BOOK、CDなど

1 BOOK、CDなどを断捨離、コンサート、リウマチ(膠原病)などのメモ
2 失念防止のためのメモ

生き残った兵士たちを監禁… ミッドウェー海戦大惨敗を隠すために国がしたこと(AERA 2018/08/15)~

2018年08月15日 | ネット・ニュースなど

生き残った兵士たちを監禁… ミッドウェー海戦大惨敗を隠すために国がしたこと(AERA 2018/08/15)~

 「あの戦争」から73年。今年4月に総務省が発表した資料によると、戦後生まれが日本の総人口の82.8パーセントを占め、「平成」生まれも25.6パーセントと4分の1を超えた。

「戦争を知らない世代」が増えつづけていくことは、本来ならば喜ばしいことに違いない。それだけ「平和」が続いてきたということでもあるからだ。

『96歳 元海軍兵の「遺言」』の著者であり、戦争体験の語り部活動を続けている大阪市の瀧本邦慶さん(96)は、1941(昭和16)年11月、千島列島の海にうかぶ航空母艦「飛龍」の中で20歳の誕生日をむかえた。そのまま約2週間後のハワイ・真珠湾攻撃に向かい、翌42年6月のミッドウェー海戦にも身を投じた。敗戦の知らせを聞いたのは、「餓死の5分前」まで追いつめられた南太平洋の小さな島でだった……。

■17~23歳、青春時代=戦争

 瀧本さんは、1921年11月23日、香川県の農村でうまれた。そして17歳の初夏、海軍を志す。20歳の徴兵検査まで待たなかったのは、「大きくなったら兵隊さんになる。お国のために死ぬ。それこそ男子最高の名誉である」と信じていたからだ。それが当時の常識でもあった。両親も、学校の先生も、地域の人も上から下までそう思っていた。「これはおかしい」と疑問を感じるきっかけなどなかった。心の奥底はいず知らず、みんながみんな同じことを考え、同じ方向をめざしていた。子どもの戦死を親が言祝(ことほ)ぐ時代だった。

 最終階級は下士官。下っぱ兵の目で見た戦場に「かっこいい物語」は一つもなかった、とふりかえる。

 ミッドウェー海戦で沈みゆく空母飛龍からほうほうの体で逃げだしたとき、無数の戦友の死体を見た。

「手も足も頭もばらばらにちぎれている戦友の姿をようけ見ました。体がまっぷたつに壊れたもん。五つにも六つにも壊れたもん。足がなくて焼け死んどるもの。腰から下が吹き飛ばされておるもの。飛びちっている手や足。助けを求める声はありませんでした」

■監禁、そして死地へ

 大惨敗のミッドウェー海戦から帰ってきた瀧本さんを待っていたのは、病棟への監禁だった。

「なんでやと。罪人あつかいやないか。俺ら、そんな悪いことした覚えはないわ。そう思とりますやん。こんなばかな話はないと腹がたちました」

 理由は新聞報道で知った。「我が方の損害」として空母1隻喪失、同1隻大破という大本営発表が書かれていた。

「びっくりですわ。大本営はこんな大うそをついておるのかと。こっちはそこに行っとったわけやから。この目で見とったわけやから。虎の子の4隻をたった1日で失ったことを知っておるわけですから」

 事実を漏らされないようにと監禁されたに違いなかった。

 それから送りこまれたトラック諸島では、戦友や部下が次々と餓死していった。

「やせてやせて、本当に骨と皮になって、ほんで死んでいくんですよ。人間の姿ではありません」

「1日が終わると、『ああ、きょうも生きのびたな。死なないでよかったな』と思う。われわれはいったい何のために、誰のために戦争をしているのか。もう戦争などまっぴらごめんだ」

「このころの戦闘行為とは、ただただ生きることだけでした」

 仲間が餓死すると、近くの山に埋めにいく。穴を掘る体力などない。地面をかきむしって遺体を入れ、穴からはみでているところは土を乗せて薄くならした。それで終わり。

「なんと申し訳ないことを死者にしたのかと思う。思うけれど、その時はそれどころじゃないんですわ。遺体の処理をしながら、あ、俺はいつやろかと、そんなことを考えながらやっとるわけです。あすは自分の番や。だから堪忍してくれと心の中で手をあわせて、ほいでかえってきた」

 それまで上官から繰りかえし聞かされたのは「貴様ら、よく聞け。いったん戦地に行ったら階級の上下は関係なしに一緒に死ぬんやぞ」ということだった。

 嘘だった。

 戦後73年となる今も瀧本さんが声に怒気と殺気を込めて語るのは、やはりトラック諸島でのできごとだ。

 木の葉を海水で煮て食らうしかない日々。餓死していく下っぱ兵たちを尻目に、非常用の備蓄食糧に手を出して食べている上官たち。どうにも我慢ならなくて瀧本さんは分隊長に食糧の開放を願いでる。

「一発でことわられました」

「われわれ下っぱが草を食って命をつないでいるときに、士官どもは銀飯を食べとるんですよ。銀飯ですよ、銀飯。こっちは草くうとるんや」

 みずからにも餓死が迫りくる中、瀧本さんはこう考えるしかなかった。

「こんなね、南のね、ちっぽけな島で骨と皮になってね、のたれ死んでね、ヤシの木の肥やしになるだけなんて、こんな死にかたは納得できない」

「ここで死ぬことがなんで国のためか。こんなばかな話があるか。こんな死にかたがあるか。何が国のためじゃ。なんぼ戦争じゃいうても、こんな死にかたに得心できるか。敵と戦こうて死ぬならわかる。のたれ死にのどこが国のためか」

(朝日新聞大阪社会部・下地毅)

 
人間は、生物の1種。
生存して子孫を残す。
その生命力に対し敬意を表する。

人間は利己的な生物でもある。
食料を独占した上官もそう。
下士官同士連帯し、利己的な上官を抹殺すべきだった。
というか、抹殺されて当然な低俗な上官もいた。
自己の生存が第1、法律的には悪。
生存戦略としては、正義。

みんな狡猾、欲望に負けるのが人間。
隠ぺいしたことで官僚、軍人は、自己の生存を優先した。
下士官のことなんか気にしない。
自己中心的な人が生存のチャンスを得る。
右翼的な評論家が日本軍の活動を賛美しているが、事実はそうでない部分もある。

立派な軍人もいるが、私利私欲に走る軍人もいる。
分布からいうと、平凡な軍人が80%、優秀な軍人10%、劣悪な軍人10%。
こんなわけはないね、平凡な軍人が33%、優秀な軍人33%、劣悪な軍人33%だね。

AERAは、朝日新聞系
この記事の意図は?
軍部の劣悪さ?
人間の本性?
共産中国の影響下にある朝日新聞、プロバガンダ。

08/15のNHK特番、ノモンハン事件の責任逃れ、劣悪な上官99%、善良な上官1%、ほとんど逃げ、嘘ばかり。
人間とは、そんなものかな。
NHKは、共産中国の影響下、スパイばかり。
放送の意図は、軍人の責任逃れを強調?
日本軍部の幹部の怠慢を示したかったのかな。
軍人だけではない。
会社、官庁、社会も責任逃れ、自分が1番。
当然、NHK職員も、例外はない。
人間の本性、本質。

政府は、必ず嘘をつく 堤未果著 角川SSC新書
菅政権の嘘、当時の枝野幸男官房長官の嘘。
「直ちに健康被害はありません。」と嘘の発表。
福島県民が、被ばくした。
政治家は、嘘つき。
左翼系の政党、民主党も嘘が多い。

 

トルコ大統領、米電気製品の不買運動呼び掛け 強硬姿勢崩さず(REUTERS 2018/08/14)~

2018年08月15日 | ネット・ニュースなど

トルコ大統領、米電気製品の不買運動呼び掛け 強硬姿勢崩さず(REUTERS 2018/08/14)~今後の展開は? 脆弱なトルコ経済が崩壊、ハイパーインフレ?

エルドアン大統領は、与党・公正発展党(AKP)に向けたスピーチで、トルコが経済戦争の標的になっているとし、急落しているトルコリラを下支えするため、国民にドルやユーロを売るようあらためて呼び掛けた。

「国民とともにドルや他の通貨、インフレ、金利に対して断固として立ち向かう。一致団結してわが経済の独立を守る」とし、「米国製電気製品のボイコットを行う」と主張。米アップルのiPhone(アイフォーン)を例に挙げ、サムスンやトルコ企業の製品への乗り換えを促した。

エルドアン大統領はまた、トルコに投資する企業へのインセンティブを強化するとし、企業は先行きの不透明感に惑わされるべきではないと主張した。

リラ(TRYTOM=D3)はエルドアン大統領が利下げを主張していることや対米関係の悪化を受け、年初来から40%超下落。13日には対ドルで7.24リラの最安値を更新した。

この日は0918GMT(日本時間午後6時18分)時点で、前日比約5%高の6.53リラに反発。アルバイラク財務相が16日に米国、欧州、中東の投資家と電話会議を開くとの報道を受けた。


リラを見捨てたトルコ国民-愛国心にも限界、外貨売りに応じず(Bloomberg 2018/08/13)~

2018年08月15日 | ネット・ニュースなど

リラを見捨てたトルコ国民-愛国心にも限界、外貨売りに応じず(Bloomberg 2018/08/13)~株式マーケットの反応は?

  市場の暴落に直面するトルコの政策担当者が取り得るさまざまな選択肢についてエコノミストは臆測を巡らせているが、トルコ国民はあたかもボクシングで選手にタオルを投げるセコンドのように自国通貨リラの敗北を認めつつある。

  エルドアン大統領は、リラ相場の支援のため、まとまった額の外貨をリラと交換するよう繰り返し市民らに求めたが、その声は無視されている。そのような懇願に聞き従った人々は必ず財産を失うというのが過去の教訓だ。イスタンブールの商業資本の中心で、大統領への信認と支持が損なわれる兆しが表れている。

  退職生活を送るセビン・テムールさん(58)は「大統領を尊敬してはいるが、彼が呼び掛けたからといって私は保有する金や外貨を売ることはできない。食べたい物も切り詰めて蓄えたのだから」と語った。エルドアン大統領が2016年12月に最初の呼び掛けを行って以降、リラのパフォーマンスは世界の通貨で最悪となっており、対ドルおよびユーロで価値がほぼ半分に減った。

  「ドルを買わなかったことを後悔している。自分がばかのように思える」と話す店主のブレント・ウジュランさん(36)は、エルドアン大統領が娘婿のアルバイラク氏を財務相に起用した政権の人事に言及し、「経験が豊富な人材が数多くいたにもかかわらず、経済全体の運営を娘婿に任せたことが危険な状態を招いた」と嘆いた。


トルコ、米国との関係修復で十分手は尽くした=外相(REUTERS 2018/08/13)~

2018年08月15日 | ネット・ニュースなど

トルコ、米国との関係修復で十分手は尽くした=外相(REUTERS 2018/08/13)~外相のコメントの意図は? 国内向け? 米国へのメッセージ? 米国への誤った対応で自国通貨が暴落した。今後の展開次第で、各国の株式マーケットに影響を及ぼす。年金は、株式で運用。日本にも影響・大。消費税増税は、凍結してほしい。

 

外相はまた、トルコを脅すことによって結果を出すことはできないと米国は学ぶべきだとも述べた。


終戦翌年10歳、満州で独りぼっち「なぜみんな死んだのか」(神戸新聞 2018/08/15)~

2018年08月15日 | ネット・ニュースなど

終戦翌年10歳、満州で独りぼっち「なぜみんな死んだのか」(神戸新聞 2018/08/15)~人間は生物の1種。生存し遺伝子を継承するのが任務。生きていることが、勝ち組。運の強い人、尊敬に値する。

 多くの人から一瞬で家族を奪った太平洋戦争の終結から間もなく73年。悲しみにくれる暇もなく、厳しい戦後を駆け抜けた子どもたちがいる。当時はまだ幼く、思いを言葉にできなかった子どもたちが今、次世代に伝えようと語り始めた。忘れることのできない戦争の記憶と家族の面影を胸に、懸命に生きた日々をたどる。(貝原加奈、田中宏樹)

 「おはよう」。あの朝のことは今も昨日のことのように思い出す。寝床に横たわった父はいくら声を掛けても起きてこなかった。

 終戦翌年の3月9日、当時10歳だった川西美恵子さん(82)=神戸市兵庫区=は満州(現中国東北部)で父を亡くし独りぼっちになった。川西さんが使う水がめは、父が最後に張った水でいっぱいだった。

3歳の時、家族に囲まれて写真に納まる川西さん(前列右から2番目)。(前列右から)祖母と祖父、継父、(後列右から)母、実父、叔父(川西さん提供) © 神戸新聞NEXT/神戸新聞社 3歳の時、家族に囲まれて写真に納まる川西さん(前列右から2番目)。(前列右から)祖母と祖父、継父、(後列右から)母、実父、叔父(川西さん提供)

 満州へ行けば大地主になれる-。そう信じ、1932年から約27万人が「満蒙(まんもう)開拓団」として海を渡った。岐阜県に生まれた川西さんの父もその1人。3歳で実父が亡くなり、母は父の弟と再婚した。岐阜からも空襲の炎が見えるようになった45年5月、父方の祖父と両親、妹の5人で満州へ。「家族が一緒にいられるのがうれしかった」

 東京城(とんきんじょう)の駅から、歩いて鏡泊(きょうはく)湖へ出ると、サクラソウが一面に広がった。コイに鹿肉など豊富な食料。終戦までの数カ月、満州の夏は天国だった。ところが8月、ソ連軍が満州に侵攻を始めると、生活は一変。ソ連兵や暴徒化した地元住民から逃れるため、集落全員で逃げだした。湖の向こうに白い月が見えた。

 野宿をしたり、国民学校の建物に身を潜めたり。途中、ソ連兵に男女別々にされ、飢えや寒さで亡くなる人も。母が「万一のためにね」と上着の裏側に3千円の札を縫い付けてくれた。当時、田んぼが1反買えるほどの大金だった。

 東京城へ戻ったものの、程なく母は病死。別の場所で祖父をみとった父と合流したが翌年、体調を崩した妹も息を引き取った。父が逝ったのはその翌日。「家族を守れなかった責任を感じ、青酸カリを飲んだのでは」。そう振り返る。

 つてをたどって地元住民の家で世話になった。「うちの子にならないか」と言ってくれる人もいた。「日本に家族がいる」。それを支えに帰る手段を探した。

 開拓団で看護師をしていた女性が一緒に日本へ渡ろうと誘ってくれた。母が残した3千円が役に立った。数カ月かけて葫蘆(ころ)島へ出て、船で博多港へ。厳しい祖父母が何度も手紙を書かせたおかげで、岐阜の住所はそらで言えた。46年秋、母方の祖父母の家にたどり着いた。

 学校に行っておらず、一つ下の学年に編入した。友だちは少なかった。「何で満州になんか行ったんかね」。「みんな死んでしまって」。同級生や近所の人の声に耳をふさいだ。

 一度だけ死にたい、と泣いた。「一族に一人は生き残ることになっている」。

おまえは選ばれたのだ、と諭す祖父の言葉に責任を感じた。それ以後、満州で目にしたものは心の奥深くにしまい込んだ。

 親戚の紹介で、20歳の時に結婚し神戸へ。夫も義理の親も引き揚げの経験を知っていたが、深く尋ねなかった。静かに気遣ってくれる人だった。

 「なぜみんな死ななければならなかったのか」。誰に話したわけでもないが、納得がいかなかった。歴史に関する本を数え切れないほど買いあさって読んだ。人間の欲深さが戦争の根底にあると思った。

 結婚後18年ほどして、夫が病気で他界。事務の仕事で息子2人を育てた。阪神・淡路大震災では兵庫区の自宅が全壊。全財産をつぎ込んで自宅を再建した。「理不尽な思いをしたけれど、皆に生かされてきて今日がある」。今も、家族の命日には手を合わせる。

 戦争を知らない世代が国を動かしていることに、戦前にも似た危うさを感じる。息子たちにもうまく伝え切れずもどかしい思いもある。「多くの犠牲をなかったことにはしたくない。経済成長や豊かさを追い求めた先に何があるのか。平和や命を当たり前と思わないで」。声を振り絞った。


戦友の遺体からコメを奪った。「地獄」を見た少年、73年の葛藤(BuzzFeeD japan 2018/08/15)~

2018年08月15日 | ネット・ニュースなど

戦友の遺体からコメを奪った。「地獄」を見た少年、73年の葛藤(BuzzFeeD japan 2018/08/15)~生きていることが勝ち組。極限状態では利己的でないと生存出来ない。戦争に突入した原因は、経済封鎖と思っている私。戦争は無益、そして損失・大。仮に戦争になったら、勝たないとならない。負けると死、或いは、強制労働。

1 米国との安保条約の強化方策

2 日本の軍備強化方策

3 日本との戦争は損失と思わせる方策

など…

現在、米国の核の傘に守られた日本。今後の北朝鮮の動向次第。

戦争とは、自分にとってなんだったのか。70余年にわたって、考え続けている人がいる。青春真っ盛りの19歳に徴兵に取られ、「終戦」の4日前に戦場に駆り出され、そして地獄を見た男性は言う。「戦争によって、自分の人生は変えられてしまった」【BuzzFeed Japan / 籏智広太】



「18歳で上京してきて1年間、青春を謳歌していましたよ」

そう、BuzzFeed Newsの取材に笑顔で話すのは、松本茂雄さん(93)だ。

1925(大正14)年、福島生まれ。当時のことを伺うと、懐かしそうに目を細め、こう語り始めた。

「ちょうど僕が小学生のころ、国会議事堂が落成して。ああいう建物をつくりたいと、建築家に憧れたこともあった。親戚に医者が多かったから、医者にもね」

「でも、あるとき父の知人の銀行役員に『経済でも学んだらどうだ』と言われて、ふと、銀行員もいいなと。それで、早稲田の政経を受けたんです」

松本さんは、旧制中学5年生で早稲田大の政治経済学部に合格。1943(昭和18)年に上京し、予備教育を受けるため第二早稲田高等学院に入学した。


終戦の2年前のことだ。

渋谷駅から歩いて10分ほどのところに下宿していた。宮益坂を通って駅まで行き、バスで早稲田まで行く。そんな日々だった。

「入学してすぐね、ある教師が集まった生徒に言ったんです。『君らは何をしにここにきたのか。あれを見ろ』と。ガラス窓の先にあったのが、日本女子大でね。『あそこに3年通うんだよ。そこで生涯の伴侶を見つけるんだ』と(笑)」

それゆえ、日本女子大のある目白台に向かう坂は、生徒たちの間で「3年坂」と呼ばれた。

松本さんもそんな「教え」に従って、放課後に女子大生に会いに行ったこともある。

 
負けるとは思っていなかった

デートは大体が喫茶店だった。

白いのれんをかけた店では、アイスコーヒーを売っていた。伊勢丹の屋上では、ハイカラだった「マカロニ」を食べたこともある。

学生服に早稲田のバッジをつけるのが誇らしかった。女子は「モンペ」ではなくワンピースやスカートをまとっていた。まだ、時代は「平時」だった。

「戦争を強く意識したことは、なかったね。映画館でやっていたニュース映像では勝った、勝ったとばかり流れて、負けるとも思っていなかった」

夏休みにはテントを買って、男友達と地元でキャンプをした。いまでいうアイドルたちが公演していた新宿の劇場「ムーランルージュ」にも通いつめた。

「ムーランのことはなんでも知っているという4人衆がクラスにいてね。そいつらを通さないと、なかなか簡単には行けなかった」

普通に遊んで、普通に勉強をして、そして就職する。そんな風に松本さんは思っていた。

しかし、灰色の時代はすぐそこまで、近づいていた。その年の10月には20歳以上の学生の徴兵猶予が解除された。いわゆる「学徒出陣」のはじまりだった。

 

強化された戦時体制、そして

1944(昭和20)年になると、国民を戦時に組み込む体制はより強化された。

2月25日に閣議決定された「決戦非常措置要綱」により、学徒動員の強化や旅行制限、休日削減、高級享楽の禁止などが決められた。

世の中の空気が、変わったように感じたという。「だんだんと、ガタガタになってきてね」

授業では、配属将校による軍事教練が始まった。小銃を持って「ヤッ」と突撃する訓練だ。

性には合わず、すぐに嫌になった。自動車部に入って免許を取れば単位が免除になると聞き、入部した。

学徒動員もはじまり、松本さんたちも広尾での建物疎開や、新子安にある昭和電工の工場に動員され、寝泊まりをしながら働いた。

 
姉が買ってくれた煙草のパイプ

ほかのクラスメートとは離れ、千葉県・印旛陸軍飛行場の建設作業にまわされた。

肉体労働に従事させられたわけではない。軍と建築業者、さらに朝鮮人労働者の間をつなぐような役割を任されたという。

「その頃から、空襲もひどくなってきました。B-29が頭の上を通るたび、その恐ろしさよりも……圧倒的な力に、参りましたね。いつか日本は負けるんだろうなという気がしていましたよ」

10月には、徴兵検査の年齢が20歳から19歳へと下げられた。実家から遊びに来た上の姉は言った。

「いつ軍に行くかわからないから、銀座に行こう」

ものがあまりなくなっていた松坂屋で買ってくれたのが、煙草の高級パイプだった。徴兵検査に「第三乙種」で合格したのは、そのすぐ後のことだった。

 
戦争から逃げることはできなかった

1945(昭和20)年2月。飛行場での作業に従事していた松本さんのもとに、入隊通知が届いた。「ハガキより少し小さいくらいの」大きさだった。

「ああ、ついに来たかと。戦争には行きたくはなかった。でも、逃げることもできなかった」

大学には休学届けを出し、下宿は引き払った。すぐに荷物をまとめて、実家に帰省した。

「地元のまちでは何十人もの人にね、歌で見送られたんです。『勝ってくるぞと勇ましく』で始まる曲の歌詞に、『死んで還れと励まされ』とあってね。みんなが歌っているのを聞いて、生きて帰れないのは当たり前のことなんだ、と思いましたね」

出征当日は、前夜に降り続いた大雪で、辺り一面が銀世界だった。

ホームに詰めかけた人々の万歳三唱に送り出された汽車は、すぐに雪でスリップし止まってしまった。

少しでも長く出征兵たちと話そうと、大勢の家族たちが客車に駆け寄った。上の姉もそのひとりだった。じっと、松本さんの目を見て言った。

「いいね、必ず生きて帰って来るのよ。きっと、これは、約束よ」



上官に破られた岩波新書

行き先は、海を越えた満州(いまの中国東北部)だった。

外部に漏らさないように言われていたが、せめて家族だけには伝えようと思った。

「ヨレヨレのつぎはぎだらけの軍服」に着替える際、憲兵を欺くためにトイレにかけこんだ。郷里に送り返す学生服の裏地をやぶり、ひそかに「満州に行きます」と書き記した。

「そこから3ヶ月みっちり訓練だった。つらかったですね。殴られることも多かった」

軍事教練を嫌に感じていた松本さんにとって、軍隊の空気は酷でしかなかった。朝から晩まで殴られ、突き飛ばされ、血だらけになったこともある。

大学の友人から手渡された本は、上官に見つかり、ビリビリに破られ捨てられた。

第一次世界大戦で戦死した学徒兵の手紙をまとめた『ドイツ戦没学生の手紙』という、岩波新書の本だった。

同年代の仲間たちがいたのが、せめてもの救いだった。迫撃砲部隊に配属されたが、重たい機材を運んで歩くときには、ともに助け合ったこともあったという。

「そうやって、戦友になっていくんですよ」

 
戦争は、終戦4日前にはじまった

そんな松本さんにとっての戦争は、1945年8月11日にはじまった。

終戦記念日の、たった4日前のこと。その一週間ほど前に、幹部候補生に合格したばかりだった。

相手は、日ソ中立条約を破棄して国境を破ってきたソ連軍だ。日本軍の10倍の規模だった。

初めての戦場だった。山に掘られた穴の中で、砲弾に撃針を入れ、砲撃手のもとに運ぶ役割を担っていた。何か葛藤はあったのか。

「ただただ、必死でしたね。勝つか負けるか、生きるか死ぬかなんて、そんなこと分からないですよ」

「いずれにしても、相手を殺さなければ、自分が殺されるのはわかっている。良い悪い、というよりも、その場では相手を殺して、恐怖から逃れるために、全力を挙げるしかない」

相手は大量の火力で、日本軍を圧倒した。陣地に乗り込んだ重戦車は、壕の上から兵士ごと押し潰した。


呼び出された「肉攻用員」

しかし、味方は対戦車砲は持ち合わせていなかった。軍曹が、松本さんら兵士たち呼び出し、言った。

「中隊ごとに5人の肉攻用員を出すことになった。誰か自分から志願する者はいないか」

爆弾を持って戦車に特攻するーー。顔を上げることができなかった。少しでも動けば目に留まり、選抜されるのではないかと、石のように固まった。

結局、5人が指名された。彼らの顔に張り付いていた周囲への蔑みと侮蔑が混じったような微笑みを、忘れることはできない。

日本軍は陣地を捨て、後退。「小豆山」と呼んでいた近くの山に逃げこんだ。弾薬は尽き、白兵戦をするしかなくなっていた。

「ソ連軍の砲撃が激しすぎて、木が全部焼けて禿山になってしまったんです。山全体がこげくさかったのを、よく覚えています。地元の人は“火焼山”と呼んだのです」

「道を一歩行けば、バラバラと機関銃で打たれる。非常に親しくしていた、同郷の戦友も道端で死んでいた。突撃していったり、自決したりした部隊もあった。でも、不思議なことにね。私たちには命令が何も降らなかったんです」

 
戦友の遺体から奪ったコメ

日本で玉音放送が流れた8月15日も、戦闘は終わっていなかった。

それでも、とにかく食糧を探さないといけない。いったんは避難し隠れていた松本さんは、遺体だらけの小豆山に戻った。

「真夏の太陽が照らし続けるでしょう。まだ3~4日も経っていないのに膨らんで。顔は紫色になって、耳や口、穴という穴が大きく緩んでしまうんですよ。そのポケットに手を突っ込んでね、コメなんかを探したんです」

ソ連兵の攻撃があった。湿地に飛び込んだ。周りの草は銃弾で吹き飛び、目の前で手榴弾が炸裂した。死を覚悟した。

「僕は、戦死した彼らに助けられたんですよ。射撃を受けているときは、ずっと遺体の間にいた。死んだふりをして、どうか守ってくださいと祈って、頼んでいた」

「プライドも見栄も、そんなものもみんな捨ててね。高校までに自分の体につけようとした、学んだことを全部なくして、捨て切っちゃったんだよ。あのときに」

コメを手に仲間のところに戻ると、誰もいなくなっていた。味方を探す道中、日本軍が世話になった現地の一家が、皆殺しにされていたのを見た。

6つの遺体の横では、彼岸花が咲いていた。


家族に届いた戦死公報

松本さんは、小豆山で戦死したことになっていた。「戦死公報」が家族の元に届いていたという。

しかし、実際は捕虜に取られ、シベリアの収容所に送られていた。

日本が負けたと知ったのは、その年の暮れのことだ。収容所で読んだ新聞で、はじめてその事実を知った。

極寒の地での収容生活は、厳しいものだった。工場や住宅の建設作業に当たらされたが、真冬には気温がマイナス50度まで下がる日もあったほどだ。

父にもらった腕時計はソ連兵に奪われた。姉からもらったパイプも、抑留中に足に踏まれ、壊れてしまった。

「日本と、家族とのつながりが、すべて途絶えてしまったんですよ」

 
飢餓状態の抑留生活

食べ物はパンとスープ。常に飢餓状態で、衛生環境はひどく、病気が蔓延した。

多くの戦友たちが、バタバタと倒れて行った。政府の記録によれば、約57万5千人が抑留され、約5万5千人が死亡したとされる。

そんな過酷な抑留を生き延びた松本さんが日本に戻ったのは、3年後の1948(昭和22)年のことだった。

京都の舞鶴港に船でたどり着き、汽車に乗った。乗り換えのための彦根の駅に迎えに来た下の姉から、上の姉が肺結核で死んでいたことを聞かされた。

「私は、幼い頃に母親を亡くしていたんですよ。だから、母代わりの姉だった。私が抑留中に送った手紙を読んだ、その数日後に亡くなったそうです。戦死していなかった、生きていたんだ、と喜んだまま。26歳でした」

 
もし、戦争がなければ……

早稲田大学に復学し、卒業後はトヨタに入社した。会社の上司は、自分と同い年だった。戦争に行っていない人間だった。

早稲田の同級生も、自分以外はみな、戦場に行っていなかった。“普通”に大学に進み、卒業し、そして各々の人生を歩んでいた。

しばらくは、戦場の夢にうなされることもあった。それでも仕事に邁進した。

「戦争がなければ、したいことはたくさんあった。だからといって、逃れているわけではありませんよ。あきらめることだって、できない。だって、それが私なんだから」

ただ、戦後になって、複雑な感情を抱くようになったこともある。当時の上層部が自分たちの部隊を「玉砕せしめる」と決めていたことを、知ったからだ。

「お国のために滅私奉公をして、自分は功労者であるとも感じている。かたや、あの亡くなった満州人からすれば、侵略者でもあった。一方で国に捨てられた、犠牲者でもある。罪悪感、屈辱感、そして敗北感がいまも拭えないんですよ」


自分に、何が起きたのか

90を超えるいまでも、自身の戦争体験を新聞に投稿したり、母校で講演したりしている。体験を本にもまとめ、出版もした。自分史も綴っている。

それはすべて、自分にあったことを整理し、再確認するための作業だ。

「はっきりしたいんですよね。自分や死んだ戦友たちに起きたことは、なんだったのか。戦争も抑留も含め、自分の人生だったのだから。変な言い方かもしれませんが、最近ようやく、納得できるようになってきた」

それでも。取材の最後、松本さんは、こうもつぶやいた。

「戦争によって、自分の人生は変えられてしまった。もうずっと、心から笑うことが、できていないんです」


台湾に初の慰安婦像 前総統「正式な賠償と謝罪」訴える(朝日新聞デジタル 2018/08/14)~

2018年08月15日 | ネット・ニュースなど

台湾に初の慰安婦像 前総統「正式な賠償と謝罪」訴える(朝日新聞デジタル 2018/08/14)~朝日新聞の慰安婦ねつ造報道で、日本人は心情的な被害。軍の関与はなかった。慰安婦生活で高給な生活、いまさら保障とか、異常、勘弁してほしい。共産中国のスパイの活動、情報戦略。朝日新聞デジタルが協力しているね。

 旧日本軍の慰安婦だった韓国人女性が1991年に初めて実名で体験を公表した日にあたる14日、台湾南部の台南市に台湾で初めての慰安婦像が設置された。野党国民党の前総統の馬英九(マーインチウ)氏が除幕式に参列し、日本政府に対し、「正式な賠償と謝罪」を訴えた。

 台南市の繁華街に設置された像は、高さ約160センチの少女像。両手を上げて抵抗する姿をかたどっている。国民党の支援を受けて今春結成された団体「台南市慰安婦人権平等促進協会」が、寄付を呼びかけた。中国語と日本語、英語、ハングルで「慰安婦の悲惨な歴史を忘れず、彼女たちに尊敬と支持の意を示す」などと記した解説板を掲げている。

 国民党の地元支部が土地を提供した。式典には、今秋の統一地方選挙で台南市長選に立候補する国民党の候補予定者も参列した。馬氏は式典で、現在の与党民進党政権は、慰安婦問題など日本統治時代の歴史の検証に消極的だと批判。選挙を意識して有権者にアピールする狙いもあるとみられる。

 第2次大戦中、日本の植民地統治下にあった台湾の女性たちも慰安婦として動員された。台湾の人権団体が20年以上前に行った調査で、当時58人の生存者が確認された。高齢化が進んだ結果、現在は2人のみとなっている。

 台北市内でも14日、元慰安婦を支援してきた女性人権団体などが、日本の大使館に相当する日本台湾交流協会の台北事務所を訪れ、謝罪や賠償を求める抗議文書を提出した。(台南=西本秀)


終戦の日、平成最後の追悼式 首相が不戦の決意表明(朝日新聞デジタル 2018/08/15)~

2018年08月15日 | ネット・ニュースなど

終戦の日、平成最後の追悼式 首相が不戦の決意表明(朝日新聞デジタル 2018/08/15)~朝日新聞は、追悼式の記事に、必ず反安倍政権の記載をする。読む方はとしては、必要ないけどね。情報操作、印象操作が多い。共産中国の情報機関と思えば当然の記載だろうけど。武田邦彦教授に洗脳された私。

 式典は正午前に始まった。安倍晋三首相は式辞で「戦争の惨禍を、二度と繰り返さない」と述べ、戦後70年だった2015年から4年続けて同様の表現を使い、不戦の決意を表明した。

 1993年の細川護熙氏以降、歴代首相は式辞でアジア諸国への加害責任に触れ、「深い反省」や「哀悼の意」などを表明してきたが、安倍首相は第2次政権発足後、6年連続で加害責任に言及しなかった。

 正午から参列者全員で黙禱(もくとう)した後、天皇陛下が「おことば」を述べた。おことばでは「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」という表現を盛り込み、「戦争の惨禍が再び繰り返されぬこと」を切に願うとした。

 全国の遺族を代表し、追悼の辞を述べるのは宮城県石巻市の鈴木喜美男さん(75)。父親の喜代治(きよじ)さんが北マリアナ諸島のテニアン島で戦死した。参列する遺族の最高齢は東京都練馬区の芹ケ野(せりがの)春海さん(102)で、最年少は2歳。

 参列する遺族は平成の30年間で世代交代が進んだ。平成元年(1989年)の参列予定遺族は、戦没者の妻が3269人で48%と最多、次いできょうだいが2251人で33%だった。


終戦の日、平成最後の追悼式 遺族5500人が参列(朝日新聞デジタル 2018/08/15)~

2018年08月15日 | ネット・ニュースなど

終戦の日、平成最後の追悼式 遺族5500人が参列(朝日新聞デジタル 2018/08/15)~この記事の意図は、追悼式の報道の体裁を整いながら、天皇、安倍政権のへの批判をちりばめている。朝日新聞は、情報操作会社。米国の政治家の補佐官が共産中国のスパイと判明した事実から、朝日新聞の記者は、共産中国のスパイの疑惑。今までは、部数のためと理解していた。違っていた。反日姿勢の理由は、共産中国の影響下、というより情報部門と思えば納得。私は、準高齢者で死が近い。どうでもいいけどね。

 

 73回目の終戦の日となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれた。全国から約5500人の遺族が集まり、約310万人に上る戦没者を悼む。天皇陛下は来年4月末に退位を控えており、平成最後の追悼式となる。

 式典は正午前に始まり、安倍晋三首相が式辞を述べる。1993年の細川護熙氏以降の歴代首相は、式辞で「深い反省」や「哀悼の意」などの表現を使い、アジア諸国に対する加害責任に言及してきた。第2次政権となって以降、安倍首相は昨年まで5年連続で触れていない。一方で、戦後70年だった15年から3年続けて「戦争の惨禍を二度と繰り返してはならない」などの表現で、不戦の決意を強調している。

 正午ちょうどに参列者全員で黙禱(もくとう)を捧げ、その後今回が最後の臨席となる天皇陛下が「おことば」を述べる。天皇陛下は昨年まで3年続けて「深い反省」との表現を使い、「戦争の惨禍が再び繰り返されないこと」を切に願うと述べた。

 全国の遺族を代表し、追悼の辞を述べるのは宮城県石巻市の鈴木喜美男さん(75)。父親の喜代治(きよじ)さんが北マリアナ諸島のテニアン島で戦死した。参列する遺族の最高齢は東京都練馬区の芹ケ野(せりがの)春海さん(102)で、最年少は2歳。

 参列する遺族は平成の30年間で世代交代が進んだ。平成元年(1989年)の参列予定遺族は、戦没者の妻が3269人で48%と最多、次いできょうだいが2251人で33%だった。

 今回は参列予定者5455人のうち、妻は13人で0・2%、きょうだいは361人で7%。最多は子の2864人で53%を占める。孫、ひ孫があわせて598人で11%と、初めて10%を超えた。(佐藤啓介)


核廃絶署名10万8476筆に 28日、国連へ提出(長崎新聞社 2018/08/14)~

2018年08月15日 | ネット・ニュースなど

核廃絶署名10万8476筆に 28日、国連へ提出(長崎新聞社 2018/08/14)~日本の人口は、1憶2000万人。1200万人でもなく、120万人でもなく、12万人にも届かなかった。0.1パーセント弱。たった11万人弱の署名。

北朝鮮の脅威の前に、米国の核が日本を保護してくれた。私は、核兵器の有効性を認識した。ほとんどの日本人は核兵器の力を認識したと思う。署名が少なすぎる。みんな現在のところ核兵器を容認している。日米安保条約を容認している。多分、沖縄県民は、反対かも。私は、沖縄が共産中国に実効支配されても同情しない。沖縄県民の選択。

 高校生1万人署名活動実行委員会は12日、この1年で集めた核兵器廃絶を訴える署名数は10万8476筆だったと発表した。第21代高校生平和大使の20人が28日、スイス・ジュネーブの国連欧州本部に提出する。

 署名活動は2001年に始まり、累計178万5688筆となった。今回は県内約50人を含む全国約300人が活動。過去最多だった前回の21万4300筆から半減したが、前回は高校生平和大使の20年目の節目で特に活動が活発だったことの反動や天候などが影響した可能性があるという。

 12日に長崎市で署名数の発表会があり、実行委メンバーら約30人が参加。署名を託された本県の高校生平和大使、山西咲和(さわ)さん(17)=県立諫早高2年=と徳永雛子(ひなこ)さん(16)=県立長崎西高2年=は「頑張ってきます」と意気込んだ。

 今回で活動を終える実行委の3年生たちがそれぞれあいさつし、高校生平和大使が今年のノーベル平和賞候補となったことへの喜びなどを語った。活水高3年の中村涼香(すずか)さん(18)は後輩たちに「世界を変えていけるように皆さんの力を発揮してほしい」とエールを送った。