犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

オリンピック開会式に見る日本社会の多様化

2021-07-27 23:15:27 | 日々の暮らし(2021.2~)
 7月23日に行われた東京オリンピックの開会式について、韓国の新聞各紙が取り上げていましたが、その中で朝鮮日報に記事が面白かった。

朝鮮日報7月24日付(韓国語版
東京五輪:聖火最終点火者も旗手も混血…「ジャパニーズドリーム」の子孫を前面に


 要約すると、

 今回のオリンピックは、日本にとって2度目の夏季五輪だ。1964年のオリンピックは、日本の戦後の経済復興を世界に示した。57年振りに開催された今回の五輪は、東日本大震災からの復興を示すものになるはずだったが、コロナ禍の下の開催となった。

 この57年間の日本社会の変化は、開会式に表れていた。今大会の日本選手団の男性旗手は、NBAで活躍する八村塁選手であり、聖火の最終ランナーは、テニスの大坂なおみ選手で、どちらも肌が黒いハーフ(混血)だ。

 1964年の東京オリンピックは、純血主義を前面に出す雰囲気が強く、混血はもちろん沖縄出身者、アイヌ系、在日韓国人などは、そこに入る余地がなかった。

 オリンピックをきっかけに日本は経済大国となり、その世界観を広げた結果、オリンピックに八村選手や大坂選手が登場した。八村選手の父親はアフリカの小国ベナン出身、大坂選手の父親はハイチ出身だ。日本人女性との間に生まれた子供たちが、バブル崩壊後の不況の中で成長し、今を迎えたのだ。


 日本の法務省によると、1964年の東京オリンピック以来、国際結婚のカップルは10倍以上に増え、最近の東京では10組に1組の割合で国際カップルが生まれている。少子高齢化の流れから脱却する鍵を求めている日本にとって、八村選手、大坂選手、サニ・ブラウン選手(父親がガーナ出身)は新たな活気を吹き込むエネルギーになっている。…

 記事中には、このほかにリオ五輪に出場したケンブリッジ飛鳥選手(父親がジャマイカ出身)も紹介されています。

 記事内容は大筋で正しいと思いますが、細部で「本当かな?」と思わせるところがあります。

 彼らの根にはかつて日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として世界に君臨し、浮かれていたバブル期の栄華が隠れている。バブルの絶頂だった1980~90年代の日本は、世界経済の中心だった。全世界から、とりわけ開発途上国の若者たちが心から「ジャパニーズ・ドリーム」を夢見て、日本に向かった。八村選手の父親はアフリカの小国ベナン出身、大坂選手の父親はハイチ出身だ。日本人女性との間に生まれた子供たちがバブル崩壊後の不況の中で成長し、今を迎えたのだ。彼らは多様で調和のある生き生きとした日本人だ。

 バブル期の1980~90年代に、「全世界から、とりわけ開発途上国の若者たちが心から「ジャパニーズ・ドリーム」を夢見て、日本に向かった」という現象が、本当にあったのでしょうか。

 私が思いだせるのは、1990年頃に上野公園などで違法テレホンカードを売っていたイラン人ぐらいです。日本とイランは当時「ビザ相互免除協定」を結んでいて、イラン人はビザなしで日本に入国できました。88年にイラン・イラク戦争が終結した後、イラン人不法滞在者が急増。そのため、日本政府は92年に「ビザ相互免除協定」を終結させ、その後、在日イラン人の数は激減しました。

 私は、90年代初めに多くの韓国人留学生をアルバイトとして雇用しました。女子学生は、日本語や日本文学を専攻する学生で、韓国で大学を卒業した後、日本の大学院に留学していました。彼女たちの多くは、日本で学位をとったあと帰国し、韓国の大学の日本語・日本文学部で教職につきました。男子学生の場合は、早稲田や慶応などで経営学などを学んでいました。韓国で名門大学(ソウル大、延世大、高麗大)に入れなかったため、就職で優遇される米国、日本の大学に留学したのですね。ただ、日本の大学に来ていたのは、英語が苦手で米国留学が難しい人たちでした。彼らもまた、卒業後は帰国して、韓国の財閥企業や、韓国に進出している日系企業などに就職しました。

 むしろ、韓国人で、「ジャパニーズ・ドリーム」を夢見て日本に向かったのは、水商売の女性たちだったのではないでしょうか。彼らの実態は、呉善花著『スカートの風』に描かれています。

 韓国だけでなく、フィリピンやタイの女性たちも似たような動機で来日していました。10年ほど前、東京や大阪でエスニッククラブを経営していたママさんは、若かりし頃、バブル期の日本でどれだけ稼ぎ、本国の貧しい家族に送金し、家が何軒建った、なんていう自慢話をよくしてくれました。彼女たちにとって、日本は「夢の国」だったのかもしれません。

 ジャパニーズ・ドリームは、「アメリカン・ドリーム」をもじった言葉です。「アメリカン・ドリーム」は、ヨーロッパの階級社会で機会に恵まれなかった者たちが、移民国家であるアメリカに渡り、一代にして財をなしたことを指す言葉です。

 日本は、バブルの絶頂期にあっても、基本的に移民を認めていませんでしたし、規制も多かったので、外国人が経済的に大きな成功を収めるのに有利な環境ではなかったはずです。

 ただ、日本語ができて、まじめに働けば、本国よりは高い給料を安定的にもらえる、という程度のメリットはあったと思います。それを「ジャパニーズ・ドリーム」というべきかどうか。

 近年、ベトナムやネパールで、悪質な斡旋業者が「ジャパニーズ・ドリーム」を騙って、技能実習生を送り込み、法外な手数料をとっている実態が報道されています。しかし、彼らは、来日後に「ジャパニーズ・ドリーム」が幻想だったことを知ります。

 記事中に紹介されている八村塁選手のお父さんは、ベナン人として3人目に来日したとのことですが、奨学金でカイロ大学を卒業した秀才で、「日本が好きだったから来日した」とのこと。また、大坂なおみ選手のお父さんはハイチ出身ですが、ニューヨーク市立大学を卒業して米国籍を取得してから日本に来ましたから、ハイチ系米国人というべきです。

 この二人が、「ジャパニーズ・ドリームを夢見て来日した発展途上国の若者」の例としてふさわしいか、はなはだ疑問です。

 1964年の東京オリンピックで日本は合計29個のメダル(金16、銀5、銅8)を獲得し総合3位となった。当時の看板スターは柔道で最初の金メダリストとなった中谷雄英、男子体操で2冠王となった遠藤幸雄、「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーの選手たちだった。そこには純血主義を前面に出す雰囲気が強く、混血はもちろん沖縄出身者、アイヌ系、在日韓国人などは、そこに入る余地がなかった。

 1964年の東京オリンピックの日本代表選手に、混血、沖縄出身者、アイヌ系、在日韓国人がどれだけいたのか、一人もいなかったのかはわかりません。

 1964年当時、米国によって統治されていた沖縄が日本に返還されたのは1972年のことです。それ以前に沖縄在住者が本土に行くには、「琉球政府」発行のパスポートが必要だったそうです。おそらくは「外国扱い」されていて、オリンピックの日本代表になる資格はなかったのではないかと思います。

 アイヌ系は、そもそも人口が少なく、1971年の統計で北海道に7万7000人ほど。アイヌ系であるという理由でオリンピックに出られなかったというのは考えにくいですが、1億人の中の10万人弱(0.1%)ですから、選手がいなかったとしても不思議ではありません。

 在日韓国人は、帰化していなければ、オリンピックへの出場は認められませんでした。それは今も同じです。

 終戦時、日本には、約200万人の朝鮮半島出身者がいましたが、多くは終戦とともに帰国し、事情があって日本に残った人は約60万人でした。それらの人々は戦後日本国籍が与えられず、韓国籍または朝鮮籍となりました。日本に帰化するという選択もありましたが、帰化条件は厳しく、また帰化を望む人たちも少なかった。鄭大均『在日韓国人の終焉』に載っている統計によれば、1964年までに日本に帰化した在日朝鮮人・韓国人は33,897人ですから、アイヌ系よりもずっと少ない。きっと、オリンピック選手に選ばれた人もいなかったと思われます。

 しかし、このような事実をもって、日本が純血主義だった、民族差別を行っていた、というのは見当違いだと思います。

 プロレス界のスーパースター、力道山は、東京オリンピックの前年に、暴漢に刺されて亡くなりました。彼は生前、朝鮮半島出身という出自をひたかくしにしていました。しかし、今回のオリンピックで聖火ランナーの一人になった「ホームラン王」の王貞治氏は、自らが台湾出身であることを隠していませんでしたし、元国鉄・巨人で400勝をマークした金田正一氏、3000本安打の大打者張本勲氏も在日韓国・朝鮮人であることを公言していました。相撲界の大横綱、大鵬も母親が白系ロシア人であることは周知の事実でした。1964年当時に活躍していた外国出身のスポーツ選手が、多くの日本人から喝采されていたことを見ても、オリンピック選手の選考にあたって、民族差別が行われていたというのは考えにくいことです。

 日本の法務省によると、1964年の東京オリンピック以来、国際結婚のカップルは10倍以上にまで増え、最近の東京では10組に1組の割合で国際カップルが生まれているという。

 私が調べたところでは、2018年の国際結婚比率は全国で3.7%、東京で5.6%(リンク)。「最近の東京では10組に1組」の根拠は不明です。なお、国際結婚の組み合わせで多いのは、2016年の統計で、「夫が日本人、妻が中国人」(26.1%)、「夫が日本人、妻がフィリピン人」(15.9%)、「夫が日本人、妻が韓国人」(9.6%)などとなっています(リンク)。

 私の親戚でいうと、叔母は戦前からつきあっていた台湾出身者と、戦後すぐに結婚して台湾に住んでいます。いとこ(女性)は日系アメリカ人と結婚し米国在住。三女は、昨年フィリピン人と結婚して今は一児の母。四女は以前、留学先で知り合ったスウェーデン人と、さきごろ婚約しました。

 この57年間で、日本人の「世界観が広がり」、日本社会の多様化が進んだのは確かです。

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