犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

朴裕河教授、挺対協を語る

2020-06-11 23:52:28 | 慰安婦問題
 韓国のノーカットニュース、2020年6月9付記事(リンク、原文韓国語)を翻訳紹介します。

[インタビュー]
朴裕河「挺対協の慰安婦運動30年、どんな成果があったのか」

11人の慰安婦から告訴された『帝国の慰安婦』の著者
李容洙ハルモニに対するひどすぎる批判、「本末転倒...非難はやめて」
「ハルモニの中には、生前、挺対協の運動のやり方に疑問を持っていた人もいた」
「2014年のシンポジウムで、ハルモニの声を公開したために恨みを買った」
「日本を説得できなかったことが、運動の本質的な限界...功罪を評価すべき」


 正義記憶連帯(正義連)と尹美香・共に民主党議員の後援金の不透明性を指摘した日本軍慰安婦被害者、李容洙(イ・ヨンス)ハルモニ(92)に向けられた「ヘイトスピーチ」を、複雑な思いで見守っていた人がいた。

 著書『帝国の慰安婦』について、慰安婦被害者から名誉毀損で民事・刑事裁判で訴えられている、世宗大学教授朴裕河(63)だ。朴教授は2014年6月、ナヌムの家に住む慰安婦被害者9人(その後2人増えた)から名誉毀損で告訴された。

 李ハルモニも朴教授を告訴した慰安婦被害者の一人だ。それでも朴教授は「李ハルモニへの暴言をやめてほしい」という声を上げている。挺身隊問題対策協議会(挺対協)がこれまで30年間主導してきた慰安婦運動に対する李ハルモニの問題提起と、数年前に朴教授が世に問うた内容は、いくつかの点で共通している。

 CBSノーカットニュースは、李ハルモニの内部告発と、李ハルモニに向けられた言葉の暴力、そして挺対協(現正義連)中心の慰安婦運動について、朴教授の考えを聞いた。今月初め、ソウル市内で行われたインタビューで、朴教授は「慰安婦支援団体を批判しているという理由で李ハルモニを批判するのは、本末転倒だ」、「理由はどうあれ、批判をやめてほしい」と述べた。

 彼女は、「挺対協が主導した慰安婦運動の30年は、「公論化」には成功したが、そのやり方と、明らかにされた内容に問題がなかったかどうか、振り返らなければならない」、「何よりも、交渉の当事者である日本を説得できなかったことは、運動の限界を示している。運動全般について、功罪両面からの評価が必要だ」と述べた。

◇「李容洙ハルモニの暴露、意外だったが、ついに出たのかと嬉しかった...ハルモニ批判はやめるべき」

▶李容洙さんによる暴露に続く一連の展開について、どう感じましたか?

=まずは、ついに出たのかと嬉しかった。意外なところから意外な声が上がった。挺対協はハルモニから、ナヌムの家は内部の職員からだった。慰安婦運動のやり方に対する問題意識は、かねてより私が持っていた思いと重なる部分があった。

▶李ハルモニとは、法廷で対決したのではありませんか?

=そうだ。実のところ、李ハルモニがなぜ告訴に加わったのか、今もわからない。自宅を訪問し、手作りの食事をいただいたこともある。何か誤解があったのだと思う。

▶李ハルモニに向かって、ひどいヘイトスピーチが浴びせられています

=慰安婦運動の主体になってしまった支援団体を批判するハルモニの行動が気に入らないという理由で、ハルモニを非難するのは、本末転倒だ。慰安婦運動が30年も続いてしまったため、尹美香(ユン・ミヒャン)代表は、社会のいたるところに人脈を作り上げた。個人よりも挺対協という慰安婦団体に注目が集まり、挺対協の関係者というだけで信頼され、支援を惜しまないという雰囲気が醸成された。なので、共に民主党のような政界が尹代表を守ろうとするのはわかるが、いくらなんでもハルモニを批判するというのはとんでもないことだ。

▶李ハルモニは、尹代表が国会に進出したために、今回のことが起こったと主張しています

=市民団体が政界に進出することは、それ自体、否定的に見たり、問題視しようとは思わない。政界に進出することよりも、そこで何をするかが重要だ。慰安婦運動陣営から政界に進出した人物は、尹美香代表が初めてではない。たとえば5選議員のイ・ミギョン氏は挺対協の総務出身だし、チ・ウニ前女性家庭部長官は挺対協代表だった。文在寅政府で女性家庭部長官を務めたチョン・ヒョンベク教授も「正義記憶財団」理事だった。しかし、彼女たちが政界に入った後、慰安婦問題の解決に進展があったかどうかは疑問だ。

▶2015年、韓日慰安婦合意で生まれた和解・癒し財団は、現政権になってから、解散したのかしていないのか、あいまいにされています

= 50億ウォン以上のお金が宙に浮いていると聞いている。挺対協などの団体が反対し、いったんは解散させたが、政府は正式に慰安婦合意の破棄を明言しないという、きわめてあいまいな立場をとっている。韓日合意に問題がなかったわけではないが、挺対協の主張とは異なり、すべて国家予算で賄われた、初めての明確な謝罪と補償の意思表示だった。挺対協の主張だけを聞くのではなく、韓日合意についてきちんとした議論が必要だし、そもそも慰安婦問題に対する国民の認識の見直しも必要だ。

◇1990年代初頭、慰安婦と初めて出会い、韓日関係の悪化を見て本の出版を決意

▶慰安婦問題に関心を持ったきっかけは?

= 1991年から92年にかけて、日本の東京で、慰安婦ハルモニたちが証言集会を開催した。そのとき、ボランティア通訳を頼まれ、初めて慰安婦ハルモニたちにお会いすることになった。当時、まだ五、六十代だった方々が、白いチマチョゴリを着て証言していた姿が、今も鮮やかに目に浮かぶ。そのとき、通訳しながら、多くの涙を流した。話を聞いていると、涙がとまらなかった。(創設当時の)挺対協は、梨花女大の女性学、民主化闘争、キリスト教の三つのグループがいっしょになってできた集まりだ。私は、その三つのどこにも接点がなかったため、その後、いっしょに運動をするチャンスもなかった。

▶本格的に慰安婦ハルモニの問題に取り組む決心したのは、いつですか?

= 2001年に教科書問題が勃発し、韓日関係が急激に悪化した。対立の原因は双方にあるが、韓国社会が、慰安婦問題だけでなく、戦後の現代日本について、よく知らずにいることが大きな原因だと考えたので、韓日が対立していたいくつかの問題を取り上げて、2005年に『和解のために』という本を書いた。

 しかし、慰安婦問題に対する私の意見は、批判対象としていた挺対協からは無視され、2011年には韓国に初めて少女像が作られた。その頃、私は植民地支配の本質を考察する別の本を準備していたのだが、方針を変え、もう一度慰安婦問題についての本を書くことにした。それが『帝国の慰安婦-植民地支配と記憶の闘争』だ。

 決定的だったのは、2012年の春、日本の民主党政府が韓国に対し、慰安婦問題解決のための提案をしたのに、青瓦台が拒否したという報道を見たことだ。日本が示した3つの提案は、△大使の訪問と謝罪、△首相の謝罪文発表、△補償金支給であった。報道によれば、青瓦台は「挺対協が反対するだろうから」という理由で拒否したとのことだ。それで、日本より先に韓国で出版しなければと思い、2013年に『帝国の慰安婦』を出したのだ。

◇慰安婦ハルモニと親しい関係、「ハルモニたちは慰安婦運動に疑問を持っていたが...」

▶慰安婦被害者の一人、故裵春姫(ペ・チュンヒ)ハルモニ(2014年6月8日逝去)と特に親しかったそうですが

= 2013年に本を出した後、謝罪と補償について、当事者たち(ハルモニたち)の考えを直接聞きたくて、会うようになった。ところが、それはそれほど簡単なことではなかった。たとえば、裵ハルモニと親しくなり、訪ねて行くと、たった一時間座っている間にも、何度も職員が様子を見にやってきた。自由に話すこともできないし、会うこともできない有様だった。あるときなどは、ハルモニが体を悪くされたので、京畿道光州市の病院にお見舞いに行き、話をしている途中で、病院の看護婦長という人が来て、「保護者じゃないから、出て行ってください」と言われ、追い出されるように出たこともある。

▶ナヌムの家の職員の内部告発はいかがですか

=裵ハルモニは電話で話しているとき、よく「誰かに聞かれている」と言って、電話を切ることがあった。具合が悪くなっても、思い通りに病院に行けないようだった。治療費も自分で出さなければならないとおっしゃっていた。

 私には、実のところナヌムの家から出たがっていた裵ハルモニを救えなかったという罪の意識がある。ハルモニは2014年1月頃から、よく「寒い」と言っていた。寒いのに、部屋にはちゃんとしたカーテンもつけてもらえず、すきま風がひどい、ともおっしゃっていた。同じ年の4月、病院でもうまく話ができなくなり、ハルモニも望んだので、私が保護者になってあげようかとも考えた。ところがその後、ハルモニの意に反して、病院からナヌムの家に引っ越すことになり、そのあと体調が急変した。

▶裵ハルモニの遺産に関して、最近疑惑がふくらんでいます

=裵ハルモニは、遺産をすべて僧伽(スンガ)大学に寄付するとおっしゃっていた。ところが今回、ナヌムの家が訴訟を通じて、遺族から遺産を奪ったということを知り、とても驚いた。

▶裵ハルモニの言葉で、記憶に残っているものは?

=裵ハルモニも、挺対協の運動のやり方について、よく批判していた。全体的に、慰安婦というものについての理解も、挺対協とは違っていた。

▶お金の問題ですか

=お金と賠償ばかりに固執している、という批判を、挺対協とナヌムの家の両方に対しておっしゃっていた。団体が当たり前のように主張していた賠償の要求についても、別の考えを持っておられた。しかし、そのような考えを口に出すことは恐れていた。

◇「挺対協は慰安婦問題の公論化には成功したが...日本を説得できなかったのが限界」

▶ほかのハルモニたちも、挺対協の運動のやり方に疑問を抱いていたのでしょうか

=裵ハルモニだけでなく、ほかのハルモニたちの中にも、何人かは、謝罪や補償のやり方について、支援団体とは異なる話を私にしてくれた。そこで2014年4月に行った「慰安婦問題、第三の声」というシンポジウムで、「挺対協ではなく、私に補償金をください」と言ったハルモニの声なども紹介した。私は、自分がハルモニたちと個人的に親しい関係を持ち、その中で聞いた声を包まずに世間に伝えたため、支援団体の恨みを買い、結局、法廷闘争に巻き込まれたのだと思う。

※『帝国の慰安婦』は2013年8月に刊行された。朴教授が慰安婦ハルモニたちから告訴されたのは、翌年の6月、上記のシンポジウムの2か月後だった。検察の捜査のあと裁判に付された朴教授は、17年1月の1審では無罪判決を受けたが、同年10月の2審では罰金1千万ウォンの有罪判決を受けた。最終審は、最高裁で係争中。慰安婦ハルモニたちが朴教授を相手に起こした民事訴訟は、刑事裁判が優先され、1審でストップしている。

▶挺対協中心の慰安婦運動をどう見るべきですか?

=挺対協は、慰安婦中心の運動を、すでにかなり前から「変形」させてきた。まず、米軍基地出身女性たちと連帯し、その次はベトナム性暴力被害女性たちとつながった。アフリカの内戦における性暴力被害女性とも連帯を始めた。金福童センターをアフリカに作ろうとしたのも、その延長線上のことだ。女性運動として、性暴力被害を受けた女性を支援するという趣旨には100%賛成だ。運動の外縁をうまく広げてきたと言える。問題は、同時代を生きる人々に対し、「内戦の性暴力」と「慰安婦」を同じものであるかのように理解するよう仕向けたという点だ。ある意味では「欺瞞」ともいえる。外縁を拡げることになんら問題はないように見えるが、アフリカで起きた「部族間の強姦」と「慰安婦」を同一線上に置き、理解させようとしたのである。慰安婦運動が世界的な運動になったとはいえ、はたして運動内容とやり方は正直なものだっただろうか。その点を問わないわけにはいかない。

▶慰安婦運動が進むべき方向は

=今回のことについて、正義連の態度は「なぜ、私たちを陥れようとするのか」というようなものだったので、失望した。噴出する疑惑について何の反省もなしに、「大義」という言葉ですべてを正当化しようとする態度だ。挺対協は、自分たちが世界的な成果を上げたことを強調する。慰安婦運動の公論化に成功したというのはその通りだ。しかし、その内容は必ずしも正確ではなかったため、反発も大きかった。現在、韓日関係悪化の背景には、慰安婦問題がある。

 日本は過ちを認め、完璧とは言えないかもしれないが、二度までも謝罪し、補償した。その謝罪・補償を受け入れたハルモニは、約80%だ。それなのに、日本の補償の試みはすべて拒否し、誇張した内容を世界中に流布して抑圧しようとする活動が、解決につながるはずがない。それでも(挺対協は)韓国や他の国に向けて、日本は何も努力しなかったとか、心のこもったものではなかったかのように、宣伝してきた。30年間、慰安婦運動は、自分たちが立てた目標を達成しておらず、そこに限界がある。功績はそれなりに認めるとして、冷静な評価が行われるべき時期に来ていると思う。何よりも、真の当事者主義ではなかったということが繰り返し明らかになったと思う。
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