写真:硫黄島摺鉢山に米軍が星条旗を立てる瞬間(ウィキペディア)
戦争と父①
戦争と父②
戦争と父③
父はあの戦争(大東亜戦争、太平洋戦争)について、どう思っていたのでしょうか。
敗戦後に入学した大学の授業で、あるいは戦後、終戦記念日のたびに放映されるドキュメンタリー番組を見て、戦時中に聞いていた「大本営発表」の嘘が暴かれ、日本軍部と戦争の「真実」が明らかになったとき、素直に受け入れることができたのでしょうか。
1971年に放映された「決断」という戦争アニメを、父といっしょに見たことを、前に書きました。
ミッドウェー海戦の回だったか、レイテ沖海戦の回だったか、ともかく日本が惨敗を喫した海戦を扱った回で、父が「海軍がだらしなかったから日本は負けたんだ」というようなことを言ったのを覚えています。
硫黄島玉砕の回では、米軍が物量にものをいわせて砲撃している実写が映りましたが、そのとき米兵はガムを噛みながら笑みを浮かべていました。それを見て、「日本は物量の差で負けたけど、精神力では上だった」とも。
書棚には、戦艦大和の最期を描いた能村次郎『慟哭の海』と並んで、北一輝に関する本もありました。父なりに、戦争の真実を探るための読書をしていたのだと思います。
アメリカのテレビドラマ「コンバット!」をいっしょに見た記憶もあります。今調べると、放送年は1962年から67年。私が1~6歳という計算になります。私の記憶では小3~4の頃と思うのですが、再放送があったんでしょうか。
第二次大戦のヨーロッパにおける、アメリカ軍とドイツ軍の戦いを描いたもの。アメリカのドラマですから、ドイツ軍は悪者、アメリカ兵は人間味あふれる姿で描かれています。捕虜になったドイツ兵に対し、アメリカ兵が温情をかけ、場合によっては心の交流が生じることもある…。
父は、「アメリカ流のヒューマニズムっていうやつだ」と冷やかにコメントしていました。私はヒューマニズムという言葉の意味がまったくわかりませんでしたが、耳慣れない謎の言葉として長く記憶に残りました。
「大脱走」というアメリカ映画も、テレビで見ました。スティーブ・マックイーンとか、チャールズ・ブロンソンが出たやつです。脱走を試みて失敗した米軍捕虜が、ドイツ軍に機関銃で皆殺しにされる場面が出てきます。私や兄、母は米兵に同情していましたが、父は「脱走した捕虜が殺されるのは当たり前だ」と言い放ちました。
「生きて虜囚の辱めを受けず」とは、日本軍の「戦陣訓」の一節。日本軍では捕虜になることは恥だと教えられていたのです。
ポケット版の「軍歌集」もありました。私が少年向けの戦記物を読んでいた時、この本を見て面白半分に軍歌を覚えたりもしました。
父は「海軍の歌はよく知らない」といいながら、露営の歌(勝ってくるぞと勇ましく…)とか同期の桜(貴様と俺とは同期の桜…)などを教えてくれました。
露営の歌は、朝ドラ「エール」の主人公、古関裕而の曲ですね。
家ではあまり歌を歌うことのなかった父ですが、銀行の宴会などでは、陸士・海兵出身の同僚と軍歌を歌ったりもしたのでしょう。
父は、米英を敵に回したあの戦争を「愚かな戦争」「無謀な戦争」と考えていたのでしょうか。それとも、かつての軍部が主張していたように、アジアを解放するための「正しい戦争」だったと思っていたのでしょうか。
これについて、面と向かって父の考えを聞く機会はありませんでした。
米英を悪しざまに言うのは聞いたことがありませんが、ソ連や中共(支那と呼んでいました)については、明らかに嫌っていました。銀行という資本主義の権化のような職業に就いていたからか、陸士同期の中にシベリア抑留で辛苦を嘗めた人々がいたからかもしれません。
かつて日本の植民地だった台湾について、蒋介石(国民党)のことは「えらい」と言っていましたが、これは戦後賠償を放棄したからだったのか。韓国についてはほとんど語らなかったように思います。
朴正煕は陸軍士官学校に留学し、陸士57期相当だったということですが、59期の父とはすれ違いだったと思います。金大中事件(1973年)が起きたとき、父はまだ存命でしたが、父の口から朴正煕の名前を聞いたことはありません。私が覚えていなかっただけかもしれませんが。
父は、紀元節(建国記念日)や天長節(天皇誕生日)などの祭日には、必ず家の門に日の丸を掲揚していました。そういえば、わが家では祭日を「はたび(旗日)」と呼んでいました。
休日に家にいるときは、夏は浴衣、冬はどてら姿。職場に行くときはスーツ姿でしたが、家では「和式」で通していました。
4歳上の兄とは、兄が反抗期のときに父と取っ組み合いの喧嘩をしたことがありますが、私は父と深刻な対立を経験したことはありませんでした。
もし父が49歳という若さで死ぬことなく、成人した私と戦争の話をする機会があったなら、もしかして意見の対立が生じ、親子不和になっていたかもしれません。
そうだとしても、やはりもっと長生きをして、いっしょに酒を酌み交わしたかったなあと思います。
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