海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

沖縄戦から74年 雨の慰霊の日

2019-06-23 21:10:38 | 小説

 23日は本部町の八重岳にある三中学徒之碑を訪ね、おにぎりやお菓子、泡盛とお茶を供えて、手を合わせてきた。もうこの場所では慰霊祭が開かれなくなったが、戦場となった真部山を前にした碑には、遺族の皆さんが今でも訪れて慰霊を行っている。

 晴れた日には海の向こうに伊江島が望めるのだが、この日は雨で煙っていて、真部山の森を雨と霧が流れていた。74年前の4月に父もこの森にいて、戦闘に参加したあと、仲間とともに多野岳まで逃げ延びた。

 三中学徒之碑から頂上に向かってしばらく行くと、国頭支隊本部壕跡と野戦病院壕跡がある。4月に来たときは草が茂り、倒木で荒れていたが、慰霊の日に合わせて草刈りが行われていた。先に遺族の方が来ていて、森の奥に手を合わせていた。

 連日の雨でふだんは枯れている谷川にせせらぎが聞こえていた。国頭支隊が多野岳に敗走していく際、歩けない重症患者たちは手榴弾を渡され、この地で自ら命を絶っていった。勝ち目のない戦場に動員され、下っ端の兵士たちは最後は見捨てられたのだ。

 これが皇軍=天皇の軍隊の末路であり、そうやって死んでいった兵士たちに、昭和天皇や平成天皇が謝罪の言葉を口にしたことがあっただろうか。鉄血勤皇隊の一員として戦った父は、自らは自決せずに生き延びた昭和天皇に怒りを露わにしていた。

 昼食をとったあと、名護小学校の校庭の高台にある少年護郷隊之碑で開かれている慰霊祭に参加した。高齢となった元護郷隊員と遺族によって、今も慰霊祭が続けられている。今帰仁や名護、本部をはじめヤンバルの少年たちが戦場に駆り出され、死んでいった。

 遺族の一人が子供の頃、家に訪ねてきた村上隊長に母親が「ぬーんりち、ぃやーが生きとーが、死にくゎらんぐとぅ」と言っていたという話が強烈だった。子どもを奪われた母親の怒りは、いっさいの美談化、きれいごとを許さないはずだ。

 兄の名前が刻まれた刻銘版に泡盛をかける今帰仁の女性。

 最後にナングスクにある和魂の碑に行き、酒やお茶、お菓子を供えて手を合わせた。球七〇七一部隊の慰霊碑で、沖縄と鹿児島、宮崎、大分、熊本の元兵士たちが建てた碑である。ここでの慰霊祭は戦後60年の年に終わっていて、訪ねる人は少ないが、今年は立派な花束が供えられていた。

 ニイニイゼミの声が静かに森に流れていた。

 

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