犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

慰安所日記を読む(8) 解題―第四次慰安団

2014-06-06 23:13:20 | 慰安婦問題

 本書の冒頭には、この資料を発掘し、現代韓国語に翻訳した安秉直(アン・ビョンジク)教授の「解題」がついています。解題の構成は以下の通りです。

はじめに
1.筆者と日記の紹介
 1)筆者(1905~1979)
 2)日記
2.慰安婦の動員と出陣
 1)動員
 2)出陣
3.慰安所の分布と類型
 1)分布
 2)類型
4.慰安所の経営と慰安婦たち
 1)慰安所の経営
 2)慰安婦たち
むすび


 このうち、「1.筆者と日記の紹介」はすでに当ブログで翻訳紹介しました。残りの部分も全訳しようかと思いましたが、読んでみると、全訳する価値がないことがわかったので、以下に要約のみご紹介します。


解題―第四次慰安団

はじめに

 日本軍慰安婦問題は、1990年代の初めから今日まで、約20年間にわたって研究が続けられていたが、いまだに実態が明らかではない。その原因は、第一に慰安所政策を主導した日本軍部が問題を隠蔽するために資料の作成と公開を極端に抑制したこと、第二にこの職業に従事した多くの人々も記録を残さなかったことにある。また日本政府が発表した慰安婦関連資料からも、朝鮮総督府の資料はそっくり抜けている。そのため慰安婦問題の研究は、新聞・雑誌などの二次資料、元慰安婦の証言、第三国の資料に含まれる朝鮮人慰安婦関係の資料に頼らざるをえない。

 今回発見された日記は、筆者の個人生活上の記録であるが、慰安婦問題についての多面的な情報を提供してくれる。日記は2年間しかないが、他の資料を合わせ読むことで、慰安婦問題の実態を復元することができる。実態というのは、「第四次慰安団」の存在であって、慰安婦は業者たちの営業手段として個別に募集されたのではなく、日本軍部によって計画的に動員されたという事実を意味する。

 もし旧日本軍部が、第一次~第四次の慰安団を次々と組織したのであれば、現在の日本政府が主張するように、旧日本軍部がたんなる「関与」ではなく、徴用、徴兵、挺身隊のような、日本政府の戦時動員として理解するほかないからだ。この資料は、業者が営業のために慰安婦たちを連れて日本軍の部隊について回ったのではなく、日本軍部隊が、軍の下部組織として編成された慰安所と慰安婦たちを連れ回したのだという事実を、よく示している。

1.筆者と日記の紹介
 1)筆者(1905~1979)
 2)日記

全訳→リンク

(未訳出の最終段落)
 この日記をもとに慰安婦と慰安所の実態をまとめるためには、日記の核心をなす第四次慰安団についてのほかの資料と研究を参考にしなければならない。その中でも、巻末に掲げた連合軍の二つの資料(→リンク)と、『ビルマ戦線日本軍「慰安婦」文玉珠』(森川万智子著、金ジョンソン訳、2005)は重要である。

2.慰安婦の動員と出陣

1)動員


 巻末資料および吉見教授の研究によれば、第四次慰安団は1942年5月初に、日本軍部が日本人業者に慰安婦募集を依頼し、業者を朝鮮に派遣、朝鮮軍司令部の協力のもとに慰安婦を募集した。この情報は、朝鮮の日本人業者だけでなく朝鮮各地の朝鮮人業者にも伝わったと思われる。日記を見れば、業者には日本人だけでなく朝鮮各地の朝鮮人が含まれていることがわかる。集められた慰安婦は、巻末資料によれば、売春経験者もいたが、無知で無教育な一般女性たちが多かったそうだ。

 文玉珠は、南方の慰安所に向かうとき、満洲の慰安所で働いていた二人の女性に誘われ、また釜山に集合したときには、やはり満洲で働いていた別の慰安婦女性に会ったという。

 第4次慰安団の慰安婦は、憲兵や警察によって直接動員されたのではなく、業者たちによって募集されたようだ。巻末資料によれば、慰安婦たちは、仕事の内容をはっきり知らないまま、高収入、家族の負債返済、楽な仕事、新天地での新しい生活などの虚偽説明を信じて慰安婦に応募し、2~300円とも300~1000円ともいわれる前借金を受け取った。募集には、人身売買まがいの前借金に加え、誘拐まがいの詐欺の手法が用いられた可能性が高い。

 日記に出てくる、募集に関わる情報は次の通り。

「去る7月初めにラングーンで慰安所を経営している金田氏は、慰安婦を募集しに朝鮮に行ったが、今回、慰安婦25人を連れてビルマへ行く途中にシンガポールに到着した」(43年12月3日)

「西原君の家に行って遊んだが、金田、徳山など、ビルマで慰安業を経営し、慰安婦を募集してまたビルマに行く両氏に会い、故郷の消息を聞いた」(43年12月5日)

「慰安婦募集のために朝鮮に帰った大洋倶楽部の主人西原武市は、今度の7月、京城から出発する予定だと西原菊次君に電報が来た」(44年4月15日)

 これらの記事は、1943年の12月と1944年の7月ごろにも慰安団が朝鮮からシンガポールへ向けて出発した可能性を示唆すると同時に、慰安団は軍によって組織されたが、募集は業者が行ったということを示している。

2.出陣

 第4次慰安団は、1942年7月10日に釜山を出発した。団長は、朝鮮人とみられる津村だったそうだ(1944年4月6日)。第4次慰安団の規模について文玉珠は、全部で150~200人で、15~20人ずつのグループに分かれ、グループごとに慰安所の経営者と従業員が1~2人ずついたと証言している。一方、巻末付録には、「捕虜とその妻は、22人の女性たちを連れて1942年7月10日に釜山港を出港したが、一行は朝鮮人女性703人と約90人の、彼のように賤しい品性の日本人の男女だった」(「付録2」)と書いている。後者は当時の現地調査記録なので、文玉珠証言より信憑性が高いと思われる。

 日記によれば、勘八倶楽部の経営者、山本○宅(43年1月1日)、蓬莱亭の経営者、野澤(43年1月29日)、文楽館の経営者、新井清次(43年2月28日)、乙女亭の経営者、松本恒(43年4月11日)、店名未詳の慰安所経営者である金和柱道(43年2月8日)、光山寛治(43年2月10日)、大石(43年4月3日)、内薗(43年4月20日)らが、第4次慰安団として、いっしょに釜山港を出発したそうだ。彼らはみな朝鮮人だった。したがって、上の引用文中の「90人」は、日本人より朝鮮人のほうが多かった可能性もある。

 慰安所業者と慰安婦は軍属の待遇を受け、旅券ではなく軍発行の「旅行証明書」をもって出国し、軍用船を利用し、その後の移動も主に軍用交通手段を利用したため、料金は無料だった。

 前借金については、業者が自ら負担したという複数の証言もあるが、永井和『日本軍の慰安婦政策について』によれば、「前借金の一割を軍部が支給」したそうだ。日本軍慰安婦問題に関する調査・研究を主導してきた吉見義明教授も、前借金が軍から支出されただろうと推測している。

3. 慰安所の分布と類型

1)分布


 1942年7月10日、軍用船に乗って釜山を出発した第4次慰安団は、ラングーンに到着後、20人前後のグループに分かれ、日本軍の要請にしたがって、日本軍の駐屯地もしくは一定規模の都市へ配置された。

 ビルマにおける日本軍慰安所の総数はわからないが、ビルマ中部の地方都市、マンダレーには9つの慰安所(日本人慰安所1、朝鮮人慰安所3、ビルマ人慰安所4)があったそうだ。また巻末資料によれば、マンダレー近隣のメイミョーには8か所(うち日本人慰安所2)、ビルマ北部のミッキーナには4か所(うち3つには朝鮮人慰安婦63人、1つには中国人慰安婦21人)あったそうだ。

 日記には、ビルマに27か所、シンガポールに10か所、計37か所の慰安所が出てくるが、同じ慰安所が別の地域に移動した場合、数が重複している。

 日記には、朝鮮人経営の慰安所が多いが、そのほかに日本人慰安所、中国人慰安所そしてビルマ人慰安所もあった。しかし、業者と慰安婦ともに朝鮮人が多い点が目立つ。朝鮮人と明記されていない場合も、経営者名が記されている慰安所はたいてい朝鮮人慰安所だと思われる。彼らの中には第4次慰安団としてビルマに来た人々が多い。シンガポールの慰安所経営者には、第4次慰安団として来た人がまったくいないので、第4次慰安団はすべてビルマに配置された可能性が高い。そうすると、703人の慰安婦は、一つの慰安所に20人前後として、35個所相当の慰安所に配置されたことになる。第4次慰安団以外にも朝鮮から慰安婦がきたと思われるので、ビルマにいかに多くの朝鮮人慰安所があったかがわかる。

 ビルマやシンガポールに進出した朝鮮人の職業は多岐にわたるが、大部分は軍慰安所の経営者だった。ビルマとシンガポールに朝鮮人の軍人、軍属が多かった点と合わせ、日本政府による組織的動員があったことを推測させる。

2)類型

 吉見教授は慰安婦の類型を、「軍直営の、軍人・軍属専用慰安所」「形式的には民間業者が経営するが、軍が管理・統制する軍人・軍属専用慰安所」「軍が指定した慰安所で、一般人も利用するが、軍が特別な便宜を要求する慰安所」の三つに分類している。

 日記には、「航空隊所属慰安所」「兵站所属慰安所」「軍専用慰安所」「地方人慰安所」という四つの類型が出てくる。

「インセンにあるタカ(高)部隊、すなわち航空隊所属の慰安所2か所が兵站管理に委譲された」(43年7月19日)

「村山氏が経営する慰安所の一富士楼が兵站管理になり、村山氏と新井氏が兵站司令部に行ってきた」(43年7月20日)

「軍専用クラブは、毎月の休業日が3回だったが、今月から2回になり、8日と19日が休業日だ」(44年3月19日)

 慰安所は、類型に応じて、「収入報告書」、「営業日報」など、各種の書類を提出した。

 ビルマの慰安所は、軍の命令によって、何度も移動している。

「朝鮮からいっしょに来た野沢氏に会った。マンダレーの方で慰安所を経営していたが、最近、部隊につきしたがって、われわれが最初にいたプローム市へ行き、そこで営業しているそうだ」(43年1月29日)

 これを読むと、業者が営業のために部隊について回っているようにみえるが、実際には軍の命令によって慰安所が移動したのだと思われる。例は少ないが次のような記述もある。

「55師団から、金川氏の慰安所をマンダレーのそばのイエウという所に移転しろという命令があり」(43年3月10日)

 戦闘地域では、慰安所の移動は軍の命令に従っていたとみて間違いない。

4.慰安所の経営と慰安婦たち

1)慰安所の経営


 軍慰安所の経営は、たいてい経営者夫婦、帳場係1、仲居1、使用人1~2、慰安婦20人前後で構成されていたと思われる。

 慰安所経営において、慰安婦の募集を行う経営者の役割はきわめて重要だが、経営権がどれだけ重視されていたかはあいまいだ。日記には、経営の譲渡契約書の締結(44年9月1日、43年9月9日)とか、当局の許可を受けた(43年8月8日、28日)というような記述があり、経営が頻繁に交代していることがわかる。慰安所は軍の強力な統制下にあり、業者の経営権は脆弱であったものとみえる。

 帳場係の主な仕事は、客を迎え、案内し、会計帳簿をつけることだが、筆者は、慰安所の食材購入や対外業務も行っていた。対外業務は、慰安婦関連では、就業・廃業の許可申請、性病検査(検黴)へ連れて行くこと、貯金・送金、帰国手続などがあり、所属機関関連では、連隊司令部、兵站司令部または警務部への営業日報、営業月報、毎月の収支計算書の提出などがあった。これをみると、慰安所の経営の独立性は脆弱であったと思われる。

 慰安所の休業日は月1~2回だったが、景気は、伝染病や軍人の外出の状況で左右された。

「今日は、最近でいちばん客が少なかった。兵丁券が14枚しか売れなかった」(43年1月7日)

「今日は日曜日だからか、倶楽部の収入が1600円以上になった。倶楽部を始めて以来最高の収入ということだ」(44年3月26日)

「今日は天長節の祭日で、軍人の外出が多く、倶楽部の収入が2450円、開業来最高記録だった」(44年4月29日)

「今日も軍人の外出が多く、昨日の最高収入を大幅に上回る2590円の新記録だ」(44年4月30日)

 上記はシンガポールの菊水倶楽部の事例だが、慰安婦の人数を考えるとありえない収入なので、シンガポールでは戦時下の超インフレが進み、花代が高騰していた可能性がある。

2)慰安婦たち

 日記の中で、慰安婦は稼業婦、従業婦、酌婦という一般的な名称に加え、慰安稼業婦、就業婦、営稼婦、稼安婦などとも呼ばれている。これは、軍慰安婦たちも代価をもらって性的サービスを提供するという点で、一般風俗業の慰安婦たちと基本的に同じであるという認識から出たものである。

 ビルマの慰安婦の就業手続は日記に書かれていないが、シンガポールの場合は詳しい記述がある。新しい慰安婦を迎えるには、まずシンガポールの警務部保安課に慰安婦の滞留申告書、就業許可願、健康診断書を提出しなければならない。性病感染者や妊婦は、障害要因がなくなるまで営業許可が下りなかった。新入の慰安婦には、朝鮮から初めて渡ってきた女性もおり、南方の慰安所から来た者もいた。

 慰安婦の廃業の事例は多い。シンガポールの菊水倶楽部では、廃業・帰国する慰安婦が続出していた。順子・お染(44.3.3)、松本鍾玉・郭○順(3.14)、金川光玉・島田漢玉(44.4.12)、真弓(4.13)、金本恩愛・順愛姉妹(7.9)、絹代・秀美(11.5)、金○先・金○愛(11.16)、金○守(11.22)というように、菊水慰安所の慰安婦の半分を越える人数が帰国した。

 慰安婦は警務部保安課に酌婦認可書を返納し、旅行許可書をもらって南方運行会社の汽船便で帰国した。

 しかし、戦闘地域だったビルマの事情は違っていた。

「以前、村山氏の慰安所の慰安婦で、その後夫婦生活をするためにと出ていった春代と弘子は、兵站の命令でまた慰安婦として金泉館に来た」(43.7.29)

 巻末資料(付録2)には、帰国条件を満たした慰安婦が、居残るようにたやすく説得されて帰国できなかった例が紹介されている。

 軍慰安婦の収入は、状況によってかわったが、日記によれば、一般的に貯金をしたり、故郷に送金もしていたようである。シンガポールでは、貯金・送金業務の記録がたいへん多い。

「朝食を食べ、横浜正金銀行に行って、慰安婦の貯金をし、帰りに床屋に行った」(44.3.25)

「西原君と横浜正金銀行の支店に行き、このたび帰郷した李○玉と郭○順の二人の送金をした」(44.4.14)

「正金銀行に行き、許可された金○守の送金、1万1000円を送付した」(44.12.4)

 通常、送金額は書かれていないが、最後の例は、慰安婦の送金額としては多かったので、特別に記述したのではないかと思う。

 だが、慰安婦と業者が得た貨幣収入の価値については検討が必要だ。日本軍の占領地では戦時下の超インフレが進んでいたため、価値が暴落しており、送金時の制約、朝鮮での受け取りの制約もあった。慰安婦の収入が将軍よりも多かったという一部の主張は、事実の歪曲である。

むすび

 日本軍慰安婦問題における争点は、1.慰安婦の動員において強制連行があったかどうか、2.慰安所での慰安婦生活が性奴隷状態だったかどうか、に集約できる。

 これまでの研究によれば、南京事件以後の華中およびインドネシア、ジャワ島のスマランなどの戦闘地域において、日本軍憲兵が現地女性を拉致まがいの方法で強制連行した事例があったそうだ。では、非戦闘地域である日本や日本の植民地における慰安婦動員ではどうだったのか。これまでの研究では、こうした地域では社会がよく組織されており、慰安婦の動員が容易だったため、拉致まがいの強制動員は基本的に必要がなかったということだ。それゆえ、そうした所ではもともと慰安婦だった者たちを動員したり、「誘拐まがいの」人身売買や詐欺の方法で、貧しい階層の女性たちを動員したりしたということだ。研究者によっては、前者を「狭義の強制動員」、後者を「広義の強制動員」という。

 第四次慰安団の場合、南方軍司令部が朝鮮に依頼人を派遣し、朝鮮軍司令部の協力を受け、慰安所業者を募集し、慰安所業者たちが慰安婦を募集した。女性たちは、慰安婦経験者もいたが、多くは貧しい階層の女性で、仕事の内容を知らされず、前借金と高収入というエサにつられて、「誘拐まがいの」人身売買や詐欺に遭った可能性が高い。これは「広義の強制動員」と見てもさしつかえないだろう。より重要なのは、第四次慰安団が、徴用・徴兵・挺身隊のような戦時動員であるという点ではあるまいか。日中戦争以後、どれほどの朝鮮人が日本軍慰安婦になったかは正確にはわからないが、彼女たちが日本の国家政策によって計画的に動員されたとすれば、その歴史的意味は決して軽くない。今回の日記が明らかにしてくれた朝鮮における日本軍慰安婦問題の実態は、日本軍慰安婦の動員が戦時動員体制の一環としてなされたということにあるのではないか。

 二つ目の問題は、動員された慰安婦たちが戦地で「性的奴隷状態」に置かれていたかという点だ。日記後半のシンガポールの慰安所の例では、慰安婦たちが慰安所に従事するとき、当局から就業・廃業の許可を受けていた。問題は、前借金を返済した場合も廃業が難しかったという点だ。「付録」の事例はあいまいだが、ラングーンでは兵站司令部が「夫婦生活をするために出ていった」慰安婦を、ふたたび慰安婦として働くよう命令しており、前述のとおり戦闘地域のビルマでは軍から廃業許可をもらったとしても簡単に再就業するよう説得されたそうだ。このように廃業が難しかった理由はいろいろあろうが、慰安所が軍編成の末端組織に編入され、軍部隊と一緒に移動するほかなかったためではないか。それにもかかわらず慰安婦たちは、つねに醜業婦として賤視された。軍慰安婦たちが置かれた、上のような状況は、「性的奴隷状態」といってもさしつかえないのではないか。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 慰安所日記を読む(7) 同... | トップ | 慰安所日記を読む(9) 幻... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

慰安婦問題」カテゴリの最新記事