BOOK、CDなど

1 BOOK、CD、DVD、LP、コンサート、音楽鑑賞サークル、筋トレ等のメモ
2 失念防止のためのメモ

1966年(昭和41年)から1970年(昭和45年)まで

2009年01月03日 | ネット・ニュースなど

〇袴田事件(4人)~1966年(昭和41年)6月30日未明、清水市の味噌製造工場の専務宅で出火、全焼した現場から一家4人の焼死体が発見。遺体にはいずれも多くの刃物による傷があった。

被害者宅には多額の現金・預金通帳・有価証券などが残されており怨恨による犯行と考えられていたのである。その後、捜査の間に金袋がなくなっていることが判明。7月4日、元プロボクサーで同工場に勤務している袴田巌(30)の部屋から血痕のついたパジャマを押収。

大々的に報道されたが、実際は、二度の鑑定が不可能なほどの微量であった。8月18日、袴田が逮捕、21日後にとうとう「自白」した。もちろん、連日の過酷な取り調べ、拷問によるものであり、「自白調書」が45通も作られたという摩訶不思議な話である。

裁判では44通の自白調書を否定。1通の自白調書を証拠として採用した。1968年9月11日、東京地裁で死刑判決。1976年5月18日、東京高裁で控訴棄却。1980年11月19日、最高裁で死刑が確定。1981年再審請求を出す。再審の可能性がかなり高いとマスコミでも言われていたが、1994年8月棄却。即時抗告。

2000年7月、袴田確定死刑囚の衣服に付いていたという血痕をDNA鑑定したものの、判別不能という結果に終わった。2004年7月、請求棄却。最高裁へ特別抗告。(
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〇女子高生暴行殺人事件(1人)~1967年(昭和42年)1月13日夜、労務者S(26)は神奈川県藤沢市の路上で、帰宅途中の定時制女子高生(19)を呼びとめ、人気のないところで乱暴、殺害し、空き地に埋めて、横浜市に逃走した。翌日昼、女子高生が帰らないことを心配し、探していた母が女子高生のヒールを発見、藤沢署に届けた。

当初は誘拐と思われたが、一切の連絡がなかったため、16日に公開捜査。翌日、逃走先で接触したSのいとこが、捜査本部に通報。捜査員が空き地を捜索し、女子高生の死体を発見。ただちにSを全国指名手配し、18日に逮捕した。

1969年1月、一審無期懲役判決。しかし、検察側は控訴し、1971年11月、強姦の前歴があることを加味され、逆転死刑判決。1972年7月、死刑確定。S本人は、死刑判決を受けたことが心外であり、再審請求を行う予定だった。1982年11月、所長から呼ばれたSは、特に不審を抱かず連行された。

この頃の東京拘置所では、慣例として前日言い渡しをしていたため、自分が執行されるとは夢にも思っていなかったらしい。所長室で即日処刑を聞かされ、暴れ狂った。手錠が掛けられ、腰縄で固定されたSは大人しく刑場まで引きずり込まれたが、腰縄を解かれ、手錠を外された瞬間再び逆上。50分に渡る格闘の末、刑務官が寄ってたかって取り押さえ、首に縄を掛けて吊した。通常行われる儀式どころではなかった。41歳没。(
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〇永山則夫連続射殺事件(4人)~警察庁広域重要指定108号事件。永山則夫(19)は横須賀市の在日米軍基地内の住宅からピストルを盗取。1968年(昭和43年)10月11日、東京都港区の東京プリンスホテルで、巡回中の警備員(27)を射殺。

その3日後に京都・八坂神社境内で、警備員(69)を射殺した。

さらに、同月26日には北海道函館市内で、タクシー運転手(31)を射殺して売上金約7000円を奪い、11月5日には名古屋市内で、タクシー運転手(22)を撃ち殺し、売上金7000余円を奪った。

翌69年4月7日、東京・千駄ケ谷のビルへ盗みに入ったところを警備員に見つかり、発砲して逃走したが、間もなく逮捕。

裁判で永山は、「逮捕時年齢こそ19歳だったが、生まれてからの劣悪な生活環境、幼少時に親に捨てられた過去、学校にほとんど通っていないことなどを考えると、精神年齢は18歳未満の未熟なものであった。故に、18歳未満は死刑を適用しないという少年法の精神に乗っ取るべきである」と訴えた。

著書『無知の涙』がベストセラー。読者で米在中の女性と獄中結婚。1981年の東京高裁で無期懲役判決になるも、検察側が量刑違反を理由に戦後初の上告。1983年7月、最高裁で高裁差し戻し判決。1987年、差し戻し控訴審で死刑判決、1990年4月、最高裁で死刑確定。

裁判中も小説等を書き続け、1983年、「木橋」で新日本文学賞受賞。しかし、唯我独尊の性格が災いしたか、女性とは離婚。徐々に支援者も離れていった。1997年8月1日死刑執行、48歳没。

その日、東京拘置所内では悲鳴が聞こえたという。同年5月に起きた「酒鬼薔薇事件」を法務省側が強く意識し、執行順位の早い確定者がいたにも関わらず、犯行当時少年だった永山を処刑したという意見が根強い。(
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〇金嬉老事件(2人)~1968年(昭和43年)2月20日、静岡県掛川市の元ブローカ-、金嬉老(本名権禧老39)が清水市のキャバレーで借金の返済を迫った暴力団S一派の団員二人をライフルで射殺、45km離れた寸又峡温泉の旅館に押し入り、経営者一家6人と宿泊客10人を人質にとって籠城。

部屋にダイナマイト数十本を積んで威嚇。21日、報道陣のインタビューに応じ、暴力団S一派の悪を公表することと、清水署の取り調べで差別があったことを謝罪することを要求。

取り調べたK巡査はテレビで謝罪を行った。24日、玄関での記者会見中、記者になりすました刑事に取り押さえられる。金は舌を噛み切って自殺しようとしたが、ある警察官がとっさに警察手帳を口に差し込んで未遂に終わった。出血量は体全体の20%という重傷であった。

1975年に無期懲役が確定。1999年9月に仮釈放。そのまま韓国に帰国した。しかし、釜山市内で放火などの疑いで逮捕される。2000年9月には交際中の女性の夫を殺害しようとした殺人未遂の容疑で逮捕、鑑定留置され精神鑑定を受けた。(
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〇近親相姦実父殺人事件(1人)~1968年(昭和43年)10月5日、栃木県矢板市に住むM(23)は、自宅で実父のYさん(53)を絞殺した。Mは中学2年の時にYに強姦され、それから10年以上も性の捌け口の対象にされた。

家には弟、妹の他に実母もいたが、実母が口を出すとYが暴れだす始末。Mが親戚の家に逃げ出したときも、強引に追いかけて連れ戻す。とうとう二人で住むようになり、Mは5人の子供を産んだ。他に5人を中絶し、子供が産めない手術を受けさせられた。

ところが29歳になったとき、アルバイト先で知り合った年下の男性と相思相愛の仲になった。MはそれをYに打ち明けたが、Yは怒り狂い、連日連夜脅迫し、殴る蹴るの暴力を加えた。そして10日目、とうとう耐えきれなくなったMは、泥酔しているYを絞め殺した。このとき、Yはこう叫んだという。「おまえに殺されるのなら本望だ」と。

尊属殺人罪で起訴されたが、尊属殺人罪が憲法違反ではないかとの議論になった。丁度この頃、他にも尊属殺人罪が憲法違反であると裁判で係争中の事件が2件あり、判決が注目された。一審では執行猶予、二審では実刑、そして最高裁では尊属殺人罪は憲法違反であると認定、殺人罪で懲役2年6ヶ月、執行猶予3年の刑が1973年4月4日に出された。(
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〇三億円事件(0人)~1968年(昭和43年)12月10日午前、日本信託銀行の現金輸送車は、東芝府中工場従業員のボーナス約3億円を積んで、府中刑務所北側の道路を走っていた。突然、白バイが急接近してきて、停車を命じた。

若い警官は、この車に爆弾を仕掛けたという連絡があったと告げ、四人の行員を下車させた。警官は輸送車を点検するふりをして、発煙筒に点火。煙を見て四人の行員が避難するのを見ると、警官は輸送車に飛び乗って逃走。

その後、車を乗り換えた後、足取りは消えた。遺留品も多く、モンタージュ写真も作られたが、捜査は難航。1975年、時効成立。(
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〇同級生首切り殺人事件(1人)~1969年(昭和44年)4月23日、川崎市にある私立高校1年生の少年(15)が、高校近くのツツジ畑の中でメッタ切りに合い、なおかつ首を切り落とされて発見された。届け出たのは少年と一緒にいた同級生(15)で、彼も左腕など2箇所を切られ、血だらけであった。

彼は3~4人の若い男に切られたと証言したが、矛盾点が多く、かつシャツに付いていた血が被害者のものであったことから追求すると、4月26日に犯行を自供した。二人は中学時代からの同級生で仲は悪くなかったが、いつも被害者に悪ふざけをされていたため、決着をつけようと登山ナイフを持参。

しかしナイフを見せつけると、逆に「お前はブタだからナイフまでブタに似ている」と言われたため、カーッとなって殺害した。我に返ったあと、被害者が生き返るのが怖くなり、首を切断。そして自分で左腕を切り、ナイフを捨てたものだった。加害者の少年は、中等少年院に送致された。(
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〇「よど号」ハイジャック事件(0人)~1970年(昭和45年)3月31日早朝、羽田発福岡行きの日航機よど号が、富士山上空で赤軍派9名によりハイジャックされた。乗員7名、乗客131名が人質に。メンバーは、リーダーのT(27)、サブ・リーダーのK(25)、O(24)、Y(23)、A(22)、A(22)、T(21)、Y(20)、S(16)である。

9名は機長に、北朝鮮平壌に向かうよう命令。機長は燃料補給を理由に福岡に着陸。病人、子供など23名の人質を解放。飛行機は平壌に向かうかに見えたが、実は韓国の金浦空港に着陸した。韓国側は平壌に見せかけるよう偽装していたが、米軍機がいたことなどから赤軍派はすぐに見破った。事態は深刻なものになった。

4月1日、Y運輸政務次官(36)が身代わりになるよう申し出た。3日、残りの人質99名、乗員3名が解放、Y次官が人質となり金浦空港から平壌空港に向かった。9人はそのまま北朝鮮に亡命、Y次官と乗員3名はよど号で羽田空港に帰った。

本事件は、日本初のハイジャック事件であった。日本政府はこの事件の反省から、1970年6月7日に航空機の強取等の処罰に関する法律、いわゆる「ハイジャック防止法」を施行した。(
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〇瀬戸内シージャック事件(0人)~1970年(昭和45年)5月11日、午前零時。山口県で盗難車に乗っていたK(20)、少年A、Bは、パトカーにより検問を受ける。Bがナイフで刺し、全治二週間の傷を負わせた。Bは逮捕されたが、KとAはそのまま車で逃亡した。12日、途中で逃亡したAが逮捕。

Kは銃砲火薬店でライフル二丁、弾などを奪い、逃走。宇品港に停泊中の小型旅客船「ぷりんす丸」を乗っ取った。乗組員7名、乗客37名を乗せた船は、静かに出港した。同夜、松山港に入る。途中、母や姉の説得には銃砲で返答した。自分の飲んだコーラの代金はしっかり払うという律儀なところも見せている。給油、乗客を全員降ろし、「ぷりんす丸」は出港し、翌朝宇品港に戻った。

しかし、そこで待ち受けていたのはライフル銃隊であった。テレビ中継の中、Kは胸を打ち抜かれ、ゆっくりと船橋に倒れ込んだ。真っ先にデッキに駆け上った刑事は、左手で拳銃を抜こうとしたKの手を叩き落とし、手錠をかけた。そのとき、唇からかすかな声が漏れた。傍にいた船長も聞いていた。「死んでたまるか、もう一遍」。Kは13日11時25分、呼吸を停止した。(
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〇実兄一家皆殺し事件(4人)~埼玉県戸田市の無職H(34)は、小学生の頃から下着の盗み癖があった。それに覗きも常習で、両親や兄夫婦、あらには近所の家の寝室や風呂、便所などを覗きまくっていた。5月、Hは三度目の窃盗の刑期を終え、青森刑務所を満期出所した。

人の言うことには素直に従う性格だが、当時の刑務所職員に言わせると「こういう大人しい奴がいちばん、なにをしでかすかわからない」タイプと言われた。

1970年(昭和45年)8月8日、浅草で時間をつぶしたあと、実家の方に向かったが、ストリップでムラムラしていたせいか、あちこちの家を覗いていた。そして23時30分頃、実家の近くにある兄夫婦の家に来た。

裏へまわると鍵がかかっていないので入って覗くと、6畳間で実兄のHさん(40)、兄嫁のTさん(37)、次男(8)が川の字になって寝ていた。以前から兄嫁とやりたいと思っていたHは実家に戻って鉞を取り、再び兄夫婦の家に戻った。そしてTさんの頭を叩き割り、続いてHさん、次男を殺害した。

さらに物音で目が覚めた長男(12)も殺害した。その後、虫の息のTさんにのしかかり、性行為を延々と繰り返した。数日後には捕まり、あっさりと自供。「肉を食べられなかったのが残念だ」と供述した。精神鑑定した医師から「彼は善悪の区別のない怪物である」と言われた彼は、1972年4月、一審で死刑判決。何事にも素直に従う性格の彼は控訴せず、そのまま死刑が確定した。(
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〇大久保清連続殺人事件(8人)~大久保清は小学生の頃から早熟で強姦他で前科4犯だった。1971年3月に出所後、親に最新型のスポーツカーを買ってもらい、コスチュームはベレー棒とルパシカ。

画家や詩人、教師になりすまし、女性を誘う。逮捕されるまでの73日間に127人の女性に声を掛け、35人を車に連れ込んでいた。騒がれた相手には強姦、そして殺害して死体を山中に埋めていた。合計で8人を殺害。(
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〇三島由紀夫割腹自殺~1970年(昭和45年)11月25日、作家の三島由紀夫は右翼「楯の会」のMら4人とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入、東部方面総監を人質に取った。三島らは自衛隊員らを集め、クーデターを訴える演説を行ったが、隊員から罵声を浴びるだけだった。演説終了後、総監室で三島、Mは自ら腹を割き、後から介錯を受けて自殺した。(
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1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)まで

2009年01月03日 | ネット・ニュースなど

〇名張毒ぶどう酒事件(5人)~1961年(昭和36年)3月28日、三重県名張市郊外の村で、生活改善クラブの寄り合いで女性陣が飲むぶどう酒に農薬のテップ剤を仕込み、妻、愛人などを含む5人が死亡、12人が重軽傷。

元クラブ会長だった奥西勝(34)は狭い村の中で妻の他にも数人と関係を結んでいたが、特に愛人との中を周囲に知られて妻との仲が険悪になっており、一切を精算しようとするために妻殺しを企んだのが動機とされる。

当初は妻による無理心中説も出ていたが、事情を追求された奥西が自白し、逮捕された。しかし、裁判では一貫して無罪を訴え続けた。一審無罪判決。二審で逆転死刑判決。1972年6月、最高裁で死刑が確定。

証拠らしい証拠もなく、村は男女関係がオープンで不倫は日常茶飯事だったことから動機自体に疑問を持つ声も多い。2005年4月、奥西死刑囚の第七次再審請求に対し、名古屋高裁は再審開始の決定を出すも、名古屋高検は異議申立を提出。2006年12月26日、名古屋高裁は異議申立を認め、再審開始の決定を取り消した。現在、特別抗告中。(
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〇草加次郎事件(0人)~1962年(昭和37年)11月4日、東京都品川区の歌手島倉千代子後援会事務所で爆発が起き、事務員がけがを負った。原因はボール紙製の爆発物で、「草加次郎」の署名入りだった。

「草加」はほかにも東京・京橋の地下鉄京橋駅ホームで10人の重軽傷者を出した爆発事件など、この年に6件の爆発騒ぎを起こした。その後も次々と事件を引き起こし、爆発7件、脅迫状14件、狙撃1件。負傷者14名にのぼる。犯人は「草加次郎」と名乗り、指紋も検出されたが、1978年9月5日、時効成立。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)    

〇吉展ちゃん誘拐殺人事件(1人)~1963年(昭和38年)3月31日、東京・入谷の建築業者の長男の吉展ちゃん(4)が行方不明になり、犯人と目される男から50万円の身代金の要求があった。警察のミスにより金は奪われ、犯人は逃走。ラジオやテレビで犯人の声を公開するなど異例の捜査が行われた。警察側は名警部と言われた平塚八兵衛警部を陣頭指揮に活動。

声が似ているとの電話によるたれ込みから、1965年7月、元時計修理工小原保(32)を逮捕。小原は二度、捜査線上にあがっていたものの、アリバイがあるということから犯人ではないと目されていた。平塚警部は再捜査の上、小原を尋問、追求。アリバイが破れ、小原は自白。吉展ちゃんは荒川区の円通寺にて遺体で発見された。

1966年3月17日、東京地裁で死刑判決。1966年11月29日、東京高裁で控訴棄却。1967年10月13日、最高裁で死刑確定。小原は拘置所の中で短歌を学び、更生したという。1971年12月23日死刑執行。享年38。(
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〇狭山事件(1人)~1963年(昭和38年)5月1日、埼玉県入間川の女子高生Yさん(16)が行方不明になった。その日の夜、20万円を要求する脅迫状が届けられる。3日未明、Yさんの姉が待つ受け渡し場所に犯人が現れるが、姉と二言三言交わした後、警察が張り込んでいることを察知して逃走。警察もすぐ後を追ったが、逃げられるという失態を犯す。

5月4日、入間川の農道で死体が発見された。顔見知りの犯行という可能性が強かったが、突如被差別出身のI(24)が逮捕された。Iさんは警察の誘導に引っかかり、自白。一審死刑判決。控訴審から無罪を主張したが、二審無期懲役判決。1977年8月、無期懲役が確定。Iさんは冤罪を主張、再審請求を求める。

解放同盟を中心に、多くの支援者が後押しをしている。Iさんは1994年に仮釈放。2005年、第二次再審請求が最高裁で棄却された。2007年、第三次再審請求を提出。

Yさんの元使用人が遺体発見の明後日に井戸に投身自殺。11日には犯行現場で怪しい三人組を見たと届けた男がノイローゼで自殺。

1964年7月にはYさんの姉が農薬を飲み自殺。1966年10月には、当時参考人リストに載っていた中年男が電車に轢かれて死亡。

1977年10月にはYさんの次兄が首吊り自殺。Yさんの周辺に変死者が続出しており、多くの謎が今も残っている。(
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〇西口彰連続強盗殺人事件(4人)~前科四犯、トラック運転手西口彰(37)は1963年(昭和38年)10月18日、福岡県で専売公社集金車を襲撃し、職員、運転手の2人を殺害、27万円を奪って逃走した。すぐに全国指名手配され、23日には捜査本部に「自分が犯人であるが、自殺する」という手紙を投函した。10月25日、宇高連絡船から投身自殺を図った形跡があるとの連絡があったが、偽装自殺と断定。

広島に現れた西口は、電気店から寄付名目でテレビを騙し取り、質に入れて8万円を手に入れる。11月15日、浜松市で大学教授と偽って旅館に泊まり、女将(41)と母親(60)を絞殺、宝石類、現金を奪った。12月には千葉地方裁判所、兜町、福島県、苫小牧市などで詐欺を働いている。12月29日には弁護士(82)を絞殺、現金や弁護士バッチを奪った。

1月2日、西口は熊本県に現れ、福岡事件で判決を受けた二人の死刑囚の救援活動を続けている教誨師(43)のところに訪れ、弁護活動を支援すると約束。ところが小学生の娘(11)は、弁護士の顔が駐在所の手配書とそっくりであることを思い出し、母親に告げた。母親は駐在所で確認、警察に連絡し、ついに西口は逮捕された。1964年12月、福岡地裁死刑判決。「史上最高の黒い金メダルチャンピョン」「悪魔の申し子」と呼ばれた。1966年8月、突如上告を取り下げ、死刑確定。1969年12月、死刑執行。享年43。(
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〇少年ライフル魔事件(1人)~1965年(昭和40年)7月29日午前11時頃、神奈川県座間町の山中、銃の禁止区域内でライフルを発砲していた少年片桐操(18)を職務質問しようとしたT巡査(21)が、ライフルで撃たれて死亡。

「おどかすつもりでライフルを右に振りながら引き金を引いたら、引くのが早すぎて当たってしまった」との供述が残されている。片桐は巡査から警察手帳、拳銃、制服、ズボンを奪って警官になりすます。

発砲後、まもなくパトカーで駆けつけたT巡査(27)、S巡査(23)がパトカーから降りた瞬間、片桐は両巡査に発砲して逃走。S巡査は重傷、T巡査はバンドの留め金に弾が当たったため奇跡的に無傷であった。

その後片桐は人質を取って車で逃走。銃砲火薬店に人質4人を取って立て籠もり、銃を乱射した。午後7時、警察からの催涙弾で、二人を盾にして外に出てきたところを逮捕される。警官隊との市街戦で16名が重軽傷を負った。片桐は警察の調べに「好きな銃を思いっきり撃ってスカッとした」と供述した。

少年であったことから矯正の可能性があると、東京地裁で一審無期懲役判決。しかし、片桐自身が「銃への魅力は、今なお尽きない。将来社会へ出て、再び多くの人に迷惑を掛けることのないように、死刑にしてほしい」と主張したためか、二審東京高裁で死刑判決。1969年、最高裁で死刑確定。1972年7月21日、死刑執行。享年25。(
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〇古谷惣吉連続殺人事件(10人)~1965年(昭和40年)11月9日、滋賀県大津市で海水浴場管理人(59)の絞殺死体が発見される。22日、福岡県新宮町で英語塾教師(50)が死体で発見された。遺留品からOさんが犯人と目されたが、11月29日、既に死体となっていた廃品回収業者Oさん(57)が絞殺死体で発見された。

10月30日に殺害されていた。12月9日、警察庁は広域重要事件105号に指定。12月11日、京都市で二人の廃品回収業者(60、67)の絞殺死体が発見。現場から前科のある古谷惣吉(50)の指紋が検出された。12月12日、警察庁は全国指名手配するもわずか18時間後、西宮市大浜町の廃品回収業者の老人二人を襲って殺した後、巡ら中の芦屋署の警官三人に職務質問を受け、現行犯として逮捕された。

取調中、12月5日に大阪府高槻市で建設作業員(53)を殺害したことも自供。他にも1964年11月から1965年5月にかけて、米子市と松山市でも老人と老婆を殺害した嫌疑を掛けられていたが、これは本人の否定と証拠固めが弱かったため、起訴までには至らなかった。

古谷は1951年、福岡で2件の強盗事件を起こし2人を殺害していた。このときは、先にS元死刑囚(20)が捕まっており、共犯者がいるにもかかわらず、1953年3月に執行。1953年9月に犯行がばれたが、あくまで従犯であることを主張し、懲役10年ですんでいた。古谷は判明しているだけでも10名を殺害。個人としては戦後最大の数字である。1978年最高裁で死刑確定。1985年5月、死刑執行。享年71。執行された死刑囚としては2006年12月まで最高齢であった。(
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1956年(昭和31年)から1960年(昭和35年)まで

2009年01月03日 | ネット・ニュースなど

〇小松川高校女子生徒殺害事件(2人)~1958年(昭和33年)8月17日、小松川高校定時制二年生Oさん(16)が行方不明となった。家族の届出で小松川警察署が捜査中、8月21日、同署に「家出娘なら小松川高校の屋上で絞殺し、屋上の横穴に捨ててある」と電話があった。検索したところ、絞殺された同女の腐乱死体を発見。

24日には被害者宛に奪った櫛を、26日には捜査一課長に被害品の鏡と写真を送り返してきた。しかも再三に渡って新聞社に電話をするなど犯行を誇示し、警察の無能さを笑ってきたが、捜査の結果、朝鮮人工員小松川高校定時制一年生李珍宇(18)を9月1日に逮捕した。

李はOさん殺しを自供、さらに4月21日に賄婦Tさん(23)を強姦殺害した事件も自供した。1959年2月27日、東京地裁で死刑判決。1959年12月28日、東京高裁で控訴棄却。1961年8月17日、最高裁で死刑が確定した。1962年11月26日、仙台刑務所で死刑執行、享年22。(
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〇杉並スチュワーデス怪死事件(1人)~1959年(昭和34年)3月10日、杉並区の善福寺川に首を絞められた若い女性の死体が上がった。被害者は、英国海外航空スチュワーデスTさん(27)。容疑者として、Tさんと交際していたベルギー人の神父(28)の名前が挙がった。警視庁は、相手がカトリック教団サレジオ会の神父であることから、国際問題に波及してしまうことを恐れて慎重な、弱気な態度をとっていた。極秘の捜査を重ねた後、神父の出頭を要請したが、本人も教会も出頭を拒否。

世論から批判の声が上がったため、神父は二、三度出頭したものの、胃病と神経衰弱を理由に歳暮病院に入院。6月11日、警視庁に連絡もせず、イタリアに帰国した。サレジオ会は傘下の社会事業団を利用して、アメリカから回された救済物資を闇ルートに横流しし、莫大な利益を得ていたという。神父の帰国により、事件は迷宮入りした。松本清張『黒い福音』を参照。(
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〇浅沼稲次郎刺殺事件(1人)~1960年(昭和35年)10月12日、日比谷公会堂で自民、社会、民社の三党首立会演説会で浅沼社会党委員長が演説中、学生服姿の元愛国党員Y(17)が壇上に駆け上り、34センチの脇差しを構え、体ごと浅沼にぶつかっていった。

Yは二回凶刃を振るい、浅沼委員長は死亡した。Yはその場で逮捕されたが、11月2日、少年鑑別所内で自殺した。部屋の壁には歯磨き粉で「天皇陛下万歳、七生報国」という文字が大書きされていた。(
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1951年(昭和26年)から1955年(昭和30年)まで

2009年01月03日 | ネット・ニュースなど

〇八海事件(2人)~1951年(昭和26年)1月25日早朝、山口県熊毛郡麻郷村八海(やかい)で老夫婦の惨殺死体を発見された。指紋からY(22)が指名手配され、翌々日逮捕。24日夜に忍び込み、盗みを働こうとしたところで夫(64)が目を覚まし、とっさに台所にあった斧を素早く取ってきて一撃。夢中で斧をふるいめった斬りにした。そして恐怖で腰が抜けていた細君(64)の口を押さえて窒息死させた。室内を物色して現金一万数千円を盗んだ後、鴨居から首を吊ったように見せかける偽装工作を行っていた。

証拠もそろい、一件落着するはずだったが、警察は現場の状況から複数犯だと先入観を持ち、さらにYを追求。最初は驚いたが、別に首謀者がいれば罪は軽くなると判断したYは、遊び仲間の阿藤周平さんほか三人の名前を「自供」。四人は逮捕され、拷問を受けて無理矢理「自供」させられた。証拠は何もなかった。阿藤さんが主犯、Yを含む四人が共犯と警察は発表。一審で阿藤さんは死刑、Yを含む四人は無期懲役の判決が出た。無実の四人は1953年の広島高裁でも有罪判決。Yは二審の無期懲役判決に従った。

阿藤さんは冤罪事件で有名な弁護士、正木ひろしに手紙を書き救いを求める。正木は綿密な調査により無罪を確信、『裁判官』を出版しベストセラーになり、この事件は全国に知られるようになった。その後、最高裁で差し戻し判決→二審で有罪判決を二回繰り返し、1968年、ようやく四人に無罪判決が出た。すでにYは出所していた。映画『真昼の暗黒』はこの事件をモデルにしたものであり、一、二審で死刑判決を受けた阿藤さんが「まだ最高裁がある」と絶叫する姿が観客を感動させた。(
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〇築地八宝亭一家惨殺事件(4人)~1951年(昭和26年)2月22日、東京築地の中華料理店「八宝亭」で主人(48)、妻(43)、長男(11)、長女(10)の家族4人が長柄の薪割りで滅多打ちにされて殺された。同日朝、住み込みのコック見習いY(23)が築地署に飛び込んで通報。Yの証言により、前日より店に住み込みで働くことになった「O」なる女性が重要容疑者として浮かび上がる。しかもOが銀行からお金を引き出そうとして失敗していたことも判明。

Yの協力によるモンタージュ写真から「O」はNさん(23)であることが判明、3月10日に捕まる。ところがNさんはYに頼まれてお金を下ろしに行っただけだった。そして犯人はYであることが判明。同日に逮捕。ところが、Yは留置所で隠し持っていた青酸カリを飲んで自殺。動機は謎のままである。Nさんは懲役1年、執行猶予3年の判決となった。(
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〇おせんころがし事件(8人)~K(26)は1951年(昭和26年)10月10日、千葉県小湊町で、3人の幼児と共にいた女性(29)に強姦目的で近づいた。おせんころがしと呼ばれる断崖に差し掛かると、まず5歳の男児と7歳の女児を崖下に投げ捨て、女性を強姦。その後2歳の幼女とともに絞殺した。このとき、7歳の女児は崖の途中に引っかかり、奇跡的に命を取り留めた。

1951年10月11日、Kは千葉県で泥棒に入った家の主婦(24)を絞殺、死姦。いっしょにいた叔母(63)も出刃包丁で刺し殺した。10月14日、逮捕される。その後の取り調べで、1947年、付き合っていた20歳の女性、その友達の17歳の女性を、それぞれ性交後に絞殺したことを告白。さらに1951年8月8日、赤城山麓の人家に押し入り、女性(24)を強姦、絞殺した事件、おせんころがし事件も自白した。

他にも殺人未遂、窃盗事件などがあり、戦後もっとも凶悪な男と呼ばれた。1948年に窃盗事件で逮捕、起訴されていることから、それ以前の事件とそれ以後の事件と別々に裁判を受け、ともに死刑判決を受けた。控訴するも、このころから罪の意識からか幻想を見るようになり、自ら控訴を取り下げ、確定。1956年に死刑反対運動が盛んになった頃、矯正不可能な人種がいるということでK死刑確定囚の名前が挙げられた。

1958年からの死刑反対運動のさなか、だれが死刑を執行しても問題がないという観点からK死刑確定囚が選ばれ、1959年10月執行。享年33。(
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〇印藤巡査殺害事件(1人)~1951年(昭和26年)12月26日22時過ぎ、警視庁練馬署旭町駐在所に「行き倒れがあるから来てもらいたい」と一人の男が飛び込んできた。印藤巡査(32)は届出人とともに現場に向かったが、三時間が経っても連絡がないため、隣接の田柄駐在所に電話連絡をした。その後、27日7時頃、後頭部を殴られ死体となった伊藤巡査が発見された。所持していた拳銃が奪われていた。

犯行現場近くではO株式会社東京工場があり、共産党系の第一組合と穏健派第二組合の抗争が起きていた。2月13日、別件で東京工場の5名が逮捕。それから芋蔓式に、6月までに9名が逮捕された。

一労組を越える組織の指揮計画のもとに行われたものだった。被告側は無罪を主張したが、1953年4月14日、東京地裁は傷害致死の罪で主犯に懲役5年、他の9被告にも1名を除いて有罪を言い渡した。(
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〇白鳥警部射殺事件(1人)~1952年(昭和27年)1月21日夜、札幌市内路上で、札幌市警察本部警備課長の白鳥警部(36)が何者かによって射殺された。23日、同市内で日本共産党員札幌委員会名による天誅ビラが撒かれた。

警察は日本共産党を集中的に捜査、20明知か党員が芋蔓式に別件で検挙された。事件発生5ヶ月後、札幌信用組合元従業員Hが、首謀者は同信用組合理事長S、実行者は拳銃殺人前科があるTと公表。しかしSは、別件逮捕後保釈中の1952年12月23日に自殺した。1952年10月、警察は日共札幌委員会委員長Mを逮捕。しかし殺人の罪で起訴したのは2年10ヶ月後であった。

法廷では謀議の不存在、伝聞証拠の違法性などが争われた。また唯一の物的証拠である遺体摘出弾丸と、試射現場土中から発見された弾丸が同一の拳銃から発射されたかどうかが争われ、捏造が化学的に証明された。しかし札幌地裁は1957年5月、Mに無期懲役判決を言い渡した。1960年6月、札幌高裁で懲役20年の判決。1963年10月、最高裁で確定した。

Mは無実を訴え、1965年10月に再審請求。しかし1975年5月に最高裁で特別抗告が棄却された。Mは1969年に仮出所。その後、自宅の火事に巻き込まれて焼死した。(
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〇菅生村派出所爆破事件(0人)~1952年(昭和27年)6月2日午前0時過ぎ、大分県直入郡菅生村で、派出所が爆破された。爆破直後、付近を歩いていた日本共産党員二名Gさん(24)、Sさん(23)が現行犯として逮捕された。

ところが、この夜派出所で就寝しているはずの巡査夫妻は事件発生を予知していて、いつでも犯人を捕まえることが出来るように準備していた。また、まわりには百名近い警官が張り込み、カメラマンを含む新聞記者が現場に待機していた。「現行犯」の二人は、市来春秋と名乗る「知り合い」に呼び出されていただけと主張し、犯行を否認した。また共同謀議者として逮捕された3名も無罪を主張。

1955年7月、大分地裁はG氏に懲役10年、S氏に懲役8年の判決、他3名にも有罪判決を言い渡した。ところが事件当初から弁護活動をしていた清源敏孝弁護士の尽力により、次第にこの事件は人々の注目を集め、しかも二審の途中で市来春秋が現職の警察官Tであると判明。

共同通信社の記者たちは、逃亡していたTを探し出し、法廷に突き出した。Tは大分県警の警備部長Kの指示により、おとり捜査官として働いていた。この事件は警察の自作自演による謀略であった。1958年6月、福岡高裁で二人に無罪判決が言い渡された。1960年12月、最高裁で上告が棄却され、確定した。

Tは起訴されたが、一審は無罪、1959年9月の二審では有罪判決が言い渡されたが、刑は免除された。Tは3ヶ月後に警視庁に復帰。1983年には警察大学技術課教養部長兼教授に上り詰めている。(
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〇雑貨商一家殺人事件(4人)~菊池正(26)は母親思いの働き者の青年だった。村の青年団長を務め、真面目で礼儀正しかった。ところが、菊池の義理の父は、母を下女扱いし、さらに母はソコヒ(白内障)を煩って失明した。手術をすれば治るが、そんな大金は家にはなかった。そこで菊池は強盗殺人を計画。

1953年(昭和28年)3月17日、小金を貯めていると噂のある村の雑貨屋に押し入り、女主人(49)ら一家四人を絞殺。家中を探し回ったが、現金二千円しか見つからず、腹いせに女主人とお手伝いを死姦。女物の腕時計を一個盗んだ。

1ヶ月ほどたっても犯人は見つからず、迷宮入りの雰囲気が高かったが、菊池が東京に暮らしている妹に腕時計をあげたことをつきとめた警察が二ヶ月後に逮捕。1953年11月25日、東京地裁で死刑判決。1954年9月29日、東京高裁で控訴棄却。

上告中の1955年5月11日夜、母親に会うために東京拘置所を脱走、11日目に逮捕。逮捕時、警察の情けで母親と最後の対面を果たすことができた。 1955年6月28日、最高裁で死刑確定。4ヶ月後の11月21日に宮城刑務所の押送、翌朝に死刑執行。享年28。(
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〇徳島ラジオ商殺害事件(1人)~1953年(昭和28年)11月5日、徳島県の「M営業所」を不審な人物が訪れ、応対している内妻Fさん(43)の声にも返事がないことに不審を持った主人のSさん(53)が裏口の障子を開けたところ、人影が侵入。Sさんを刺殺。犯人は逃走した。

翌年5月、暴力団員Kが逮捕されるも証拠不十分にて釈放。それと同時にFさんが逮捕された。逮捕された証拠は、裏の小屋に住んでいた少年店員二人の証言のみであった。

懲役13年の判決が確定後、重責に堪えきれず店員の一人が地元新聞に偽証であったことを発表。ふたりの少年店員の偽証を材料に再審請求が出されたが認められなかった。第五次再審請求で1980年12月、新証拠により再審決定。85年7月、無罪判決が確定。しかしFさんは無罪決定前の84年11月に癌で死亡していた。(
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〇特別手配一号事件(4人)~山口県下関市でO(27)が1955年(昭和30年)6月1日、家庭の不和などを原因に養父母夫婦(60、56)を青酸入りジュースで毒殺。会社の金130万円を持って、妻子を残したまま逃走した。1956年2月、Oは逃走中に知り合ったMさん(22)を岡山県倉敷市で毒殺、死体を焼き、Mさんの戸籍を奪い成り代わった。

東京で結婚し、建設会社の運転手として就職したが、1957年12月28日、窃盗容疑で警察に指紋を採られた。そのことで過去の事件が発覚するのではと恐れを抱き、1958年1月11日、浅草で知り合ったSさんを(29)を水戸市の湖に連れ出して殺害。

死体を切断した上、頭部を硫酸で焼き、身元をわからなくした。Sさんに成り代わろうとしたものの、硫酸で顔を焼くという手口に警察が不審を抱いたこと、さらに警察に採られた指紋がOのものと一致したため、警察はOを指名手配。Oは7月16日に逮捕された。

1959年12月23日、水戸地裁で死刑判決。二審では、国選弁護人が弁護を拒否、裁判で「被告は死刑に処するべき」という趣意書を裁判所に提出し、問題になった。1960年6月13日、東京高裁で控訴棄却。1961年3月30日に最高裁で死刑が確定した。Oは半年後、二審担当の国選弁護人を弁護放棄で告訴。1963年11月、東京地裁は被告弁護士に3万円の賠償を命じる判決を下した。1965年、死刑執行。(
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1946年(昭和21年)から1950年(昭和25年)まで

2009年01月03日 | ネット・ニュースなど

〇気になる事件、事故、自殺を抜粋~殺人事件が多いのに驚く日々。犯人の動機は、怨恨、嫉妬、憤怒、性欲、金銭等。被害者の冥福を祈る。 

〇ネットで、検索。

〇片岡仁左衛門一家惨殺事件(5人)~1946年(昭和21年)3月16日、江戸歌舞伎の名優片岡仁左衛門さん(65)の家に居候していた座付き役者のI(22)は、日頃から一日二食しか与えられていなかったこと、配給米をピンハネされていたこと(I自身の供述による)に不服をもっていた。

そして、Iが制作を任された顧客に配る挨拶状を仁左衛門さんは気に食わず、「それでも作家か」とののしった。腹を立てたIは、1946年3月16日午前6時頃、片岡仁左衛門さん、妻(26)、三男(2)、女中(69)、子守り(12)の5名を薪割り斧で撲殺した。子守りはIの実妹であった。無期懲役判決。(
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〇小平事件(10人)~1946年(昭和21年)8月17日、東京芝浦の増上寺境内の裏山で、死後10日は経っていた20歳くらいの女性の全裸死体が発見された。しかも10m離れた場所から、もう一体の白骨化した死体が出てきた。その後、全裸死体は立行司Iの三女であることが判明。そして就職斡旋をしていたおじさんこと小平義雄(42)が8月20日に逮捕される。

小平は1923年、18歳で海軍に入り、中国大陸で現地人を次々強姦、殺害。勲8等旭日賞をもらって除隊後の1932年に、家出した妻の父を殺害して懲役15年の刑に服し、2度の恩赦後、1930年に出所していた。

その後の調べで小平は1945年5月から1946年8月まで合計10名を殺害していたと断定された。これ以外にも、小平は約30件の暴行を行った旨を供述している。裁判では10件の殺害のうち、3件については証拠不十分で無罪、7件について死刑判決を言い渡した。1948年11月確定。1949年10月5日宮城刑務所で執行、享年45。(
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〇帝銀事件(12人)~1948年(昭和23年)1月26日、東京豊島区の帝国銀行(第一勧業銀行の前身)椎名町支店に、45歳ぐらいの男がやってきた。男は「付近に赤痢菌が発生した」と告げ、行員16名に持参した予防薬を飲ませた。これを飲んだ16名は次々に苦しみはじめ、12名(8歳~49歳)が死亡。犯人は店内にあった現金約16万円と1万数千円の小切手(後に引き換えしている)を奪って逃走した。犯人は予防薬を飲ませるに当たり、実演している。毒薬は遅効性のものと判断されていたが、やがて「青酸カリ」とされた。ちなみに鑑定を行ったのは古畑種基教授を中心とする東大法医学教室である。

当初は軍関係者、特に731部隊(石井部隊)が関連していたとして捜査が行われていたが、決め手がなく難航した。ところが8月21日、人相書きとは似ても似つかぬ、一般人の日本画家平沢貞道(56)が逮捕された。当初は否認していたものの、9月23日より自供を始めた。10月12日、強盗殺人容疑および他の2銀行への強盗殺人未遂および予備容疑で起訴された。

12月20日より東京地裁で開かれた公判において、平沢は自白を翻し、無罪を主張した。1950年7月24日、東京地裁で一審死刑判決。1951年8月11日、東京高裁で控訴棄却。1955年4月6日、最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。その後、17度の再審請求、3度の恩赦願が出されたが受け入れられず、一方歴代の法務大臣が死刑執行命令を出さなかったため、約32年間、ついに執行されることなく、肺炎で獄死した。享年95。(
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〇免田事件(2人)~1948年(昭和23年)12月29日、熊本県人吉市で祈祷師一家が襲われ、祈祷師夫婦(76、52)が死亡、長女(14)、次女(12)が重傷を負った。1949年1月13日、免田栄さん(23)が逮捕、執拗な取り調べの末、自白。

その後無罪を訴えるも、1952年12月、死刑が確定。数回に渡る再審請求の末、1980年12月に再審が開始された。そして1983年、福岡地裁で無罪判決が下され、確定。34年ぶりに解放された。死刑確定囚の再審無罪は初めて。(
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〇下山事件(1人)~1949年(昭和24年)7月5日、自宅から出勤途中の下山定則国鉄総裁(49)が、三越本店に買い物に入ったまま行方不明になった。翌日午前0時25分、常磐線の綾瀬・北千住間の線路付近で下山総裁の轢殺死体が発見された。

轢いたのは0時20分頃に同所を通過した下り貨物列車であると推定された。当時、GHQから国鉄職員の大量整理を迫られていたことから、警視庁捜査一課は自殺説を唱えた。慶応大学の中館鑑定も、生体轢断説を支持した。

一方、警視庁捜査二課は謀殺説をとり、左翼勢力によって自殺を装われたと推定した。東京大学の古畑鑑定は、死後轢断説を支持した。自殺か他殺か意見が分かれたままだったが、12月に入り、警察は自殺と断定、捜査本部を解散した。(
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〇三鷹事件(6人)~1949年(昭和24年)7月15日21時過ぎ、国鉄中央線三鷹駅構内で無人列車が突然動き出して暴走し、民家に突入。死者6名、重傷者20名以上を出した。この日、国鉄職員大量人員整理に対し、組合側が断固闘争を宣言した日でもあった。最終的に10人が起訴。このうち9人が共産党員、三鷹電車区検査係の竹内景助のみが非共産党員だった。

竹内の供述は、捜査・公判段階を通じて無罪、単独犯行、共同犯行と、何度も供述を変転させたが、一審最終陳述で単独犯行を主張。結局竹内のみ無期懲役、他被告全員無罪となった。この供述は、共産党シンパであった竹内が、弁護士に「10年後には、共産革命が起きて人民政府ができる。そうすれば君は英雄として迎えられ、高いポストにつくことができる」といわれたことが大きかった。しかし、控訴審では竹内死刑判決、他被告全員無罪となった。

最高裁では、15名の裁判官による大法廷での審理となり、結局8対7という一票差で「検察、被告各上告を棄却」。こうして竹内は1955年に死刑確定囚となった。そんな竹内に共産党からは何の援助も、釈放運動すら起きなかった。その後、竹内死刑確定囚は無実を訴え再審請求を行ったが、1967年1月18日、脳腫瘍により獄中死。享年45。病状が進んでも、当局は一切の治療を行わなかった。(
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〇弘前大教授夫人殺害事件(1人)~1949年(昭和24年)8月6日午後11時過ぎ、青森県弘前市で、弘前大医学部教授夫人Mさん(30)が、部屋に侵入した男に喉を刺され失血死。8月22日、失業中のN氏(25)が逮捕された。42日間の拘留でも自白せず、検察側はそのまま起訴。1951年1月12日、青森地裁弘前支部は「証拠不十分」で無罪判決を言い渡す。

1952年5月31日、仙台高裁は「N氏が来ていた白シャツの血痕は98.5%の確率で被害者のもの」という古畑種基の鑑定を全面的に採用し、懲役15年判決を言い渡した。1953年2月19日、最高裁で上告棄却、確定。N氏は1963年1月に仮出所。

1971年6月、N氏の幼友達が真犯人だと名乗り出た。読売新聞記者がスクープし、N氏は仙台高裁へ再審請求。1974年12月に棄却されたが、異議申立中に「白鳥判決」が出され、また、古畑鑑定の誤りが指摘されたこと、真犯人の指紋が隠匿されていた事実も明らかになり、仙台高裁は1976年7月13日に再審開始を決定。1977年2月15日、仙台高裁は無罪を言い渡し、そのまま確定した。(
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〇松川事件(3人)~1949年(昭和24年)8月17日午前2時9分、東北本線の金谷川・松川両駅間で旅客列車の脱線転覆事故が起き、機関士3名が死亡、乗客ら約30名が負傷した。レールに工作の痕があり、列車妨害事件として国鉄労働者10名、東芝松川工場労働者10名が逮捕、起訴される。物証はほとんどなく、被告側は無罪を主張。

1950年12月、福島地裁は5名に死刑判決、15名に無期懲役などの有罪判決を言い渡した。1953年12月、仙台高裁は3名を無罪にしたものの、残り17名に有罪を言い渡した。しかし上告審中の1958年、被告の当日のアリバイが書かれたメモを検察側が押収、秘匿していたことが発覚。

1959年8月、最高裁は原判決を破棄、差し戻した。1961年8月、仙台高裁は全員に無罪を言い渡した。検察側は上告したが、1963年9月12日、最高裁は上告を棄却し全員の無罪が確定した。その後、元被告たちは国家に対し賠償を請求、1970年8月1日、わずか合計7625万円が支払われた。

「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」は三大謀略事件と呼ばれている。特にこの「松川事件」はGHQの関連が強く指摘されている。また、国鉄を舞台にしたこの3事件により、吉田茂内閣は数十万におよぶ人員整理を難なく実行し得たといわれている。(
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〇光クラブ事件(1人)~東大法学部3年生の現役学生Yは1948年秋から学生仲間と貸金業を始め、銀座へ進出、ヤミ金融「光クラブ」の経営を始めた。投資家から多額の金を集め、月2割-3割の前払い高利で貸付を行った。しかし、ヤミ金融の疑いで警察の取り調べを受け、信用を失墜。

400人近い債権者から取り立てをうけ、金策に苦しんでいた。1949年(昭和24年)11月24日、会社社長室でYは青酸カリを飲み自殺した。高木彬光『白昼の死角』を参照。(
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〇二俣事件(4人)~1950年(昭和25年)1月7日朝、静岡県磐田郡二俣町のOさん宅で、一家4人(父(46)、母(33)、妹(2)、妹(0)が血まみれとなって死んでいるのを長男が発見し二俣署に届けた。

別件でSさん(18)が逮捕され、拷問の結果犯行を自白した。犯行時刻が6日午後11時過ぎであることは明らかで、Sさんにはアリバイがあったのだが、警察は苦し紛れの自白をでっち上げ、犯行時刻が午後8時半から9時であるとした。1950年12月静岡地裁浜松支部、1951年9月、東京高裁でいずれも死刑判決。しかし最高裁は自白の真実性に疑問を呈し、物的証拠の矛盾などもあったことから、1953年11月に原審破棄、差し戻し。1957年10月26日、東京高裁は無罪を言い渡し、確定した。

静岡県本部刑事課の紅林麻雄警部補主導による拷問・誘導尋問などが指摘されている。また拷問を1950年12月25日に法廷で内部告発した刑事は偽証罪で逮捕され、精神疾患の名目で免職させられている。さらに自宅は不審火で焼失したが、警察は一切の捜査を行わなかった。(
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〇財田川事件(1人)~1950年(昭和25年)2月28日、香川県財田川村で闇米ブローカー(62)が刺殺され、現金13,000円が奪われた。4月3日、警察は別の強盗事件で逮捕されていた谷口繁義さん(19)を拘留し、60日以上に渡って尋問。谷口さんは自白させられ、8月1日に逮捕された。谷口さんは無罪を訴えるが、古畑種基の血痕を唯一の物的証拠として1952年1月25日、高松地裁丸亀支部で死刑判決。

1958年3月20日、高松高裁で控訴棄却。1957年1月22日、最高裁で上告が棄却され、死刑確定。第一次再審請求棄却から1年2ヶ月後の1959年、法務省は死刑執行の起案書を書こうとしたが、高松地裁丸亀支部は厳重に保管すべき裁判不提出記録を紛失していたため、処刑手続きを中断した。

1969年、高松地裁丸亀支部の矢野伊吉裁判長が谷口さんの無罪を訴える手紙を発見し、裁判官を辞職して弁護活動を始める。再審請求の末、1981年に再審が開始した。そして1984年3月12日、高松地裁で無罪判決が下され、確定、34年ぶりに解放された。しかし矢野氏は無罪判決を見ることなく、1983年3月に亡くなっていた。

ここでも、古畑鑑定への疑問が投げかけられた。谷口さんは2005年7月26日、脳梗塞で亡くなった。享年74。(
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〇梅田事件(2人)~1950年(昭和25年)10月10日、北海道北見市の営林局会計課員Oさん(20)が、公金19万円を持ったまま行方不明になった。警察は公金拐帯事件として捜査を始める。1951年(昭和26年)、公金472万円をもった留辺蘂営林局会計係員(28)が失踪、1952年(昭和27年)9月に遺体が発見され、S(53)が逮捕。自供から主犯であるH(28)が逮捕された。Hは取調中、Oさん殺害も自供。Oさんの遺体が発見された。

Hはさらに、Oさん殺しの実行犯として、軍隊時代に顔を知った梅田義光さん(28)の名を口にした為、1952年7月、北見市警は逮捕令状も用意せずに梅田さんを逮捕した。ほとんど拷問に等しい取り調べにより犯行を自白。Hの証言もあったことから1954年7月7日、北見地裁で無期懲役判決。1958年、最高裁で刑が確定した。

その後、獄中から第1次再審請求を出したが棄却。1971年、仮出所後、1979年に第2次再審請求。1982年12月10日、釧路地裁で再審開始決定。1985年2月4日、札幌高裁が即時抗告を棄却し、再審開始が確定。そして1986年8月27日、釧路地裁で無罪判決が言い渡され、そのまま確定。ようやく冤罪をはらすことが出来た。

なお、共犯であると証言したHはすでに死刑が確定。1960年6月に執行されていた。Sは無期懲役確定。梅田義光さんは2007年6月20日、前立腺がんのため北見市内の病院で死去した。享年82。(
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アイ・アム・レジェンド(I AM LEGEND)

2009年01月03日 | 映画、ホラー(DVD)

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アイ・アム・レジェンド(I AM LEGEND)

950円、2009年1月22日、ブックオフ網走店

2007年、アメリカ、100分

ウィル・スミス (Will Smith)

サリー・リチャードソン (Salli Richardson)

アリーシー・ブラガ (Alice Braga)

ダッシュ・ミホク (Dash Mihok)

フランシス・ローレンス監督

あらすじ~2012年。廃墟と化したマンハッタンを、赤いムスタングが駆け抜けてゆく。運転しているのはロバート・ネビル(ウィル・スミス)、助手席には愛犬サムがいる。…3年前、ガン細胞を撲滅するため開発されたウイルスの暴走によって人類は滅亡の危機に瀕してした。ネビルの妻と娘も、その犠牲となった。ウイルスの感染者は凶暴化したダーク・シーカーとなり、太陽の光を避けながら闇の世界に蠢いている。ネビルは要塞化させた自宅の地下にある研究室で、生体実験を繰り返しながら抗体ワクチンの完成に勤しんでいた。ただひとりの生存者かもしれないネビルは、同じように免疫を持って生き延びている者の存在を信じて、ラジオ放送で自身のメッセージを流し続けている。「もし誰かこれを聞いているなら、応えて欲しい。あなたは、独りじゃない」しかし今日も返答はなく、ワクチン完成への道も険しく、ニューヨークでたったひとりという凄まじい孤独にネビルは耐えていた。そんなある日、ダーク・シーカーたちに襲われるネビルを、ひとりの女性が救助した。彼女の名前はアナ(アリーシー・ブラガ)。サンパウロの赤十字の避難船で感染を免れてひとりの少年と共に生き延び、ネビルの放送を聞いてマンハッタンにやってきたのだ。敬虔なクリスチャンである彼女は、バーモント州にある生存者たちの村に避難することを勧めるが、ネビルは同意しない。ウイルスの発生地であるニューヨークに留まって、抗体ワクチンの完成に彼は賭けているのだ。それだけが、人類を救出する道だから。ネビルの住居をつきとめたダーク・シーカーは、最後の闘いを挑んでくる。