もうひと月くらい前かもしれない、たまたま車でNHKラジオの朝の番組「すっぴん」を聞いてると、
パーソナリティーの作家・高橋源一郎が、つげ義春(1937年生まれ)の「貧困旅行記」を紹介していた。
冒頭の「蒸発旅日記 1968(昭和43)年9月」を朗読していたのだが、聴きながらついつい笑ってしまった。
というか笑うしかないのだ。
「蒸発旅日記」は、だいぶ前にも読んだことがあり、"温泉めぐり紀行"でとりあげたことがある。
というわけで懐かしさ半分、おもしろさ半分から改めて読んでみた。
旅先で漂流し続けるつげ義春の心模様は世間的にはとうてい受け入れられないダメっぷりだ。
今の時代感覚としてはNG連発ものの文章だが、
糸の切れたタコのようにどこへ飛んでいくか分からない素っ頓狂ブリ、ぶっ飛びぶりが冒頭から全開である。
今となっては"絶滅危惧種"であろうこんな"自由人"を棲息させていた半世紀前の日本は、実に包容力のある時代だったのである。
「貧困旅行記」(晶文社/1991年)から少々長くなるけど、数ページ分を引用してみよう。
貧困旅行記
「蒸発旅日記 1968(昭和43)年9月」
深沢七郎の「風雲旅日記」を読むと-旅行は見物をしに行って帰ってくるのだが、私の場合は、ちょっとちがって、行ったところへ住みついてしまうのだった-というすごい旅のしかたをしているが、私も以前これと似たような旅のしかたをしたことがあった。
住みつきこそしなかっだけれど、住みつくつもりで出かけたのである。
それは昭和四十三年の初秋だった。行先は九州。住みつくつもりで九州を選んだのは、そこに私の結婚相手の女性がいたからだった。
といっても私はこの女性と一面識もながった。
二、三度手紙のやりとりをしただけの、分っているのは彼女は私のマンガのファンで、最近離婚をし、産婦人科の看護婦をしているということだけだった。
「どんな人かなァ」と私は想像してみた。
「ひどいブスだったら困るけど、少しくらいなら我慢しよう」と思った。
とにかく結婚してしまえば、それが私を九州に拘束する理由になると考えたのだった。そしてマンガをやめ、適当な職業をみつけ、遠い九州でひっそり暮らそうと考えた。「離婚をした女なら気がらくだ」彼女はきっと結婚してくれるだろうと私は一人決めしていた。
二十数万円の所持金と、時刻表をポケットにつっこんだだけの身軽さで私は新幹線に乗った。私の間借りをしていた部屋はそのままだが、机と蒲団しかないので、私が消えてしまっても家主は困らないだろうと、あとのことは考えなかった。
名古屋で紀勢線に乗換え、三重県の松阪で一泊した。翌日近鉄で大阪に着いたのは昼前だった。九州行きの列車の発車時刻まで一時間あった。
私は駅の地下でコーヒーを飲みながら不安を鎮めようとしていた。
名古屋までは調子よく出て来たが、大阪から先へは行ったことがなく急に心細くなってしまったのである。
これが普通の観光旅行なら気持ちも浮かれるのだが、そうではないので決意が鈍りそうであった。松阪に寄道をしたのも迷いが生じ躊躇したからだった。
「やっぱりやめようかな」
私はまだ迷いながら店から外へ出てみると、目の前に中央郵便局のビルがあった。日曜日ではあったが本局なので窓口は開いていた。
たまたま郵便局が目にとまったことで、私は九州行きは中止することにし、ハガキを求め、千葉の知っている宿屋に予約の手紙を出した。
中止をするにしてもこのまま東京へ引返すのは面白くないので、大阪近辺をちょっと見物してから、千葉でのんびり過ごそうと思ったのである。
また大阪駅へ戻ると、九州行きの発車の時刻がせまっていた。手紙を出したものの私は尚迷いが残っていた。今決行しなければもう二度とチャンスはないかもしれない。このまま日常に戻ってはまた鬱々とした日を過ごさねばならない、それもうっとうしいことであった。
ホームの方から何処へ行く列車か発車のベルの音がけたたましく聞こえた。九州行きもあと五分とせまっていた。
ベルの音にせかされて、けっきょく私は観念して、役者が舞台へとび出して行くような気持ちで、小倉行きの切符を買い、発車間際の列車にとび乗った。
列車が動きだすと、私はようやくほっとしたが「蒸発をするのは案外難しいものだな」と思った。それは現実の生身の役者が舞台へとび出し別の人間になりきるのに似ている。役者は舞台のソデで緊張と不安のあまり吐気や便意を催すという。
しかし舞台は幕がおりる。蒸発は幕がおりないから演じ続けなければならない。ならない。だが演じ続けることもやがては日常となり現実となるのであろう。
そう解っていても私はもうとび出してしまったのだ。列車はウーンウーンと鈍い音を響かせていた。私は急には別の人間になりきることはできないで、まだ残っている緊張を鎮めるようにずっと目を閉じていた。
広島を過ぎると安芸の宮島を紹介する車内放送があった。
そのとき目をあけ窓の方へ視線を移すと、大きな繩が一匹窓ガラスにとまっていた。車内は冷房が利きすぎて、繩は弱っているのかじっと動かないでいた。私は宮島を眺める気もなく繩を見続けていた。
―この繩は私と同じように大阪から乗ったのだろう。するとこのまま九州へ行くことになる。九州へ行ったらもう戻ることはできない。
そうしたら九州でどのような生きかたをするのだろうか―。
そんなことを私はぼんやり思っていた。
通路をはさんだ隣りの席で、若い女性が初老の婦人と話をしていた。二人は連れではないようだが九州を話題にしていた。小郡を過ぎたあたりで私はその若い女性に声をかけた。
「九州はどんな所ですか」と尋ねると、気さくそうな女性は、
「九州見物ですか、それなら水前寺公園がいいですよ」
と教えてくれた。
「その公園はどこにあるのですか」
「熊本です。私は熊本に帰るのでよかったらご案内して上げましょうか」
と云った。
彼女は大阪で女工をしていて熊本に帰るのだと云う。
私は「熊本もいいな」と思った。そしてこの女性に付いて行って彼女と結婚しようかと考えた。相手は誰だっていいのだ。
小倉にいる看護婦さんはまだ見たこともない人だが、こっちの彼女はもうだいたい人柄も分かり悪くない感じだ。
ただ気になるのは、この女工さんは熊本の実家に帰るのだと云う。
実家には親も兄弟もいるだろう、そうなると面倒くさいことになる。
そんなことをちょっと思案し、けっきょく私はあきらめて小倉で下車をした。
(後略)
・・・・・・・・・・
とまぁ、こんな調子である。
このあと結婚相手予定のSさんと会うものの何かしっくりこない、1週間後に再会を約束し、時間つぶしにと湯平温泉、杖立温泉、湯布院を訪ねる。
湯平温泉でまずストリップの看板が目に入る。
自分ひとりだけのわびしいストリップの雰囲気に染まり、このままこの人たちについて行きドサ回りでもして暮らそうか・・・と思う。
そして杖立温泉でも、ストリップ小屋に入りこむ。
客席は空。
舞台のかぶりつきの椅子に腰掛け、ストリップ嬢を目の前に座らせる。
太ももをそっと触ってみる。
次に頬ずりをした。
切なさがこみ上げ、彼女の腰に手をまわしてすがりつくように抱きしめる。
彼女は優しく髪をなぜるだけ。
「こうしているだけでいいんだ、こうしていると何となく安心できるんだ」
と甘いセリフが口をついて出る。
このあたり、日活ロマンポルノ風とでもいうか昭和エロティシズムの漂うシーンである。
名作と言われる所以(ゆえん)である。
そしてここでも性懲りもなく妄想するのだった。
ストリップ嬢のヒモになって方々の温泉地を流れ歩くのも悪くないな・・・と