「風流無談」第5回 琉球新報2007年10月6日付朝刊掲載
大学を卒業して間もない頃だから、もう二十年以上前になる。今帰仁村の運天港で半年間荷揚げ作業のアルバイトをやった。貨物船の船倉に降りて肥料や飼料などを板木に積んだり、トラックに乗せるために岸壁で積み換え作業をするのだが、炎天下の作業はなかなかのきつさだった。ふだん一緒に作業しているのは六名で、それで生活をしている人もいれば、漁の合間に作業に加わるウミンチュもいた。二十代は私ひとり。あとは四十代から七十代の人たちだった。
作業の合間や終わってからの酒の場で、年輩の人たちの話を聴くのが楽しみだった。小禄で米軍の捕虜になりハワイの収容所に入れられたAさん。関東軍にいて中国大陸でソ連軍の捕虜になりシベリアに抑留されたUさん。沖縄の苗字に難癖をつけて殴る古年兵に怒りを漏らしていたMさん。戦争体験ではないが、米軍の現金輸送車を襲撃してピストルで撃ち合いをやったと話していたSさん。
かくじ(顎)ぬ運動さーやー、といって廃鶏を買ってきて焼き鳥にし、船着き場のコンクリートに座って固い鶏肉を食べ、泡盛を飲みながら話していた人たちの姿が目に浮かぶ。そうやって聴いた沖縄戦の話は、今もはっきりと記憶に残っている。そしてふだん意識はしていなくても、私が物事を考えるときに何らかの影響を与えているだろう。
九月二十九日の県民大会には、宮古・八重山を含めて十一万六千人の人が集まった。自らの意思で足を運んだ一人ひとりが、沖縄戦についてそれぞれの思いを抱き参加したことだろう。六十二年たっても、沖縄戦の体験が沖縄人にとってこれだけの強い影響力を持ち続けているのか、と会場の隅で思った。
同時に、人で埋め尽くされた会場を眺めながら、十二年前の県民大会のことがしきりに思い浮かんだ。一九九五年の十月二十一日、同じ宜野湾市海浜公園に八万五千人が集まった。あの時は三名の米兵による暴力が糾弾され、米軍基地の「整理縮小」が掲げられた。十二年の時をへだてて行われた二つの大きな集会が、米軍基地と沖縄戦を焦点にしていること。その意味を考えさせられる。
戦後六十二年にもなるのに基地問題に振りまわされ、沖縄戦の記憶がくり返し呼び起こされる状況から抜け出せない沖縄。そういう状況を生み出している沖縄と日本(本土)との関係こそが問い返されなければならない。
今回の大会で十一万六千人と前回以上の人数が集まったことを評価する声が多い。しかし、見方を変えればそれは、この十二年の間に沖縄の状況がそれだけ悪くなり、日本政府の高圧的な姿勢が強まっていることの表れではないのか。
米軍再編論議のなかで沖縄の「負担軽減」が言われながら、実際には基地の機能強化が進んでいるとしか思えない。米軍だけではない。自衛隊の強化も進んでいる。沖縄が米軍だけでなく自衛隊の拠点にもなろうとしているからこそ、日本軍への否定感を作り出す「集団自決」の軍による強制という史実を消そうという動きも生まれている。
小泉内閣から安倍内閣へといたる過程で、日本政府の沖縄に対する姿勢は、辺野古や高江への基地建設強行に見られるような政治・軍事面だけでなく、沖縄戦の記憶や歴史認識といった領域にまで踏みこむほど無神経かつ居丈高になっていたのだ。
その安倍内閣は張り子のタカとしか言いようのない惨めな姿をさらして自己崩壊した。福田内閣に代わったことによって事態が好転するという見方もあるが、問題は政府に対する沖縄側の交渉力だ。
これまで沖縄は重要な局面で政府との交渉力の弱さをさらしてきた。大衆的な運動が盛り上がっても、その後の事務的な交渉になると詰めの甘さを露呈してしまい、いつの間にか政府側に主導権を奪われ、うっちゃりを喰らわされてしまう。十二年前もそうだった。10・21県民大会のあと、普天間基地の「県内移設」という安易な選択をしたが故に今どうなっているか。問題は何一つ解決していないばかりか、名護市民をはじめ多くの人が、いまだに基地問題で苦しみを強いられている。
私たちは同じ過ちをくり返してはならない。今回の教科書検定問題でも、安易な妥協を行えば、いずれほとぼりがおさまった頃に、また同じ問題が起こるだろう。これから沖縄の代表たちの交渉力が問われるし、代表を後押しする県民の持続的な運動が必要となる。
県民大会後の対応の早さを見れば、政府は事前に沖縄の動向について情報を収集し、対応を詰めていたのが分かる。すでにいくつかの選択肢が用意されていて、県民の反応を見ながら落としどころを探っているだろう。
検定意見の撤回と記述の復活という大会決議を貫くと同時に、検定に関する情報公開や沖縄戦研究者の参加、沖縄条項の確立など、同じことがくり返されない仕組みを作ることが重要である。
大学を卒業して間もない頃だから、もう二十年以上前になる。今帰仁村の運天港で半年間荷揚げ作業のアルバイトをやった。貨物船の船倉に降りて肥料や飼料などを板木に積んだり、トラックに乗せるために岸壁で積み換え作業をするのだが、炎天下の作業はなかなかのきつさだった。ふだん一緒に作業しているのは六名で、それで生活をしている人もいれば、漁の合間に作業に加わるウミンチュもいた。二十代は私ひとり。あとは四十代から七十代の人たちだった。
作業の合間や終わってからの酒の場で、年輩の人たちの話を聴くのが楽しみだった。小禄で米軍の捕虜になりハワイの収容所に入れられたAさん。関東軍にいて中国大陸でソ連軍の捕虜になりシベリアに抑留されたUさん。沖縄の苗字に難癖をつけて殴る古年兵に怒りを漏らしていたMさん。戦争体験ではないが、米軍の現金輸送車を襲撃してピストルで撃ち合いをやったと話していたSさん。
かくじ(顎)ぬ運動さーやー、といって廃鶏を買ってきて焼き鳥にし、船着き場のコンクリートに座って固い鶏肉を食べ、泡盛を飲みながら話していた人たちの姿が目に浮かぶ。そうやって聴いた沖縄戦の話は、今もはっきりと記憶に残っている。そしてふだん意識はしていなくても、私が物事を考えるときに何らかの影響を与えているだろう。
九月二十九日の県民大会には、宮古・八重山を含めて十一万六千人の人が集まった。自らの意思で足を運んだ一人ひとりが、沖縄戦についてそれぞれの思いを抱き参加したことだろう。六十二年たっても、沖縄戦の体験が沖縄人にとってこれだけの強い影響力を持ち続けているのか、と会場の隅で思った。
同時に、人で埋め尽くされた会場を眺めながら、十二年前の県民大会のことがしきりに思い浮かんだ。一九九五年の十月二十一日、同じ宜野湾市海浜公園に八万五千人が集まった。あの時は三名の米兵による暴力が糾弾され、米軍基地の「整理縮小」が掲げられた。十二年の時をへだてて行われた二つの大きな集会が、米軍基地と沖縄戦を焦点にしていること。その意味を考えさせられる。
戦後六十二年にもなるのに基地問題に振りまわされ、沖縄戦の記憶がくり返し呼び起こされる状況から抜け出せない沖縄。そういう状況を生み出している沖縄と日本(本土)との関係こそが問い返されなければならない。
今回の大会で十一万六千人と前回以上の人数が集まったことを評価する声が多い。しかし、見方を変えればそれは、この十二年の間に沖縄の状況がそれだけ悪くなり、日本政府の高圧的な姿勢が強まっていることの表れではないのか。
米軍再編論議のなかで沖縄の「負担軽減」が言われながら、実際には基地の機能強化が進んでいるとしか思えない。米軍だけではない。自衛隊の強化も進んでいる。沖縄が米軍だけでなく自衛隊の拠点にもなろうとしているからこそ、日本軍への否定感を作り出す「集団自決」の軍による強制という史実を消そうという動きも生まれている。
小泉内閣から安倍内閣へといたる過程で、日本政府の沖縄に対する姿勢は、辺野古や高江への基地建設強行に見られるような政治・軍事面だけでなく、沖縄戦の記憶や歴史認識といった領域にまで踏みこむほど無神経かつ居丈高になっていたのだ。
その安倍内閣は張り子のタカとしか言いようのない惨めな姿をさらして自己崩壊した。福田内閣に代わったことによって事態が好転するという見方もあるが、問題は政府に対する沖縄側の交渉力だ。
これまで沖縄は重要な局面で政府との交渉力の弱さをさらしてきた。大衆的な運動が盛り上がっても、その後の事務的な交渉になると詰めの甘さを露呈してしまい、いつの間にか政府側に主導権を奪われ、うっちゃりを喰らわされてしまう。十二年前もそうだった。10・21県民大会のあと、普天間基地の「県内移設」という安易な選択をしたが故に今どうなっているか。問題は何一つ解決していないばかりか、名護市民をはじめ多くの人が、いまだに基地問題で苦しみを強いられている。
私たちは同じ過ちをくり返してはならない。今回の教科書検定問題でも、安易な妥協を行えば、いずれほとぼりがおさまった頃に、また同じ問題が起こるだろう。これから沖縄の代表たちの交渉力が問われるし、代表を後押しする県民の持続的な運動が必要となる。
県民大会後の対応の早さを見れば、政府は事前に沖縄の動向について情報を収集し、対応を詰めていたのが分かる。すでにいくつかの選択肢が用意されていて、県民の反応を見ながら落としどころを探っているだろう。
検定意見の撤回と記述の復活という大会決議を貫くと同時に、検定に関する情報公開や沖縄戦研究者の参加、沖縄条項の確立など、同じことがくり返されない仕組みを作ることが重要である。