犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

戦争と父①

2022-12-08 22:58:57 | 思い出

 12月8日は太平洋戦争開戦の日。

 1941年のこの日、大日本帝国海軍はハワイ、オアフ島の真珠湾にあった米太平洋艦隊を奇襲し、大戦果を挙げました。

 この作戦を描いた「トラ・トラ・トラ!」という映画を小学生の時に見た話は、以前書いたことがあります。

トラ・トラ・トラ!

 父が家族4人分の前売り券を買ってきて、有楽町のロードショー館で観ました。

 そのとき私は小学校4年生。

 父といっしょに映画館で映画を観たのは、これが最初で最後でした。父は私が中3のとき、49歳で他界しました。

 映画を観た後、しばらくの間、私は子ども用に書かれた戦記物にはまりました。

「決断」という戦争アニメが放映されたのもこのころです(1971年)。

 土曜日の夜の放映だったため、何回か、夕食をとりながら父といっしょに観たこともあります。

 最後のほうの回で、特攻隊の実写が出てきたとき、父が涙を流していたことが強く印象に残っています。

 先日、村上春樹の『猫を棄てる―父親について語るとき』を読み、「自分の父と戦争」について考えるところがあったので、ちょっと書いてみようと思います。

 父は元大日本帝国陸軍の軍人でした。(そのように聞いていました)

 大正15年生まれ。

 育ったのは東京都神楽坂。神楽坂は皇居からそう遠くない。祖母の話によれば、神楽坂は近衛騎兵の通り道になっていたそうです。

 家に残されていた雑記帳には、父が子どもの頃に描いた軍人の絵がたくさんありました。子どもの時から軍人にあこがれていたようです。

 真珠湾攻撃があったのは、父が旧制早稲田中学校の生徒だったとき。

 父は、中学4年生時に陸軍士官学校予科を受験し、合格しました。

 当時、陸士と海兵(海軍兵学校)は、一高(旧制第一高等学校、東大教養学部の前身)と並んで人気があり、かなりの難関だったようです。勉強さえできれば入れた一高に比べ、身体検査や運動能力も問われた陸士・海兵はより難しかったかもしれません。

 陸士に入った後、戦況は急速に悪化し、陸士を繰り上げ卒業させられた時はすでに輸送船はなく、国内の高射砲陣地で本土空襲に来た米軍のB29を撃墜する任務をしていた、と聞きました。

 今、私の手元に『陸軍士官学校』という大型の本があります(冒頭写真)。昭和44年刊行、版元は秋元書房。父が生前に購入したものです。

 巻末に陸軍士官学校卒業生名簿があり、「59期」のところに米粒のような字で印刷された父の名前がありました。

 あらためてその本を読んだところ、私がいくつかの点で思い違いをしていたことがわかりました。

 父が入学したころの陸軍士官学校は2年の予科と、1年の本科があり、卒業すると尉官(少尉)になることになっていました。

 年表を見ると、父の59期は、1943年4月に予科に入校。同じ月に、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島で戦死しています。

 1944年10月に予科を卒業。本来予科は2年ですが1年6か月で卒業しています。繰り上げ卒業させられたのは、予科だったのでした。

 そして本科に入学して約10か月後の1945年8月15日に、日本は無条件降伏します。

 終戦までに陸軍士官学校(本科)を卒業したのは58期までで、59期生は在校中に終戦を迎えたのでした。

 本文に59期生に関する記述もありました。

 予科に入校した59期生は2850名(うち航空兵科約1600名)。

 航空兵科の生徒は他の兵科より早く44年4月に本科に進み、操縦兵候補生は45年3月に操縦訓練のために満州へ行きました。終戦の時、たった半日だけ復員が遅れた約100名はソ連軍の捕虜となってシベリアに4年間抑留され、少なからぬ犠牲者が出たということです。

 父が属していた地上兵は44年10月に本科に進み、直ちに兵種別教育に入りました。45年2月に40~50人単位で内地の連隊で1か月の隊付教育。父は埼玉の高射砲隊に行ったようです。

 隊付の生徒は、3月に座間の相武台校舎に戻ります。空襲が激しくなったため、6月には大部分が長野県下に疎開。8月には本土決戦に備えた第二次野営演習を行いました。ただし、機甲、高射砲、鉄道、船舶の兵科は隊に残留したという記述もあり、高射砲隊にいた父は終戦まで部隊に残っていた可能性もあります。

 父は生前、「日本軍の高射砲は性能が悪くて、高空を飛ぶB29まで届かず、撃ち落とせたのはたった1機だけだった」と言っていました。

 本には「45年に入ってから空襲は激化し、本土も戦場になった。5月、相武台を襲ったグラマン機を58期生の高射砲兵は地上砲火によって撃墜した」との記述が見えます。父の回想は自分の部隊のことではなく、1期上の戦果だったのかもしれません。

 グラマンはB29のような爆撃機ではなく、地上の兵士や市民を機銃掃射した戦闘機です。低空で飛行したので、日本軍の高射砲でも撃墜できたのでしょう。

 父に出会う前の母は東京・目黒に住む女学生でしたが、自宅はB29が落とした焼夷弾で全焼、避難中にグラマンに追い掛け回された経験があるそうです。

 祖母(父の母)は神楽坂で洋品屋を営んでいましたが、食料はじめ生活必需品が配給制になり、政府から旦那が別の職をもっている店は廃業してほしいという要請があったため、1943年頃に東京・大田区に転居しました。祖父は銀行員でした。

 当時、大田区の自宅周辺は畑だらけだったので、空襲には遭いませんでした。

 近くに、やはり高射砲陣地があり、グラマンが撃ち落とされて家から徒歩10分ほどのところにある寺に墜落したのを見に行った、という話を祖母に聞いたことがあります。空襲にはあいませんでしたが、高射砲の薬莢?が自宅の風呂場を直撃し、私が生まれる直前まで、使用不能のままほうっておかれたそうです。

 私は小さいころ、高射砲の台座が残っていた空き地でよく遊んだものでした。

 終戦後の8月29、30日に陸軍士官学校は分散していた各地で解散式を行いました。その際、在校中の第59期生には特別に卒業資格が与えられたということです。「尉官(少尉)」になったのかどうかはわかりません。

 父の戦争体験は、45年2月の隊付訓練から終戦の8月まで、約半年でした。

 本土決戦に備え、白兵戦で敵を殺す訓練はしたでしょうが、実際に殺したことはなかったと思います。グラマンを撃墜したというのも、父が撃った弾ではなく、同じ部隊の他の兵隊のものだったでしょう。

 56期、57期卒業生は前線に出て、半数以上の戦死者を出しました。58期は戦争中に卒業しましたが、前線に行く輸送船はもはやなく、在校中に終戦を迎えた59期と同様、戦死者はほとんど出ませんでした。

 前線に行かずにすんだ父は、幸運だったといっていいでしょう。

 父が終戦をどのような気持ちで迎えたのかはわかりません。それについて、父は私や家族に何も語りませんでした。

 しかし、同じ年代の数多くの若者たちが戦地で散っていったことに対し、無念の気持ちをもっていたのは確かでしょう。

 それは、戦後、特攻隊のドキュメンタリー映像を見て涙していたことからもわかります。

 私が中3のときに亡くなった父の遺品の中に、陸士時代のベルトとバックルがありました。まだ使えたので、高校生の一時期、そのベルトをして学校に通っていたことがあります。

 一冊のノートも遺されていて、終戦直後の日記の断片がありました。

 終戦時、父は19歳。あらためて東京大学進学を考えていたようですが、マッカーサー指令により、陸士・海兵出身者の東大入学が禁止されたため、20年9月から22年3月まで、父は自宅で無為の生活を送っていました。

 日記はそのときにかかれたもので、終戦後の食糧不足、闇市の横行について、政府の無策を批判する文章のほか、陸軍士官学校についての言及もありました。

「陸士の経験は、人生においてまたとない肉体的、精神的修養の場であった」

 父の青春を捧げた陸軍士官学校は、当然かもしれませんが、父にとって肯定的に位置づけられていたようです。

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