BOOK、CDなど

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2 失念防止のためのメモ

1946年(昭和21年)から1950年(昭和25年)まで

2009年01月03日 | ネット・ニュースなど

〇気になる事件、事故、自殺を抜粋~殺人事件が多いのに驚く日々。犯人の動機は、怨恨、嫉妬、憤怒、性欲、金銭等。被害者の冥福を祈る。 

〇ネットで、検索。

〇片岡仁左衛門一家惨殺事件(5人)~1946年(昭和21年)3月16日、江戸歌舞伎の名優片岡仁左衛門さん(65)の家に居候していた座付き役者のI(22)は、日頃から一日二食しか与えられていなかったこと、配給米をピンハネされていたこと(I自身の供述による)に不服をもっていた。

そして、Iが制作を任された顧客に配る挨拶状を仁左衛門さんは気に食わず、「それでも作家か」とののしった。腹を立てたIは、1946年3月16日午前6時頃、片岡仁左衛門さん、妻(26)、三男(2)、女中(69)、子守り(12)の5名を薪割り斧で撲殺した。子守りはIの実妹であった。無期懲役判決。(
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〇小平事件(10人)~1946年(昭和21年)8月17日、東京芝浦の増上寺境内の裏山で、死後10日は経っていた20歳くらいの女性の全裸死体が発見された。しかも10m離れた場所から、もう一体の白骨化した死体が出てきた。その後、全裸死体は立行司Iの三女であることが判明。そして就職斡旋をしていたおじさんこと小平義雄(42)が8月20日に逮捕される。

小平は1923年、18歳で海軍に入り、中国大陸で現地人を次々強姦、殺害。勲8等旭日賞をもらって除隊後の1932年に、家出した妻の父を殺害して懲役15年の刑に服し、2度の恩赦後、1930年に出所していた。

その後の調べで小平は1945年5月から1946年8月まで合計10名を殺害していたと断定された。これ以外にも、小平は約30件の暴行を行った旨を供述している。裁判では10件の殺害のうち、3件については証拠不十分で無罪、7件について死刑判決を言い渡した。1948年11月確定。1949年10月5日宮城刑務所で執行、享年45。(
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〇帝銀事件(12人)~1948年(昭和23年)1月26日、東京豊島区の帝国銀行(第一勧業銀行の前身)椎名町支店に、45歳ぐらいの男がやってきた。男は「付近に赤痢菌が発生した」と告げ、行員16名に持参した予防薬を飲ませた。これを飲んだ16名は次々に苦しみはじめ、12名(8歳~49歳)が死亡。犯人は店内にあった現金約16万円と1万数千円の小切手(後に引き換えしている)を奪って逃走した。犯人は予防薬を飲ませるに当たり、実演している。毒薬は遅効性のものと判断されていたが、やがて「青酸カリ」とされた。ちなみに鑑定を行ったのは古畑種基教授を中心とする東大法医学教室である。

当初は軍関係者、特に731部隊(石井部隊)が関連していたとして捜査が行われていたが、決め手がなく難航した。ところが8月21日、人相書きとは似ても似つかぬ、一般人の日本画家平沢貞道(56)が逮捕された。当初は否認していたものの、9月23日より自供を始めた。10月12日、強盗殺人容疑および他の2銀行への強盗殺人未遂および予備容疑で起訴された。

12月20日より東京地裁で開かれた公判において、平沢は自白を翻し、無罪を主張した。1950年7月24日、東京地裁で一審死刑判決。1951年8月11日、東京高裁で控訴棄却。1955年4月6日、最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。その後、17度の再審請求、3度の恩赦願が出されたが受け入れられず、一方歴代の法務大臣が死刑執行命令を出さなかったため、約32年間、ついに執行されることなく、肺炎で獄死した。享年95。(
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〇免田事件(2人)~1948年(昭和23年)12月29日、熊本県人吉市で祈祷師一家が襲われ、祈祷師夫婦(76、52)が死亡、長女(14)、次女(12)が重傷を負った。1949年1月13日、免田栄さん(23)が逮捕、執拗な取り調べの末、自白。

その後無罪を訴えるも、1952年12月、死刑が確定。数回に渡る再審請求の末、1980年12月に再審が開始された。そして1983年、福岡地裁で無罪判決が下され、確定。34年ぶりに解放された。死刑確定囚の再審無罪は初めて。(
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〇下山事件(1人)~1949年(昭和24年)7月5日、自宅から出勤途中の下山定則国鉄総裁(49)が、三越本店に買い物に入ったまま行方不明になった。翌日午前0時25分、常磐線の綾瀬・北千住間の線路付近で下山総裁の轢殺死体が発見された。

轢いたのは0時20分頃に同所を通過した下り貨物列車であると推定された。当時、GHQから国鉄職員の大量整理を迫られていたことから、警視庁捜査一課は自殺説を唱えた。慶応大学の中館鑑定も、生体轢断説を支持した。

一方、警視庁捜査二課は謀殺説をとり、左翼勢力によって自殺を装われたと推定した。東京大学の古畑鑑定は、死後轢断説を支持した。自殺か他殺か意見が分かれたままだったが、12月に入り、警察は自殺と断定、捜査本部を解散した。(
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〇三鷹事件(6人)~1949年(昭和24年)7月15日21時過ぎ、国鉄中央線三鷹駅構内で無人列車が突然動き出して暴走し、民家に突入。死者6名、重傷者20名以上を出した。この日、国鉄職員大量人員整理に対し、組合側が断固闘争を宣言した日でもあった。最終的に10人が起訴。このうち9人が共産党員、三鷹電車区検査係の竹内景助のみが非共産党員だった。

竹内の供述は、捜査・公判段階を通じて無罪、単独犯行、共同犯行と、何度も供述を変転させたが、一審最終陳述で単独犯行を主張。結局竹内のみ無期懲役、他被告全員無罪となった。この供述は、共産党シンパであった竹内が、弁護士に「10年後には、共産革命が起きて人民政府ができる。そうすれば君は英雄として迎えられ、高いポストにつくことができる」といわれたことが大きかった。しかし、控訴審では竹内死刑判決、他被告全員無罪となった。

最高裁では、15名の裁判官による大法廷での審理となり、結局8対7という一票差で「検察、被告各上告を棄却」。こうして竹内は1955年に死刑確定囚となった。そんな竹内に共産党からは何の援助も、釈放運動すら起きなかった。その後、竹内死刑確定囚は無実を訴え再審請求を行ったが、1967年1月18日、脳腫瘍により獄中死。享年45。病状が進んでも、当局は一切の治療を行わなかった。(
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〇弘前大教授夫人殺害事件(1人)~1949年(昭和24年)8月6日午後11時過ぎ、青森県弘前市で、弘前大医学部教授夫人Mさん(30)が、部屋に侵入した男に喉を刺され失血死。8月22日、失業中のN氏(25)が逮捕された。42日間の拘留でも自白せず、検察側はそのまま起訴。1951年1月12日、青森地裁弘前支部は「証拠不十分」で無罪判決を言い渡す。

1952年5月31日、仙台高裁は「N氏が来ていた白シャツの血痕は98.5%の確率で被害者のもの」という古畑種基の鑑定を全面的に採用し、懲役15年判決を言い渡した。1953年2月19日、最高裁で上告棄却、確定。N氏は1963年1月に仮出所。

1971年6月、N氏の幼友達が真犯人だと名乗り出た。読売新聞記者がスクープし、N氏は仙台高裁へ再審請求。1974年12月に棄却されたが、異議申立中に「白鳥判決」が出され、また、古畑鑑定の誤りが指摘されたこと、真犯人の指紋が隠匿されていた事実も明らかになり、仙台高裁は1976年7月13日に再審開始を決定。1977年2月15日、仙台高裁は無罪を言い渡し、そのまま確定した。(
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〇松川事件(3人)~1949年(昭和24年)8月17日午前2時9分、東北本線の金谷川・松川両駅間で旅客列車の脱線転覆事故が起き、機関士3名が死亡、乗客ら約30名が負傷した。レールに工作の痕があり、列車妨害事件として国鉄労働者10名、東芝松川工場労働者10名が逮捕、起訴される。物証はほとんどなく、被告側は無罪を主張。

1950年12月、福島地裁は5名に死刑判決、15名に無期懲役などの有罪判決を言い渡した。1953年12月、仙台高裁は3名を無罪にしたものの、残り17名に有罪を言い渡した。しかし上告審中の1958年、被告の当日のアリバイが書かれたメモを検察側が押収、秘匿していたことが発覚。

1959年8月、最高裁は原判決を破棄、差し戻した。1961年8月、仙台高裁は全員に無罪を言い渡した。検察側は上告したが、1963年9月12日、最高裁は上告を棄却し全員の無罪が確定した。その後、元被告たちは国家に対し賠償を請求、1970年8月1日、わずか合計7625万円が支払われた。

「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」は三大謀略事件と呼ばれている。特にこの「松川事件」はGHQの関連が強く指摘されている。また、国鉄を舞台にしたこの3事件により、吉田茂内閣は数十万におよぶ人員整理を難なく実行し得たといわれている。(
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〇光クラブ事件(1人)~東大法学部3年生の現役学生Yは1948年秋から学生仲間と貸金業を始め、銀座へ進出、ヤミ金融「光クラブ」の経営を始めた。投資家から多額の金を集め、月2割-3割の前払い高利で貸付を行った。しかし、ヤミ金融の疑いで警察の取り調べを受け、信用を失墜。

400人近い債権者から取り立てをうけ、金策に苦しんでいた。1949年(昭和24年)11月24日、会社社長室でYは青酸カリを飲み自殺した。高木彬光『白昼の死角』を参照。(
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〇二俣事件(4人)~1950年(昭和25年)1月7日朝、静岡県磐田郡二俣町のOさん宅で、一家4人(父(46)、母(33)、妹(2)、妹(0)が血まみれとなって死んでいるのを長男が発見し二俣署に届けた。

別件でSさん(18)が逮捕され、拷問の結果犯行を自白した。犯行時刻が6日午後11時過ぎであることは明らかで、Sさんにはアリバイがあったのだが、警察は苦し紛れの自白をでっち上げ、犯行時刻が午後8時半から9時であるとした。1950年12月静岡地裁浜松支部、1951年9月、東京高裁でいずれも死刑判決。しかし最高裁は自白の真実性に疑問を呈し、物的証拠の矛盾などもあったことから、1953年11月に原審破棄、差し戻し。1957年10月26日、東京高裁は無罪を言い渡し、確定した。

静岡県本部刑事課の紅林麻雄警部補主導による拷問・誘導尋問などが指摘されている。また拷問を1950年12月25日に法廷で内部告発した刑事は偽証罪で逮捕され、精神疾患の名目で免職させられている。さらに自宅は不審火で焼失したが、警察は一切の捜査を行わなかった。(
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〇財田川事件(1人)~1950年(昭和25年)2月28日、香川県財田川村で闇米ブローカー(62)が刺殺され、現金13,000円が奪われた。4月3日、警察は別の強盗事件で逮捕されていた谷口繁義さん(19)を拘留し、60日以上に渡って尋問。谷口さんは自白させられ、8月1日に逮捕された。谷口さんは無罪を訴えるが、古畑種基の血痕を唯一の物的証拠として1952年1月25日、高松地裁丸亀支部で死刑判決。

1958年3月20日、高松高裁で控訴棄却。1957年1月22日、最高裁で上告が棄却され、死刑確定。第一次再審請求棄却から1年2ヶ月後の1959年、法務省は死刑執行の起案書を書こうとしたが、高松地裁丸亀支部は厳重に保管すべき裁判不提出記録を紛失していたため、処刑手続きを中断した。

1969年、高松地裁丸亀支部の矢野伊吉裁判長が谷口さんの無罪を訴える手紙を発見し、裁判官を辞職して弁護活動を始める。再審請求の末、1981年に再審が開始した。そして1984年3月12日、高松地裁で無罪判決が下され、確定、34年ぶりに解放された。しかし矢野氏は無罪判決を見ることなく、1983年3月に亡くなっていた。

ここでも、古畑鑑定への疑問が投げかけられた。谷口さんは2005年7月26日、脳梗塞で亡くなった。享年74。(
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〇梅田事件(2人)~1950年(昭和25年)10月10日、北海道北見市の営林局会計課員Oさん(20)が、公金19万円を持ったまま行方不明になった。警察は公金拐帯事件として捜査を始める。1951年(昭和26年)、公金472万円をもった留辺蘂営林局会計係員(28)が失踪、1952年(昭和27年)9月に遺体が発見され、S(53)が逮捕。自供から主犯であるH(28)が逮捕された。Hは取調中、Oさん殺害も自供。Oさんの遺体が発見された。

Hはさらに、Oさん殺しの実行犯として、軍隊時代に顔を知った梅田義光さん(28)の名を口にした為、1952年7月、北見市警は逮捕令状も用意せずに梅田さんを逮捕した。ほとんど拷問に等しい取り調べにより犯行を自白。Hの証言もあったことから1954年7月7日、北見地裁で無期懲役判決。1958年、最高裁で刑が確定した。

その後、獄中から第1次再審請求を出したが棄却。1971年、仮出所後、1979年に第2次再審請求。1982年12月10日、釧路地裁で再審開始決定。1985年2月4日、札幌高裁が即時抗告を棄却し、再審開始が確定。そして1986年8月27日、釧路地裁で無罪判決が言い渡され、そのまま確定。ようやく冤罪をはらすことが出来た。

なお、共犯であると証言したHはすでに死刑が確定。1960年6月に執行されていた。Sは無期懲役確定。梅田義光さんは2007年6月20日、前立腺がんのため北見市内の病院で死去した。享年82。(
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