チェコ語を専門とする言語学者、故千野栄一氏は、1986年に出した『外国語上達法』(岩波新書)の中で、「よい語学書」について、次のようなことを書いています。
よい学習書とは、
-学習者の暗記の負担を考慮して、新しい単語、新しい文法項目が、少しずつ提出されていること。次から次へと新しいことがでてきて学習者を絶望させないこと。
-語彙が精選されていること。基本単語がほぼ網羅され、特殊な単語が多すぎないこと。
-新しく出た単語には必ず訳がついていること。
-文法は、重要なもの、やさしいものから順に並んでいること。重要なものほど難しいということも多いが、その場合は、やさしいものを優先すること。
-基本的なことと例外的なことの区別がはっきりとなされていること。
-重要な単語、重要な文法事項は早い時期に出てきて、その後、繰り返し提出され、定着するようになっていて、学習者が、自分の覚えた単語や文法に再び出会う喜びを感じさせること。
-例文は、覚えやすいように、断片的なものよりも、意味のまとまりのあるスキットが望ましい。文法学習のために無理に作った不自然な文よりも、実際にそのまま使える例文がよい。イラストやデザインが工夫されていることもよいが、もっとも重要なのは、例文の面白さである。
-毎日、一定量の学習がしやすいように、各課の量が一定であること。
-学習者が、自分の学習の進み具合を確認でき、達成感を感じられるようになっていること。
これらすべてを実現している「理想の学習書」なんてないだろうと思っていましたが、それに近いのが、加藤昌彦著『CDエクスプレス ビルマ語』(白水社、2004年)です。
実は、これは偶然ではありません。
千野氏が先の『外国語上達法』を書いた同じ年、同氏は白水社から『エクスプレス チェコ語』を出しているのですね。千野氏はさきほどの「よい学習書の条件」をできるだけ反映させて、「チェコ語」を書いたに違いありません。
高名な言語学者の千野氏が、白水社の「エクスプレス」シリーズにおいて、シリーズの監修者的な役割を果たしていたのかどうか、わかりませんけれども、「エクスプレス」シリーズの構成は、言語が違ってもほぼ共通なので、どの言語も「よい学習書の条件」をある程度反映していると考えて、間違いはないでしょう。
千野氏の『エクスプレス チェコ語』を見てみたい気もするのですが、現在の『チェコ語』の著者は別の人。千野版は、Amazonの中古で14,000円の高値がついているので手が出ません。
さて、『CDエクスプレス ビルマ語』はどうか。
著者は大阪外国語大学准教授(当時)の加藤昌彦(あつひこ)氏。発刊は2004年となっていますが、氏はこの前身の『エクスプレス ビルマ語』を1998年に出しています。おそらく、2004年のときは、別売だった音声(カセットテープ?)をCDにして、本と一体化させただけで、内容は変わっていないと思われます。
構成は、冒頭に発音と文字が25ページに渡って解説されています。じっくりと読めば、あの複雑なミャンマー文字のしくみが正確にわかるのだろうと思いますが、きちんと理解しながら読み通すことはきわめて難しい。
(CDもあるんだし、例文にはカタカナも振ってあるし、まあいいか)
と思って、スキット学習に入ります。
スキットは、ミャンマー文字とカタカナ表記、さらには発音記号もついています。その次に、スキットで出てきた新しい単語が語釈とともに掲載されます。そして、スキットの日本語訳。
次のページには、スキットの中に出てきた文法事項の解説がなされます。解説は、さすが専門家だけあって、詳しい。解説の中に新しい単語を含む例文が出てきますが、その音声はCDにはなく、そのかわりに発音記号が示されます。これらの例文を正しく音読するためには、カタカナ表記ではなく発音記号から音を再現できなければならないことが思い知らされます。
学習を進めていくと、第5課からは、それまであったカタカナ表記がなくなります。
(おっと、そう来たか。発音記号をマスターしておけってことだな)
さらに学習を進めていくと、ショッキングな事実が明らかになります。第9課からは、発音記号までもがなくなってしまうのです!
(そーゆーことだったのか。ミャンマー文字をマスターしておけってことだったのね)
ここに至って、学習者は、本書の冒頭の「文字と発音」をあらためてじっくりと学習することになります。そして、ミャンマー文字の綴りと発音の関係を頭に入れたうえで、もう一度、第一課から、カタカナや発音記号に頼らず、文字を読む努力をしながら学習をし直し、あらためて発音記号なしの第9課以降に進むことになるわけです。
第9課に来て、
(ふざけんな、これじゃ読めるわけないじゃないか)
と癇癪を起こす学習者は、本書によるミャンマー語学習を諦めることになります。
これ以外にも、本書には学習者に真剣な学習を要求する面があります。たとえば、一度出た単語が別のスキットに登場するとき、その単語は「すでに覚えたはずの単語」と扱われ、あらためて語釈が示されることはありません。語彙の暗記をおろそかにすると、先に行って加速度的に学習が困難になるのです。
さらに、巧みに作られたスキットには、常に新しい文法事項を散りばめられており、学習の負荷は相当に高い。2課ごとに練習問題があって、あの難しいミャンマー文字を「書く」ことも求められます。
この学習に耐えたものだけが、ミャンマー語の初等文法を自分のものにすることができます。
次に、スキットの内容について見てみましょう。本書は、全20課構成で、各課にスキットがあります。
スキットは、基本的に二人の会話で成り立っています。地の文があるのは第14課と第15課だけです。
20のスキットの中で、複数のスキットに登場する人物がいます。コー・ウィン、マ・フラ、コー・アウントゥンの3人です。ただし、コー・アウントゥンが出てくるのは第16課以降です。
それぞれの会話には、発言者名が明記されていませんが、会話の内容から登場人物がわかる場合があります。第2、3、4、6、7、8、10、13、14、15、16、17、19、20課には、登場人物の固有名詞が出てきます。
会話から人物が特定できない場合も、スキットのさし絵から人物を同定できる場合があります。第1課、11課などです。ただ、CDの音声は、人物同定には役立たないようです。明らかに違う人物の声が同じだったり、逆に同じはずの人物の声が違ったりしているからです。
上記の主要な登場人物以外に、通りがかりの女性(第9課)、マ・フラのお父さん(第11課)、マ・フラの竪琴の先生(第14課)、マ・フラ、コー・ウィンの共通の友だち(第15課)、市場の売り子(第17課)、コー・ウィンの学校の先生(第19課)、も出てきます。
3人の主要登場人物のうち、コー・ウィン(男性)とマ・フラ(女性)はミャンマー人、コー・アウントゥン(男性)は日本人です。
スキットからわかる3人のプロフィールは…
コー・ウィンは学生で、車の運転ができる(第19課)ところから、大学生と思われます。機械の修理が得意なので(第19課)、工学部の学生かもしれません。語学がよくでき、日本語は少し、中国語と英語は堪能で(第13課)、英語の辞書をたくさん持っているようです(第12課)。日本語の本は1冊しか持っていません(第7課)。
友人が食堂をやっていて、そこのモヒンガー(ナマズスープの麺料理)がおいしいんだそうです(第4課)。お父さんは小学校の先生、お母さんはミンガラー市場でお店をやっていて、評判が良いようです(第7課)。
もし第18課に出てくる男性がコー・ウィンだとすれば、彼は上ビルマ(マンダレー)の出身です。かわいそうに、第15課では犬に噛まれました。狂犬病は大丈夫でしょうか。
マ・フラも学生ですが(第11課)、大学生か高校生かはわかりません。英語の会話学校に通っているけれども、英語の辞書を持っていません(第12課)。日本語はできないのですが(第13課)、日本に友だちがいて、日本語の本を10冊も持っています(第7課)。
ミャンマーの伝統音楽に関心があり、週一回、竪琴を習っています(第14課)。家庭では、よくお父さんに小言を言う、口うるさい娘のようです(第11課)。プーディー(夕顔の実)を揚げるのが上手ですが(第10課)、豚肉料理は嫌いです(第3課)。
コー・アウントゥンは、ミャンマー語を学びに来た日本人留学生です(第16課)。
ミャンマーに来てからミャンマー語の勉強を始めたのに、7か月で相当なレベルに達しており、ミャンマー語の歌も歌えるそうです。一生懸命勉強したと、自分でも言っています(第16課)。
言葉だけでなく、ミャンマーの生活・文化に触れ合うため、ロンジーを買いに行ったり、市場で値切ったりしています。顔立ちがミャンマー人に似ているのか、ロンジー(ミャンマーの民族衣装)を着れば、外国人とはわからないだろうと、ミャンマー人から評されています(第17課)。
最後の20課では、日本に帰ることになったと話しています。帰ってからはミャンマーに関する本を書くとのこと。職業は、著述業なのでしょうか。
いくつか不思議なことがあります。
コー・ウィンは、上で見たように勉強がよくできそうな学生なのですが、マンゴーとリンゴの区別ができず、ヤシの実も知らないようです(第1課)。頭でっかちで社会常識に欠けるところがあるのかもしれません。
また、マ・フラは、ヤンゴン市民であるのに、もっとも有名な観光地の一つであるシュエタゴンパゴダの位置を知りませんでした。「地図の読めない女」なのかもしれません。またサイカ―(自転車の交通機関)の料金を知らないので、ふだんは乗らないのでしょう(第8課)。家がお金持ちなのかもしれません。
主要登場人物の3人は互いに知り合いのようですが、マ・フラと他の男性二人との間は、恋愛関係にはなさそう。ただ、コー・ウィンはマ・フラにモヒンガーをおごったり(第4課)、英語の辞書をあげると言って、自宅に連れて行こうとしたりしている(第12課)ところから見ると、マ・フラに気があるのかもしれません。
全体的に、たとえば同じシリーズのタイ語(旧版、新版)などに比べると、男女関係に関しては淡白ですが、これがタイとミャンマーの文化的な違いを表しているのかどうか、そこのところはよくわかりません。
以上、『CDエクスプレス ビルマ語』は、ミャンマー語を本格的に学習しようとする人にとっての入門書として、決定版と言っていいでしょう。
なお、同シリーズは2015年に、『ニューエクスプレス ビルマ語』として生まれ変わりました。新急行がどのような進化をとげたのかについては、また書く機会があると思います。
(参考)
タイ語急行物語
新タイ語急行物語
急行シリーズの短所
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