〇袴田事件(4人)~1966年(昭和41年)6月30日未明、清水市の味噌製造工場の専務宅で出火、全焼した現場から一家4人の焼死体が発見。遺体にはいずれも多くの刃物による傷があった。
被害者宅には多額の現金・預金通帳・有価証券などが残されており怨恨による犯行と考えられていたのである。その後、捜査の間に金袋がなくなっていることが判明。7月4日、元プロボクサーで同工場に勤務している袴田巌(30)の部屋から血痕のついたパジャマを押収。
大々的に報道されたが、実際は、二度の鑑定が不可能なほどの微量であった。8月18日、袴田が逮捕、21日後にとうとう「自白」した。もちろん、連日の過酷な取り調べ、拷問によるものであり、「自白調書」が45通も作られたという摩訶不思議な話である。
裁判では44通の自白調書を否定。1通の自白調書を証拠として採用した。1968年9月11日、東京地裁で死刑判決。1976年5月18日、東京高裁で控訴棄却。1980年11月19日、最高裁で死刑が確定。1981年再審請求を出す。再審の可能性がかなり高いとマスコミでも言われていたが、1994年8月棄却。即時抗告。
2000年7月、袴田確定死刑囚の衣服に付いていたという血痕をDNA鑑定したものの、判別不能という結果に終わった。2004年7月、請求棄却。最高裁へ特別抗告。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇女子高生暴行殺人事件(1人)~1967年(昭和42年)1月13日夜、労務者S(26)は神奈川県藤沢市の路上で、帰宅途中の定時制女子高生(19)を呼びとめ、人気のないところで乱暴、殺害し、空き地に埋めて、横浜市に逃走した。翌日昼、女子高生が帰らないことを心配し、探していた母が女子高生のヒールを発見、藤沢署に届けた。
当初は誘拐と思われたが、一切の連絡がなかったため、16日に公開捜査。翌日、逃走先で接触したSのいとこが、捜査本部に通報。捜査員が空き地を捜索し、女子高生の死体を発見。ただちにSを全国指名手配し、18日に逮捕した。
1969年1月、一審無期懲役判決。しかし、検察側は控訴し、1971年11月、強姦の前歴があることを加味され、逆転死刑判決。1972年7月、死刑確定。S本人は、死刑判決を受けたことが心外であり、再審請求を行う予定だった。1982年11月、所長から呼ばれたSは、特に不審を抱かず連行された。
この頃の東京拘置所では、慣例として前日言い渡しをしていたため、自分が執行されるとは夢にも思っていなかったらしい。所長室で即日処刑を聞かされ、暴れ狂った。手錠が掛けられ、腰縄で固定されたSは大人しく刑場まで引きずり込まれたが、腰縄を解かれ、手錠を外された瞬間再び逆上。50分に渡る格闘の末、刑務官が寄ってたかって取り押さえ、首に縄を掛けて吊した。通常行われる儀式どころではなかった。41歳没。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇永山則夫連続射殺事件(4人)~警察庁広域重要指定108号事件。永山則夫(19)は横須賀市の在日米軍基地内の住宅からピストルを盗取。1968年(昭和43年)10月11日、東京都港区の東京プリンスホテルで、巡回中の警備員(27)を射殺。
その3日後に京都・八坂神社境内で、警備員(69)を射殺した。
さらに、同月26日には北海道函館市内で、タクシー運転手(31)を射殺して売上金約7000円を奪い、11月5日には名古屋市内で、タクシー運転手(22)を撃ち殺し、売上金7000余円を奪った。
翌69年4月7日、東京・千駄ケ谷のビルへ盗みに入ったところを警備員に見つかり、発砲して逃走したが、間もなく逮捕。
裁判で永山は、「逮捕時年齢こそ19歳だったが、生まれてからの劣悪な生活環境、幼少時に親に捨てられた過去、学校にほとんど通っていないことなどを考えると、精神年齢は18歳未満の未熟なものであった。故に、18歳未満は死刑を適用しないという少年法の精神に乗っ取るべきである」と訴えた。
著書『無知の涙』がベストセラー。読者で米在中の女性と獄中結婚。1981年の東京高裁で無期懲役判決になるも、検察側が量刑違反を理由に戦後初の上告。1983年7月、最高裁で高裁差し戻し判決。1987年、差し戻し控訴審で死刑判決、1990年4月、最高裁で死刑確定。
裁判中も小説等を書き続け、1983年、「木橋」で新日本文学賞受賞。しかし、唯我独尊の性格が災いしたか、女性とは離婚。徐々に支援者も離れていった。1997年8月1日死刑執行、48歳没。
その日、東京拘置所内では悲鳴が聞こえたという。同年5月に起きた「酒鬼薔薇事件」を法務省側が強く意識し、執行順位の早い確定者がいたにも関わらず、犯行当時少年だった永山を処刑したという意見が根強い。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇金嬉老事件(2人)~1968年(昭和43年)2月20日、静岡県掛川市の元ブローカ-、金嬉老(本名権禧老39)が清水市のキャバレーで借金の返済を迫った暴力団S一派の団員二人をライフルで射殺、45km離れた寸又峡温泉の旅館に押し入り、経営者一家6人と宿泊客10人を人質にとって籠城。
部屋にダイナマイト数十本を積んで威嚇。21日、報道陣のインタビューに応じ、暴力団S一派の悪を公表することと、清水署の取り調べで差別があったことを謝罪することを要求。
取り調べたK巡査はテレビで謝罪を行った。24日、玄関での記者会見中、記者になりすました刑事に取り押さえられる。金は舌を噛み切って自殺しようとしたが、ある警察官がとっさに警察手帳を口に差し込んで未遂に終わった。出血量は体全体の20%という重傷であった。
1975年に無期懲役が確定。1999年9月に仮釈放。そのまま韓国に帰国した。しかし、釜山市内で放火などの疑いで逮捕される。2000年9月には交際中の女性の夫を殺害しようとした殺人未遂の容疑で逮捕、鑑定留置され精神鑑定を受けた。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇近親相姦実父殺人事件(1人)~1968年(昭和43年)10月5日、栃木県矢板市に住むM(23)は、自宅で実父のYさん(53)を絞殺した。Mは中学2年の時にYに強姦され、それから10年以上も性の捌け口の対象にされた。
家には弟、妹の他に実母もいたが、実母が口を出すとYが暴れだす始末。Mが親戚の家に逃げ出したときも、強引に追いかけて連れ戻す。とうとう二人で住むようになり、Mは5人の子供を産んだ。他に5人を中絶し、子供が産めない手術を受けさせられた。
ところが29歳になったとき、アルバイト先で知り合った年下の男性と相思相愛の仲になった。MはそれをYに打ち明けたが、Yは怒り狂い、連日連夜脅迫し、殴る蹴るの暴力を加えた。そして10日目、とうとう耐えきれなくなったMは、泥酔しているYを絞め殺した。このとき、Yはこう叫んだという。「おまえに殺されるのなら本望だ」と。
尊属殺人罪で起訴されたが、尊属殺人罪が憲法違反ではないかとの議論になった。丁度この頃、他にも尊属殺人罪が憲法違反であると裁判で係争中の事件が2件あり、判決が注目された。一審では執行猶予、二審では実刑、そして最高裁では尊属殺人罪は憲法違反であると認定、殺人罪で懲役2年6ヶ月、執行猶予3年の刑が1973年4月4日に出された。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇三億円事件(0人)~1968年(昭和43年)12月10日午前、日本信託銀行の現金輸送車は、東芝府中工場従業員のボーナス約3億円を積んで、府中刑務所北側の道路を走っていた。突然、白バイが急接近してきて、停車を命じた。
若い警官は、この車に爆弾を仕掛けたという連絡があったと告げ、四人の行員を下車させた。警官は輸送車を点検するふりをして、発煙筒に点火。煙を見て四人の行員が避難するのを見ると、警官は輸送車に飛び乗って逃走。
その後、車を乗り換えた後、足取りは消えた。遺留品も多く、モンタージュ写真も作られたが、捜査は難航。1975年、時効成立。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇同級生首切り殺人事件(1人)~1969年(昭和44年)4月23日、川崎市にある私立高校1年生の少年(15)が、高校近くのツツジ畑の中でメッタ切りに合い、なおかつ首を切り落とされて発見された。届け出たのは少年と一緒にいた同級生(15)で、彼も左腕など2箇所を切られ、血だらけであった。
彼は3~4人の若い男に切られたと証言したが、矛盾点が多く、かつシャツに付いていた血が被害者のものであったことから追求すると、4月26日に犯行を自供した。二人は中学時代からの同級生で仲は悪くなかったが、いつも被害者に悪ふざけをされていたため、決着をつけようと登山ナイフを持参。
しかしナイフを見せつけると、逆に「お前はブタだからナイフまでブタに似ている」と言われたため、カーッとなって殺害した。我に返ったあと、被害者が生き返るのが怖くなり、首を切断。そして自分で左腕を切り、ナイフを捨てたものだった。加害者の少年は、中等少年院に送致された。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇「よど号」ハイジャック事件(0人)~1970年(昭和45年)3月31日早朝、羽田発福岡行きの日航機よど号が、富士山上空で赤軍派9名によりハイジャックされた。乗員7名、乗客131名が人質に。メンバーは、リーダーのT(27)、サブ・リーダーのK(25)、O(24)、Y(23)、A(22)、A(22)、T(21)、Y(20)、S(16)である。
9名は機長に、北朝鮮平壌に向かうよう命令。機長は燃料補給を理由に福岡に着陸。病人、子供など23名の人質を解放。飛行機は平壌に向かうかに見えたが、実は韓国の金浦空港に着陸した。韓国側は平壌に見せかけるよう偽装していたが、米軍機がいたことなどから赤軍派はすぐに見破った。事態は深刻なものになった。
4月1日、Y運輸政務次官(36)が身代わりになるよう申し出た。3日、残りの人質99名、乗員3名が解放、Y次官が人質となり金浦空港から平壌空港に向かった。9人はそのまま北朝鮮に亡命、Y次官と乗員3名はよど号で羽田空港に帰った。
本事件は、日本初のハイジャック事件であった。日本政府はこの事件の反省から、1970年6月7日に航空機の強取等の処罰に関する法律、いわゆる「ハイジャック防止法」を施行した。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
Kは銃砲火薬店でライフル二丁、弾などを奪い、逃走。宇品港に停泊中の小型旅客船「ぷりんす丸」を乗っ取った。乗組員7名、乗客37名を乗せた船は、静かに出港した。同夜、松山港に入る。途中、母や姉の説得には銃砲で返答した。自分の飲んだコーラの代金はしっかり払うという律儀なところも見せている。給油、乗客を全員降ろし、「ぷりんす丸」は出港し、翌朝宇品港に戻った。
しかし、そこで待ち受けていたのはライフル銃隊であった。テレビ中継の中、Kは胸を打ち抜かれ、ゆっくりと船橋に倒れ込んだ。真っ先にデッキに駆け上った刑事は、左手で拳銃を抜こうとしたKの手を叩き落とし、手錠をかけた。そのとき、唇からかすかな声が漏れた。傍にいた船長も聞いていた。「死んでたまるか、もう一遍」。Kは13日11時25分、呼吸を停止した。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇実兄一家皆殺し事件(4人)~埼玉県戸田市の無職H(34)は、小学生の頃から下着の盗み癖があった。それに覗きも常習で、両親や兄夫婦、あらには近所の家の寝室や風呂、便所などを覗きまくっていた。5月、Hは三度目の窃盗の刑期を終え、青森刑務所を満期出所した。
人の言うことには素直に従う性格だが、当時の刑務所職員に言わせると「こういう大人しい奴がいちばん、なにをしでかすかわからない」タイプと言われた。
1970年(昭和45年)8月8日、浅草で時間をつぶしたあと、実家の方に向かったが、ストリップでムラムラしていたせいか、あちこちの家を覗いていた。そして23時30分頃、実家の近くにある兄夫婦の家に来た。
裏へまわると鍵がかかっていないので入って覗くと、6畳間で実兄のHさん(40)、兄嫁のTさん(37)、次男(8)が川の字になって寝ていた。以前から兄嫁とやりたいと思っていたHは実家に戻って鉞を取り、再び兄夫婦の家に戻った。そしてTさんの頭を叩き割り、続いてHさん、次男を殺害した。
さらに物音で目が覚めた長男(12)も殺害した。その後、虫の息のTさんにのしかかり、性行為を延々と繰り返した。数日後には捕まり、あっさりと自供。「肉を食べられなかったのが残念だ」と供述した。精神鑑定した医師から「彼は善悪の区別のない怪物である」と言われた彼は、1972年4月、一審で死刑判決。何事にも素直に従う性格の彼は控訴せず、そのまま死刑が確定した。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇大久保清連続殺人事件(8人)~大久保清は小学生の頃から早熟で強姦他で前科4犯だった。1971年3月に出所後、親に最新型のスポーツカーを買ってもらい、コスチュームはベレー棒とルパシカ。
画家や詩人、教師になりすまし、女性を誘う。逮捕されるまでの73日間に127人の女性に声を掛け、35人を車に連れ込んでいた。騒がれた相手には強姦、そして殺害して死体を山中に埋めていた。合計で8人を殺害。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇三島由紀夫割腹自殺~1970年(昭和45年)11月25日、作家の三島由紀夫は右翼「楯の会」のMら4人とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入、東部方面総監を人質に取った。三島らは自衛隊員らを集め、クーデターを訴える演説を行ったが、隊員から罵声を浴びるだけだった。演説終了後、総監室で三島、Mは自ら腹を割き、後から介錯を受けて自殺した。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)