱き、卯女さんと耕太君、そして姪の能登素さんをはじめ、宇野さんと私かつづく。
墓地では中野全集の編集をした村上清さんと、名古屋在住の評論家の岡田孝一さんが待っていた。その人数はあくまでも内輪である。
が、墓地ではじめて婦人たちばかり十人ほどの村の人が、ひっそりと参集していた。
戎居君がこの墓地も整理して、埋葬に供える菊やりんどうの花々を用意している。
生い茂ったタブノキは包み込むように墓地を蔽っていた。

六、七基並んだ古い墓石の端しに並んだ、赤い肌の丈高な自然石が新しく建てられた墓石である。「中野累代墓」と彫ってあるのは原さんの筆跡である。
中野の遺骨はこの自然石の墓の下に納められる。その墓石の台石の下がすでに掘ってあった。

       中野家の墓所

 

その穴は直かに土である。原さんはその前に遺骨壷を抱いてしゃがんだ。
包みを解いた骨壷が蓋をとって、台石の上におかれる。原さんは、その壷の中に両掌を差し入れて骨を掬うと、その両掌を穴の内に移して、さらさらとそそぎ入れたのである。
それを見つめる周囲は、みんな無言であった。

が、私は胸の内で、声にならぬ声を上げていた。原さんはこれをしたかったのだ。骨は、掘った土の中にそのまま混り入る。中野重治は、文字どおり、生地の土に還る。
「梨の花」と「村の家」の中野重治は、今、その土に還る。卯女さんと耕太君が、同じように壷の中の骨を掬って土に移した。穴は深くはなく、移した骨が土中に白く見えていた。

「どうぞ」
骨壷を支えながら原さんがそう云い、私も壷の骨を掬った。それは、さらりと乾いていた。
土に移したあとの両掌に残るその感触を私はいつまでも握りしめていた。内輪のみんなが、中野の骨を掬い、土に移した。
最後に原さんが、壷に残るこまかな灰も土中に入れて、その穴が閉じられた。

村の婦人たちだけがそれをせず、息をひそめて見守っていた。
そのあと墓前に、赤や黄の菊花を供え、線香をたいた。まとめてたいた線香の火が風にあふられて焔を上げ、それが壮烈な埋葬の終りを告げるように見えた。
煙は曇り日の稲田の上に流れた。空になってわきにおかれている骨壷に気づくと、その白い骨壷に、残ってる花のすべてを入れて墓前においた。

私たちはいっときその前に立っていた。新しいこの墓石の建ったのは、中野の生前だったというから、中野自身も、この埋葬を知っていたのであろう。
中野重治は自身の、郷里の土に還ることを知っており、またのぞんでいたのにちがいない。
原さんがそれに応えた。それだけで云えば、「太閤ざんまい」を持つ中野にして持ち得た仕合せと云えようか。

百メートル向うには、中野の屋敷跡がこんもりと茂る小さな森のように見えていた。
あたりはひっそりと静かであって、村の人たちの、うかがい見るようにしてこの埋葬を感じ取っている気配さえ、逆に伝わるようであった。

仏教の強い伝統の許で村としてのしきたりも何かときびしいらしい。そういうものの残るこの一本田で、読経も鉦の音もない埋葬は、どんなにか異例に見えることであったろう。
原さんはその中で、今日の埋葬をやりとおした。悲哀のこもる内に、気丈にかまえた色合を見せている原さんの表情が、そのことをも語っていた。

 

             中野重治生家跡 

 

次の朝私は、原さんと卯女さんに見おくられてひとり、帰りの列車に乗った。
北陸本線は私になじみが薄いから、そのときの記憶だけが濃い。
中野夫妻と同行でこの線を通ったのは、鈴子の碑を見た帰りであった。

金沢までの途中の空で、大きな山形をなして雁の渡ってゆくのを見た。
それは私の初めて見る雁の列であった。中野重治もそれを見上げた。
「大きな列だね。こんなに大きな列は、なかなか見られないよ。
立派なものだ。こういうのを見ると、やはり感動するねえ」

中野のそう云うのをうなずいて聞きながら私は、無心に心を弾ませてその雁の渡ってゆく山形の列を仰ぎつづけた。頂点から裾長く開いた大きな線が空中に浮んで、それが一定のリズムですすんでゆく。長い列の一羽ごとの翅の動きさえ見えるようであった。

ー こういうのを見ると、やはり感動するねえー

中野重治の、こういうときの中野らしいその言葉を、再び聴くことはもうない。
そして私の、私なりに照応するときどきの感動も、受けとめ手なく宙に浮くしかない。

親不知は今日も、行きと同じように曇り空の下で、しかし何らの音もなく和いでいた。

          (夏の栞ー中野重治をおくるー(佐多稲子著)から)

 


 


 

 


885.福井県・岩屋の大杉

2020-09-20 | 旅の空

通行止めの標識 ? 
あんなもん脇に寄せて入っていけばいいんだよ。

崖崩れったって去年の台風のときにちょこっと崩れただけでね、
ちゃんと土嚢を積んでるから通れるだよ。
お宅のようにあの通行止めを見て真面目に引き返してくる人が多くてね、
せっかく遠くから見に来たのにって皆さん愚痴をこぼすもんだからね。
役所に掛け合って早く復旧工事してもらったんだ。

万が一のことを考えてんだか、役所は通行止めの標識を片付けないんだね

 


    崖崩れの現場

 

要するにあんなものどかして行っちまっていいよ、ということだ。
しぶしぶUターンしてきたのだが、地元のおじさんがそう云うんなら話しは
別だ。やっぱり地元の人の言うことを聞いてみるもんだ。

というわけでもう一度道を引き返すことに。
目的はこの林道の先に棲む「岩屋の大杉」。
2019年4月、BSプレミアムで放送した「神様の木に会う~日本の巨樹の旅~」。
全国の巨樹10本を訪ねた番組だったがその中のひとつが「岩屋の大杉」なのだった。

2020年9月10日。晴れ
北陸自動車道・福井北JCTから永平寺方面へ進路をとり、中部縦貫道(無料区間)に入る。
道は山麓を縫うように走り、黄色く色づいた田園風景を見ながらの運転は快適そのもの。対向車とほとんどすれ違わないまま勝山IC を降りる。

田んぼの真ん中を抜け北郷町の小さな集落に入る。
さっき、岩屋の大杉と書かれた手製の小さな案内板があったので間違いはなさそうだ。
集落の家並みが途切れ、山間部にはいると小枝や枯れ葉が道を覆っている。林道を10分ほど走ると突然、土砂崩れのため「通行止め」看板が道を塞ぐように立ちはだかった。

えぇ~、ちょっとまいったなぁ、わざわざここまで遠く回り道してきたのに行けないのかいなぁ、まいったなぁ、崖崩れじゃ仕方ないか、万一ってこともあるしなぁ
来た道を引き返し集落にもどったとき、さっきのおじさんに出合ったというわけ。おじさん、生きた情報提供ありがとうございました。


岩屋の大杉。
鳥居をくぐると鬱蒼とした雰囲気が漂う。
岩屋観音(といっても神社)の後ろに回ると、巨大な大杉が姿を現した。
樹齢300年以上(伝説では1200年)、樹高33m、幹周り17m。5本の幹が寄せ集まって立っている。その1本はマンモスの鼻のようだ。
これまで旅先でたくさんの巨樹と出合ってきたが、改めて杉という樹種のどんでもない生命力に驚かされる。

 



 

■旧木下家住宅

大杉をみたあと北郷町の集落を下っていると旧木下家住宅公開中の看板が目に入る。
せっかくなで立ち寄った。
おじさんが囲炉裏に薪をくべながらいろいろと解説してれた。

 

 

 

 


 

 


884.五百羅漢・天寧寺の謎

2020-09-16 | 旅の空


演出も展開も小気味いいNHKドラマ「雲霧仁左衛門」。
好きで再放送も録画して何度も見た。このドラマ、松竹も一枚かんでいるだけあって画になるロケーションがたくさん出てくる。
なかでも雲霧一党が密議をこらす印象的なシーンがある。
寺の本堂らしき薄暗い場所。あぐらをかく雲霧仁左衛門の背後におびただしい数の羅漢像が浮かび上がる。
ここは一体どこなんだろう、興味が湧いた。

調べると、滋賀県彦根市の天寧寺・五百羅漢であることが判明した。
彦根へは何度も来ているのに天寧寺を知らずにいたのは実にうかつだったなぁと反省。

9月9日午前9時。天寧寺。
受付を済ませ、引き戸を開けて羅漢堂へ入るとヒンヤリした空気が頬を撫でた。
正面のお釈迦様を中心に十大弟子・十六羅漢像・五百羅漢の五二七体の迫力に圧倒される。

 
  

ドラマの主役・雲霧仁左衛門役は中井貴一。
中井の父は往年の二枚目俳優・佐田啓二。佐田啓二は避暑地から東京へ帰る途中、運転手のミスで国道の橋に激突し交通事故死してしまう(1964年8月)。
時代劇映画で佐田啓二が演じた武士、その菩提寺がここ天寧寺だった。
私が2才のときに父は亡くなっているので面影はないのですが、この天寧寺で息子の私が演じることになるとは・・ご縁があったのですね

「雲霧仁左衛門」の撮影時に中井貴一さんがそうおっしゃっていました、と受付の女性が説明してくれた。

ところで、この寺の由来はとても数奇である。
藩主・井伊直中が自分の過失で手打ちにした腰元と初孫の菩提を弔うため発願・建立した、とある。これだけでは何のことか分からないので詳しく見てみよう。

文政二年(1819年)男子禁制の槻御殿で大椿事が持ち上がった。
男子禁制の大奥に勤める腰元、若竹が子を宿してるらしいと風評が広まったのだ。
藩主直中公の耳にも届き、相手の名を詰問したが若竹は口を固く閉ざして語ろうとしない。
<腰元 : 身分の高い人のそばに仕えて雑用をする侍女>

遂には不義はお家の法度であるという掟により若竹は手討ちにされた。
しかし、後になり若竹の相手が直中公の長男、直清だったことが明らかとなる。
知らぬことととはいえ若竹の腹に宿した子、つまり自分の初孫ともども葬ったことに直中は心を痛め、京都の大仏師に命じて五百羅漢を彫らし追善供養した。

以上が来歴である。

それにしてもことの発端をつくった長男の井伊直清とはどんな人物なのだろうか。
1791年4月22日、藩主・井伊直中の長男として誕生し幼名は欽次郎。
幼い頃に松平定信の娘との婚約も決まっていて 後継ぎとして期待されていた。

しかし、正室に弟(直中の三男)直亮が生まれると側室の子どもだった直清は廃嫡になった。直清14才のときである。
早々と隠居を余儀なくされたわけだが自然に受け止めて暮らしていたようだ。
そんなとき直清の元にたびたび遊びに来る幼い弟がいた。
井伊直中の十四男、鉄之助、のちの井伊直弼である。

若竹は腰元ととして鉄之助のお供をしていたので、そこで直清と運命的な出会いとなったのだろう。
若竹と直清がどのように恋に落ちたか分からないが、腹に宿る子の父親である直清のことを命を賭して守った若竹。その純粋な恋心が悲しくもいじらしい。

さて、ここでひとつ謎がうまれる。

井伊直清についてウィキペディア(Wikipedia)などいくつかの検索サイトで調べると、生まれたのが1791年、死亡した年は1811年、享年21とある。
ところが天寧寺のパンフレットには、若竹との椿事は1819年、相手が直清であったと明記されている。仮にウィキペディアが正しいとすれば、若竹が妊娠した1819年に直清は既にこの世に存在しない。つまり若竹の相手は直清ではないということになる。

いっぽう、寺のパンフレットでは、1791年生まれの直清は椿事の1819年には28才。
血気盛んな年頃だし若竹と恋に落ちても不思議はない。

両資料とも生年は一致してるのでポイントは何年に直清が亡くなったかである。

という訳で謎が深まるばかりなのである。

ちなみに、直清のところによく遊びに行っていた鉄之助はのちに成長して直弼と名乗る。
直弼が幼い心の中に若竹を慕う気持ちがあり、それが年上の女性への憧れとなって後に村山たか女との恋になった、という説もある。
私は未だ読んだことないが、小説『奸婦にあらず』(諸田玲子著)では直弼とたか女との密会の場が天寧寺である。 *奸婦(かんぷ)とは悪知恵に富んだ女のこと
境内には桜田門外の変で非業の死を遂げた直弼の供養搭などがある。

羅漢堂を出て石庭の端に立つと彦根城が視線の先にあった。

<後 記> 天寧寺の謎は、後日、ご住職から直接の話しをきいて真相が判明した。






883.ぶらりクルマ旅

2020-09-14 | 旅の空

首輪を外し、放し飼いにしてもらった。
2020年8月8日~13日、にわか"野良犬"のフリータイムプランに出かけた。
いつもながらおおらかな奥さんに感謝である。
神奈川を出発し、山梨、長野、岐阜、滋賀、福井、石川、富山を走り回った距離が1350キロ。車中泊1、ホテル4泊のクルマ旅であった。

                                                                                                                  岩村城

主な立ち寄り先は次のとおり。

岩村城(岐阜県恵那市)
花白温泉(岐阜県恵那市)
天寧寺・五百羅漢(滋賀県彦根市)
西明寺(滋賀県甲良町)
百済寺(滋賀県近江市)
ラコリーナ近江八幡(近江八幡市)

醒ヶ井宿・地蔵川湧水(滋賀県醒ヶ井)
岩屋の大杉(福井県勝山市)
中野重治生家跡(福井県坂井市)
なぎさドライブウェイ(石川県羽昨市)
妙成寺(石川県羽昨市)

瑞龍寺(富山県高岡市)
夫婦岩(岐阜県高山市)
深山山荘・大露天風呂(岐阜県高山市奥飛騨)
大滝湧水(山梨県北杜市)
みたまの湯(山梨県市川三郷町)

 

1日目 468Km

 

■2日目 107Km

 

3日目  350Km

 

4日目    175Km

 


 


882.木版画展

2020-09-06 | 暮らし


今朝、NHK-Eテレの「日曜美術館」をなにげに見ていたところ、
近代木版画の「特別展 明治錦絵×大正新版画」を紹介していた。
そのなかで東京風景を描いた木版画に目が釘付けになった。
繊細な線描と淡い色使いが美しい。

四年前の「生誕140年吉田博展」の版画を一瞬にして思い出させた。
この版画展、実は二度も見に行った。
いちどは福島県の郡山市美術館、二度目は巡回展示中の長野県上田市の美術館
へ足を運んだ。
吉田博の版画はそれくらい衝撃的な美しさを秘めていた。


ともかく、これは見に行かなくちゃぁ!!
地下鉄関内駅から馬車道を歩いて10分ほど、神奈川県立歴史博物館に到着。
受付で手の消毒、検温。入場券と一緒に整理券が渡され、密にならぬよう入場制限されている。10分ほど待って入場。

 

  

 

この特別展、コロナ禍がなければ4月に開催される予定だった。
あらためて復活開催されることになったとか。

世界に誇る日本を代表する美術といえば浮世絵。
世界へ発信された近代の木版画は実のところ明治大正昭和という近代に発信されたものだった。
版元として海外市場を念頭におき販売を通じて日本を発信した二人の人物。
幕末から活動を開始した大倉孫兵衛と土井貞一。
この二人が生み出した作品は日本という国のPRに大いに貢献した。
明治、大正そして昭和へ変質していった展開を追いつつ世界へ日本の美しさを伝えた多彩な作品が展示されている。

入って直ぐに錦絵のコーナーがある。
花、鳥、美人などの画帖がズラリ。しかし、
赤、青などの原色に近い独特の色遣いは見てて疲れる。私の好みではない。
どのみちこれはお目当てのものではないので次のコーナーへ歩を進める。

今朝テレビで見たあの版画の作者は
土屋光逸(1870-1949)
川瀬巴水(かわせはすい1833-1957)の二人だった。
彼らの描いた東京の風景は、いずれも明暗のコントラストが美しい。
日本美といっていい。

たとえば、川面に写りこむ月あかり
のおぼろげな情景、満月が松林のシルエットをつくる風景など日常の一瞬が表現されている。
どの版画も時代の空気を閉じ込め、優しい波動が伝わってくる。
静かで心安らぐ作品である。

今日、これらの版画に出会えてほんとによかった。
記念に絵葉書を
二枚買った。

 


  川瀬巴水 日本橋 昭和15年    川瀬巴水 荒川の月 昭和4年 


 


881.梨にブドウ

2020-09-03 | 暮らし

新高という品種はね、大きくて丸いのが甘いのよ。
今年は暖冬だったから全体に早くてね、明日で店はおしまい

梨園のおばちゃんがそう教えてくれた。
忠告に従って3個千円の大きいやつを買う。

多摩川梨もそうだけど川の周囲は水はけがいいので梨栽培に向いた土地なのだろう。 この梨園の近くにも相模川が流れている。
春先に咲く梨の花。その白い花は清楚そのものだ。

今日はいつものように葛葉の泉で自然水を汲むため丹沢に行ってきた。
九州地方に近づいている台風10号の余波で一日中天候が不安定である。
246号を下って丹沢連峰に近付くにつれ山には雲が低く垂れ込めている。

林道をかけ登り、雲の中に突っ込んだため葛葉の泉へ着くと雨。
こんな天気のときは流石にくみに来る物好きはいない。
20リットルタンク二つがあっという間に満タンになった。

  

JA秦野でバラの花、タマネギ、ジャガイモを買う。
柏木牧場ではコロッケ、飲むヨーグルト、巨峰を購入。
途中、雷とともに猛烈に雨が降ってきたのでコンビニでコーヒーを買い、車中でやり過ごす。

そして冒頭の梨園に立ち寄って帰宅した。