犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

赤い靴は海外入養の歌?

2021-07-09 23:04:57 | 日々の暮らし(2021.2~)
 最近、家や車中で、孫のために童謡のCDを良く流します。

娘「お父さん、この歌、こわいね」

私「ん? 赤い靴? なんで?」


娘「だってこれ、女の子が誘拐される歌だよ」


 そういわれて聞きなおすと、たしかにそんな内容です。

1. 赤い靴 はいてた 女の子
 異人さんに 連れられて 行っちゃった

2. 横浜の 波止場から 船に乗って
 異人さんに 連れられて 行っちゃった

3. 今では 青い目に なっちゃって
 異人さんの お国に いるんだろう

4. 赤い靴 見るたび 考える
 異人さんに 会うたび 考える


 私は、「赤い靴をはいた女の子」というのは「人形」のことだろうと勝手に想像していたのですが、生身の女の子だとしたら、確かに「誘拐」か「人身売買」ですね。

(これって、もしかして海外入養のこと?)

 韓国では、朝鮮戦争の後、多くの戦争孤児がアメリカ人によって養子として引き取られていきました。それを「海外入養(ヘウェイビャン)」と言います。

(日本も太平洋戦争のあと、戦争孤児たちがアメリカに養子に出されたのかもしれないな)

 調べてみると、予想は外れました。

『赤い靴』は、1922年(大正11年)に発表された曲で、作詞者は野口雨情。

 歌詞の内容については、実在のモデルがいるそうです。

「赤い靴をはいた女の子」は、1902年生まれの佐野きみ。きみの母親、岩崎かよは未婚の母としてきみを育てていたが、北海道に渡り鈴木志郎と結婚する。きみが満3歳の時、夫婦は北海道の農場へ入植する。しかし、開拓生活の厳しさのため、かよは義父の仲介で、娘の養育をアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻に託すことにした。かよは、娘がアメリカに渡ったと思っていたが、きみは結核に冒されていたため、ヒュエット夫妻はアメリカに帰るときに連れて行く事ができず、東京の教会の孤児院に預けられる。きみは孤児院で、母親に会うことなく、9歳で亡くなった。母親のかよは、きみが孤児院に入れられたこと、そこで夭折したことを知らされることはなかった。(出典:Wikipedia)

 なんとも悲しい話ですが、「誘拐・人身売買」ではなかったようです。

 なお、作詞者の野口雨情は、北海道の新聞社に勤めていたときに、同僚の鈴木志郎、その妻かよと知り合ったそうです。そして、「かよの娘のきみが宣教師に連れられて渡米した」という話をかよから聞き、それを題材として1921年『赤い靴』を作詞し、翌年本居長世の作曲で童謡になったのだということです。(以上が「定説」ですが、細かい事実関係について「異説」があるようです)

 野口雨情は、童謡「シャボン玉」の作詞者でもあります。

シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた

シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
産まれてすぐに こわれて消えた

風、風、吹くな シャボン玉飛ばそ

 この歌詞も、一説によると、「死んだ長女への鎮魂歌」なのだそうです。

 野口雨情は1908年に妻のひろとの間に長女「みどり」をもうけたが、産まれて7日目に死んでしまった。ある日、村の少女たちがシャボン玉を飛ばして遊んでいるのを見た雨情が、「娘が生きていれば今頃はこの子たちと一緒に遊んでいただろう」と思いながら書いた詩が、この「シャボン玉」だ。

 「産まれてすぐにこわれて消えたシャボン玉」が自分の娘だったとは。

 これが事実とすれば、実に悲しい話です。ただ、野口雨情の証言はなく、たんなる想像にすぎないと言う人もいるそう。

 最後に、韓国の「海外入養」に関する新聞記事を見つけたので、翻訳紹介します。アリサ・H・オー著『なぜ子どもたちは韓国を離れざるを得なかったのか』という本の紹介記事です。

韓国日報2019年6月6日付(リンク、原文韓国語

海外入養の秘められた真実…韓国はお金が、アメリカは道徳が必要だった

「安い車とテレビで有名になる前、韓国は孤児で有名だった」

 1988年、韓国が夏季オリンピック開催で湧いていたころ、米国の日刊紙「ワシントン・ポスト」に載った記事の一節だ。世界の人々は韓国を、戦争の廃墟から立ち上がった新興経済発展国家としてよりも、「孤児輸出国」として記憶していたのだ。これは不愉快だが真実だった。朝鮮戦争が終った1953年から今日まで、20万人の子どもが海外に養子に出された。出生人口当たりの子どもの送り出し数は最も多い。このうち米国に養子に出された子どもは11万人に近い。なぜ韓国の子どもたちは、アメリカにとりわけ多く送られたのか?

 ボストン大学史学部のアリサ・H・オー准教授は、『なぜ子どもたちは韓国を離れざるを得なかったのか』という本の中で、韓国の海外入養(国際養子)の起源と背景を考察した。韓国の海外入養の歴史を米韓の視点から取り上げた本は初めてだ。

 著者は、朝鮮戦争後、韓国の子どもたちの米国への養子ブームは、韓国と米国双方の国益に叶った「秘密の裏取引」の上に成立したと説明している。まず米国が韓国の子どもたちを大挙連れてきたのは、道徳的優位を誇示するためという次元のものだった。冷戦中、共産主義陣営と体制の競争を繰り広げていた米国は、朝鮮戦争の被害で行き場を失った子どもたちを引き受け、全世界を愛で包む「良き親」というイメージを作り上げようとした。国内事情としては、非白人の子どもたちは、米国社会の多様性を示すのに必要不可欠な存在だった。人種差別反対と平等権の要求が高まっていた時代、米国社会はアジア系の子どもたちを積極的に受け入れることによって、自らを「寛容の国」であると正当化した。著者は、「キリスト教の理念を信奉する米国人にとって、海外入養は人種差別と共産主義を撲滅し、米国の偉大さを広く知らしめる機会だった」と説明している。

 韓国にとって海外入養は、国家が力を入れた産業であると同時に、超大型の福祉政策だった。初代大統領の李承晩(イ・スンマン)は、「GIベイビー(米軍兵士と韓国人の間の混血児)を米国にたくさん送ることが最高の福祉事業だ」と公言した。甚だしきに至っては、両親のある子どもたちさえも孤児を装って米国に送られた。国家は民間の海外入養機関とぐるになって、孤児の戸籍を捏造し、身分洗濯(ロンダリング)を奨励した。貧困を子どもに受け継がせることを申し訳なく思う親たちは、それが最良の選択だと考え、勧めに従った。売春婦と未婚の母の親権放棄は、母親の愛と義務という言葉で飾られた。

 国内の養子縁組は、朴正煕(パク・チョンヒ)政権時代に全国的に奨励されたが、根深い血統主義の壁を乗り越えるのは容易ではなかった。本書は、米国人宣教師ハリー・ホルトが設立したホルト児童福祉会などの海外入養専門機関が、お金にならない国内より手数料を高くとれる海外入養に邁進した、と主張している。著者は、「海外入養を産業的に推し進めたのは、結局のところ韓国政府だった」と皮肉交じりに述べている。国家は、極貧家庭の子どもたちを海外入養に出すことで、国家が担うべき社会福祉の責任を放棄した。

  海外入養は、韓国と米国のどちらにも利益をもたらした。しかし、肝心の養子たちの利益は蹂躙された。人間性が検証されていない養父母から、子供たちが暴行を受けたり、縁を切られたりしたケースが少なくなかった。米国の市民権を取得できないまま強制的に追放されたり、不法滞在者にされた子どもは2万人に達する。しかし、誰一人責任を取ろうとする者がないまま、海外入養は今も続いている。韓国政府は海外入養を毎年10%ずつ減らすと言明したが、昨年も303人の子どもが海外入養された。
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