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497.歩き遍路旅(44)ある本との出会い

2015-06-03 | 四国遍路ぶらぶら歩き

■伊予讃岐の歩き遍路旅


遍路13日目 平成27年4月13日(月) 雨 冷たい風が吹く
       天然温泉きらら→(琴電)→リーガホテルゼスト高松
        
→高松駅周辺散策→ホテル

      歩行距離 8.1
キロ 


■のんびりな一日

 朝6時目が覚める。今日は特に参拝の予定はない。
羽毛布団にくるまって寝たせいでずいぶんと寝汗をかいた。
玄関ホールに出ると男性の遍路人がいる。50才くらいかな、昨夜はここに泊まり、今日は志度寺まで行く予定とのことだ。
ポンチョをかぶって雨仕度を整えると彼は勢いよく飛び出ていった。

雨は、ざあざあ降りで止みそうにない。かなり本気で降っている。
今夜の宿は航空券とセットになっている高松市内のホテル。
明日はもう高松空港から羽田に戻る。それにしてもすごい雨足。
やる気を萎えさせる強い降りだ。
こんなに向きになって降らなくたっていいのになぁ。

   

先ずはタオルを持って朝風呂だ。
そして風呂上がりにレストランでモーニング。
食べてるうちに身体が冷えてきたので再び風呂に入る。久しぶりに新聞を読み、だらだらしてるうちに9時をまわってしまった。

荷物をまとめ、9時20分に「天然温泉きらら」を出発。琴電の瓦町駅で下車。商店街を抜けて、10時半、今日の宿、リーガホテルゼスト高松に入る。
フロントに荷物を預け、あてもなくぶらぶらとしてたら高松駅に着いた。
家族へのミヤゲを何も買ってないことに気がつく。
駅前の観光案内所に入り土産物屋をいくつか教えてもらう。
結局、高松駅構内のキオスクで調達。宅配便で送ってもらうことにした。



雨の高松駅


■ある本との出会い
 

 高松駅ビルの中の本屋さんをぶらぶらしていたら、とてもタイムリーで興味を引かれる一冊の本にであった。
四国遍路~八八ケ所巡礼の歴史と文化~」(森正人著、中公新書)。
これが実に刺激的で面白い一冊だった。

    

 去年は空海が四国八十八箇所の遍路道を開創して1200年といわれ、四国各地で展示会などのイベントが開催された。
ところが、いつ、誰が、何のために四国遍路を開創したのか、そして、なぜ八十八の寺院をまわるのか、実は良くわかっていない、と本書は指摘する。
つまり弘法大師・空海が四国遍路を開創したというのは伝説でしかない、というのだ。
年間10万人以上が旅をするこれほど大きな巡礼にもかかわらず、わからないことだらけの四国遍路。どこまでが分かっていて、どこからが分かっていないかを確認可能な史料から学術的に明らかにして、もう一つの四国遍路像を探すことが本書の目的と宣言している。

 本を手に高松駅ビルの喫茶店に入りCoffeeを飲みながら、そして夕食を兼ねて居酒屋に入って呑みながら読み続け、ホテルに帰ってもベッドの上で読み進んでしまった。
どの章も興味深いことが満載なのだが、とりわけ四国遍路と深く関係する貧困、ハンセン病の史実に関心をもった。
たまたま病を得たというだけで社会から、そして家族からも追い出されたハンセン病患者。根本的な治療法が無い時代、ひたすら弘法大師信仰にすがる姿はとても痛ましい。


■ハンセン病患者と遍路

 この本を含めその後に読んだ資料からハンセン病と遍路について要約してみよう。
 
 明治時代から昭和初期のころまで四国遍路の巡礼者には貧しい人々、村落を追われた人々がおおくを占めた。その代表例がハンセン病患者である。
ハンセン病患者が出ると近親者が不幸な目にあうとされ、親族達はそれをひた隠しにした。明るみに出ると社会生活が難しかったからである。
早く患者たちを自分たちの生活領域から放逐しようとした。
こうしてハンセン病患者の多くが四国遍路へと送り込まれた。故郷を追われるようにしてやってきた四国ではあるが、疲労と病いによりついに歩けなくなって「行き倒れ」てしまう。

たとえば、明治19年(1886)5月12日付けの高知県の「土陽新聞」には次のような記事が掲載されている。
一昨日長岡郡五台山村にて四十四五の遍路姿の女が行倒れし死体を十二才ばかりの娘が揺り動かして泣いて居しと云ふが委細は聞き込みの上」。

 母一人娘一人の巡礼は、いったいどのような理由で始まり、どれくらい旅をし、そして娘はどうなったのか、後日の紙上で紹介されていない。
こうした行き倒れ遍路が出た場合、江戸時代には死者の埋葬は村で行い、その人足費用などは村が負担した。

遍路の第一ピークといわれる明和・安永ころ(1764~79)には、当然ながら病人遍路、行き倒れ遍路も多くなり、何かと問題の種になるような巡礼者を江戸時代の各藩は歓迎しなかった。
このため藩への立ち入りを規制し始めるようになる。
例えば土佐藩では藩内に留まることのできる日数を30日以内とし、これを越えると追い払った。
また、出入りの径路を限定し他のルートを一切認めなかった。
このことが後の明治時代に入って遍路狩りと呼ばれた排斥運動へとつながっていく。


 ハンセン病は慢性の感染症であるが、現在は特効薬もあり恐るるに足らない病気である。しかし、そうした知識が定着したのは戦後のことで、患者は不当な差別と人権侵害に曝されてきた。
当時、ハンセン病は伝染すると信じられていたため、彼らは接触が忌避され差別の対象となった。
とりわけハンセン病の巡礼者は宿での宿泊が拒否されることが多かった。
大正期の高村逸枝は遍路行で出合ったハンセン病の巡礼者の様子を「娘巡礼記」に書きのこしている。

「頭の地には累々たる瘡ありて、髪の根本にわだかまれるさま、身の毛もよだつばかりなり。しばしば手の指にて掻きむしるに、その瘡ぶたの剥げ口より青赤き汁のドロリと溢れたる、臭気例えむにものなし
。(高村逸枝 )

・・・・・・・・・

■ハンセン病資料館

 
 すこし話しは飛ぶのだが、この遍路旅を終えた1週間後の4月21日、私は「国立ハンセン病資料館」(東京都東村山市青葉町4-1-13)を訪ねた。
ハンセン病患者と遍路についてもっと勉強したいと思ったからだ。

というか、もうすこし詳しく云うならば、直接のきっかけは、その2日前の4月19日、毎月恒例の「歴史散歩の会」にあった。
この日は東京都町田市の鶴見川の源流地点から小田急鶴川駅まで歩くコース。
そのコースの途中で町田市立自由民権資料館に立ち寄った。

明治時代初期からの民権運動の歴史資料、書籍が非常に充実した資料館であることに驚いたのだが、そのPRコーナーで目にとまった資料があった。
全国のハンセン病療養所と入所者を撮り続けた趙根在(チョウグンジュ)の写真展のチラシだった。
四国でたまたま手にとった本、そして帰宅後、偶然に目にしたチラシ。
遍路とハンセン病の結びつきを強く意識した瞬間である。強いメッセージ性を放つチラシをみて、これはぜひ見てきなさいという啓示だと受け止めた。

*6月16日(水)にNHK総合 「探検バクモン」で「ハンセン病を知ってますか」(10:55~11:20)が放送される。

 <訂正>6月16日(火)は再放送でした。放送時間はpm4:25~4:50です。
 
      本放送は6月10日(水)のpm10:55~11:20ですた。






国立ハンセン病資料館 企画展示のチラシ




自宅から車で2時間、国立ハンセン病資料館の前に立つと、母娘遍路像が目に飛び込んできた。まるであの「土陽新聞」の母娘がそこにいるかのような錯覚を覚えた。

その建立碑にはこう書いてある。

「お遍路は信仰の旅であると同時に、職を奪われ故郷を追われた人々の生活を支える旅でもあった。江戸時代以来、ハンセン病者の多くが、遍路となって四国へ渡った。四国にはお遍路を温かく持て成す風習があり、病者達は、これに残る命の糧を求めたのである。
しかし、不自由な身体に八十八ケ所の札所の旅は遥けく遠い。あるいは遭難により、あるいは病の進昂により、道半ば に斃れた遍路も少なくなかった。今もそうした人々の悲しい歴史が埋もれている。平成二年、わが国のハンセン病者が辿った苦難の人生を、歴史の事実として世に遺すため、多摩全生園大師講を中心に、「母娘遍路像建立委員会」を結成、同五年十一月、全国の人々から寄せられた善意をもとに、この「母娘遍路像は」建立された。
安んじて親族と暮らせるその日まで、隔てなく命輝くその日まで、母娘遍路の旅は果てない。
平成五年十一月吉日」



国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)


国立ハンセン病資料館前に立つ母娘遍路像


 このようなハンセン病患者の遍路姿は昭和十年代まで四国ではごく日常茶飯事であった。明治四十年(1907)の法律制定により、ハンセン病患者は人権無視の徹底した隔離政策の対象となり、非人間的扱いを受けた。これが全面的に改善されたのは長い闘争の末に法律廃止を勝ち取った平成八年(2001)以後のことである。

国立ハンセン病資料館には常設の展示室が三つ、企画展示室が一つある。
ハンセン病をめぐる歴史、政策、患者の生き抜いた姿や証言映像のほかに癩療養所での生活の様子などを知ることができる。
前述のように、この日は20年以上にわたって全国のハンセン病療養所と入所者を撮り続けた趙根在(チョウグンジュ)の写真2万枚のなかから81点を紹介する企画展が行われていた。
療養所に泊まり込んで撮り続けた作者の柔らかな視線を感じるモノクロの写真であった

  
これまた偶然だが、いま(2015年6月)、上映中の映画「あん」は、
『殯(もがり)の森』などの河瀬直美が樹木希林を主演に迎え、元ハンセン病患者の老女が尊厳を失わず生きようとする姿を丁寧に紡ぐ人間ドラマ。

樹木が演じるおいしい粒あんを作る謎多き女性と、どら焼き店の店主や店を訪れる女子中学生の人間模様が描かれる。
「私たちは、この世を見るために、聞くためにうまれてきた。この世はただそれだけを望んでいた。・・・だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ」



資料館には図書室もある。遍路に関連する資料、書籍を調べたいと申し出たら書架からいろいろ取り出してくれ、実に懇切丁寧な対応であった。いくつかの資料名をメモし、後に横浜市の図書館でじっくり読むことができた。

「四国遍路~さまざまな祈りの世界」 (星野、浅川著、吉川弘文館 2011年)
▼「四国辺路の形成過程」 (武田和昭著 岩田書院 2012年)
▼「四国遍路の民衆史」 (山本和加子著 新人物往来社 1995年)
▼「差別者のボクに捧げる~ライ患者たちの苦闘の記録~(三宅一志著 晩聲社1978年)
岩波写真文庫176 「四国遍路」 (岩波書店 1956年)
▼「声明は音楽のふるさと」 (岩田宗一著 法蔵館 2003年)

<追記>この遍路旅を終えた翌7月、ハンセン病患者を救う活動に生涯を捧げた小川正子の墓を訪ねた。


■遍路旅、最後の夜は居酒屋で
・・・

ホテルのすぐ近くに店構えが感じのいい居酒屋が目に入った。
讃岐の珍味を幾種類かとりそろえた肴を注文し、地酒でときを過ごす。
本を眺めては呑む至福の時間だ。明日は夕方5時過ぎの便で羽田に帰る。
それまではたっぷり時間があるので次の札所、86番志度寺へ参拝することにした。
あとふたつの寺、87番長尾寺と88番大窪寺は、奥さんとのお約束で次回にとっておく。
*次回の遍路は7/2~6に決定。奥さんと一緒に88番大窪寺で結願し、高野山へ行く予定

  



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