沖縄は18日から梅雨に入っている。今日(20日)も朝から雨で、名護では時折激しく降っていたが、夕方になって雲の切れ間から日が差してきた。
64年前のこの時期は、現在の那覇市の新都心一帯で日米両軍の激しい戦闘が行われていた。慶良間チージ(シュガー・ローフ)をめぐる攻防戦では、米軍も甚大な被害を受けていた。米国陸軍省編・外間正四郎訳『沖縄 日米最後の戦闘』(光人社NF文庫)にはこう記されている。
〈翌五月十九日、第四海兵連隊は、疲れきった第二九海兵連隊と交替した。
シュガー・ローフの攻撃は、そして、その占領から確保までに至る十日間の戦闘で、第六海兵師団は、実に二千六百六十二人の戦死傷者を出し、千二百八十九人の戦闘疲労症者を出していた。
海兵隊の第二二連隊および第二九連隊では、三大隊とも大隊長を失い、十一個中隊がいずれも中隊長を死傷させた。
五月二十日、第四海兵連隊はタカムイ、神田川ムイ付近の占領区域を拡張していったが、まだクレセントの峰に達することはできなかった、この日、大隊兵力の日本軍が反撃してきた。だが、これも砲兵第六個大隊と、海兵隊の共同作戦による砲火のもとに撃退された。
第四海兵連隊では、やむなくその一部が連隊の予備軍に編入されていたとはいえ、この日本軍一大隊の攻撃によくたえて、相手に二百人の損害を与えて撃退したのである。
五月二十一日、第四海兵連隊は安里川の線にそって攻撃をつづけていった。彼らは安里タカムイや神田川ムイのほうに、二百五十メートルほど前進したが、首里の高地から撃ち込んでくる日本軍の猛烈な砲火や迫撃砲弾を浴びて、クレセントを完全に占領することは不可能であった。
第六海兵師団のつぎの進撃は、第一海兵師団が苦戦をつづけている首里方面のこれらの高地をめぐって、展開されるすさまじい戦闘の結果いかんにかかっていたのである〉(351~352ページ)。
戦闘疲労症者とは、精神に異常をきたした者である。引用文の最後に出てくる第一海兵師団第五連隊第三大隊K中隊の一員として、ペリリューと沖縄の戦いに参加したユージン・B・スレッジ/伊藤真・曽田和子訳『ペリリュー・沖縄戦記』(講談社学術文庫)は当時のシュガー・ローフ周辺の状況を、こう書きとどめている。
〈この行軍のことはまざまざと記憶に残っている。それまで経験したこともない、最悪の戦場に突入したのだから。われわれはそこで一週間以上も釘づけになった。あの戦闘を思い出すと、今でも体が震え出す。
武器と装具をかついだわれわれは、縦列隊形でぬかるんだ谷間を回り道し、足をとられながら荒れた丘の斜面を進んでいった。敵に見つかって攻撃されるのを避けるためだ。雨は断続的に続いていた。先に進むにつれて、ぬかるみはひどくなった。目的地が近くなると、日本兵の死体が目立ちはじめた。五月一日以降の戦死者が、ほとんどの場所でそのまま放置され散乱していた。
それまで死体のそばに壕を掘るときは、状況の許すかぎり、死体の上に土をかけるのが常だった。気休め程度でも悪臭を断ち、たかるハエを追い払うためだが、この戦場ではそれもできなかった。シュガーローフ・ヒルとその周辺では凄絶な攻防が一〇日間も続き、日本軍の大砲や迫撃砲の攻撃も絶え間なかったため、敵の死体を埋めることは不可能だったのだ。
それどころか、海兵隊員の遺体を動かすことさえままならないことに、われわれはまもなく気づかされた。息絶えた味方がそのまま倒れている。これは古参兵でも見慣れない光景だった。仲間の遺体は多少の危険を冒してでも前線から運び出し、ポンチョをかけて、それから戦死者登録のスタッフに回収してもらう、というのが海兵隊の確固たる伝統だった。しかしわれわれが踏み込んだこの戦地では、多くの死者を放置せざるを得なかった。激烈な死闘を経てシュガーローフ・ヒルが陥落したあとも、その事情は変わらなかった。
雨は五月二一日に降りはじめたが、これは第六海兵師団がシュガーローフ・ヒルを占領確保するのとほぼ同時だった。深い泥のせいで、五体満足な兵士も思ったように動けず、負傷者の救出や必要な弾薬と糧食の運搬に四苦八苦するありさまだった。残念ながら、死んだ人間は後回しにするほかなかった〉(373~374ページ)。
今、那覇の市街地に立って沖縄戦当時の状況を想像することは難しい。わずかに残された戦跡も開発によって次々と消えていっている。しかし、沖縄戦の記録を読むと、そこで起こったことがよみがえってくる。ユージン・B・スレッジの本は昨年の8月に出た直後に読み、強く印象に残った。NHK沖縄が戦跡を歩くというシリーズを放映しているが、戦争遺跡の保存と記録の収集、体験者から話を聞き、記録を読み、当時の状況を想像する努力を続けたい。
64年前のこの時期は、現在の那覇市の新都心一帯で日米両軍の激しい戦闘が行われていた。慶良間チージ(シュガー・ローフ)をめぐる攻防戦では、米軍も甚大な被害を受けていた。米国陸軍省編・外間正四郎訳『沖縄 日米最後の戦闘』(光人社NF文庫)にはこう記されている。
〈翌五月十九日、第四海兵連隊は、疲れきった第二九海兵連隊と交替した。
シュガー・ローフの攻撃は、そして、その占領から確保までに至る十日間の戦闘で、第六海兵師団は、実に二千六百六十二人の戦死傷者を出し、千二百八十九人の戦闘疲労症者を出していた。
海兵隊の第二二連隊および第二九連隊では、三大隊とも大隊長を失い、十一個中隊がいずれも中隊長を死傷させた。
五月二十日、第四海兵連隊はタカムイ、神田川ムイ付近の占領区域を拡張していったが、まだクレセントの峰に達することはできなかった、この日、大隊兵力の日本軍が反撃してきた。だが、これも砲兵第六個大隊と、海兵隊の共同作戦による砲火のもとに撃退された。
第四海兵連隊では、やむなくその一部が連隊の予備軍に編入されていたとはいえ、この日本軍一大隊の攻撃によくたえて、相手に二百人の損害を与えて撃退したのである。
五月二十一日、第四海兵連隊は安里川の線にそって攻撃をつづけていった。彼らは安里タカムイや神田川ムイのほうに、二百五十メートルほど前進したが、首里の高地から撃ち込んでくる日本軍の猛烈な砲火や迫撃砲弾を浴びて、クレセントを完全に占領することは不可能であった。
第六海兵師団のつぎの進撃は、第一海兵師団が苦戦をつづけている首里方面のこれらの高地をめぐって、展開されるすさまじい戦闘の結果いかんにかかっていたのである〉(351~352ページ)。
戦闘疲労症者とは、精神に異常をきたした者である。引用文の最後に出てくる第一海兵師団第五連隊第三大隊K中隊の一員として、ペリリューと沖縄の戦いに参加したユージン・B・スレッジ/伊藤真・曽田和子訳『ペリリュー・沖縄戦記』(講談社学術文庫)は当時のシュガー・ローフ周辺の状況を、こう書きとどめている。
〈この行軍のことはまざまざと記憶に残っている。それまで経験したこともない、最悪の戦場に突入したのだから。われわれはそこで一週間以上も釘づけになった。あの戦闘を思い出すと、今でも体が震え出す。
武器と装具をかついだわれわれは、縦列隊形でぬかるんだ谷間を回り道し、足をとられながら荒れた丘の斜面を進んでいった。敵に見つかって攻撃されるのを避けるためだ。雨は断続的に続いていた。先に進むにつれて、ぬかるみはひどくなった。目的地が近くなると、日本兵の死体が目立ちはじめた。五月一日以降の戦死者が、ほとんどの場所でそのまま放置され散乱していた。
それまで死体のそばに壕を掘るときは、状況の許すかぎり、死体の上に土をかけるのが常だった。気休め程度でも悪臭を断ち、たかるハエを追い払うためだが、この戦場ではそれもできなかった。シュガーローフ・ヒルとその周辺では凄絶な攻防が一〇日間も続き、日本軍の大砲や迫撃砲の攻撃も絶え間なかったため、敵の死体を埋めることは不可能だったのだ。
それどころか、海兵隊員の遺体を動かすことさえままならないことに、われわれはまもなく気づかされた。息絶えた味方がそのまま倒れている。これは古参兵でも見慣れない光景だった。仲間の遺体は多少の危険を冒してでも前線から運び出し、ポンチョをかけて、それから戦死者登録のスタッフに回収してもらう、というのが海兵隊の確固たる伝統だった。しかしわれわれが踏み込んだこの戦地では、多くの死者を放置せざるを得なかった。激烈な死闘を経てシュガーローフ・ヒルが陥落したあとも、その事情は変わらなかった。
雨は五月二一日に降りはじめたが、これは第六海兵師団がシュガーローフ・ヒルを占領確保するのとほぼ同時だった。深い泥のせいで、五体満足な兵士も思ったように動けず、負傷者の救出や必要な弾薬と糧食の運搬に四苦八苦するありさまだった。残念ながら、死んだ人間は後回しにするほかなかった〉(373~374ページ)。
今、那覇の市街地に立って沖縄戦当時の状況を想像することは難しい。わずかに残された戦跡も開発によって次々と消えていっている。しかし、沖縄戦の記録を読むと、そこで起こったことがよみがえってくる。ユージン・B・スレッジの本は昨年の8月に出た直後に読み、強く印象に残った。NHK沖縄が戦跡を歩くというシリーズを放映しているが、戦争遺跡の保存と記録の収集、体験者から話を聞き、記録を読み、当時の状況を想像する努力を続けたい。
日本側の元兵士に聞き取りをしようとしたが、困難だった。どんな戦闘状況だったのですか?という質問にやっと一言「イイ兵隊は死んだ兵隊だ!」と答えがあった。生き残った自分に一切語る資格はないとの態度だった。
なんとかホテルの交歓会までついて行ったとき、沖縄の60歳ぐらいのご婦人が2名、その戦友会に招待されていた。聞けば、生き残った元兵士の方から寄せ書きされた「日の丸」を預かって戦場を逃げまどっていた方とのことだった。米軍の捕虜となっても「日の丸」を米兵の戦争記念品として食料等と交換せず保管しつづけ、戦後寄せ書きの名前から持ち主へ返還されたとのこと。
兵隊さんからの大事な大事な預かり物としての「日の丸」とともに戦場を逃げまどっていた少女達の沖縄戦があったのだ。
たかが一枚の旗でしかない「日の丸」の旗。
しかし、このシンボルが語り出す物語に、あらためて恐ろしさを実感した日だった。
今はこちらの方が沖縄でも入手しやすいかもしれません。
ペリリュー、沖縄という米軍にとっても過酷な戦場の最前線で戦った兵士の記録として、貴重な手記だと思います。
沖縄島に上陸した米兵だけでも18万人ほどいるのですから、沖縄・日本でまだ知られていないだけで、元米兵による沖縄戦の手記は、かなりの数があるのではないでしょうか。
それらがもっと訳出されてほしいものです。
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/masatosi/showdown1.html
しかし、どういう訳か、上原氏はこの一元兵士の著述を基にして、脈絡のない「集団自決」の軍命否定論、沖縄のマスコミ批判論を注釈で展開してます。11日に刊行された「うらそえ文藝」でも、「ある神話の背景」の内容を全面肯定するような、大江・岩波裁判の判決を否定するような論考を発表しています
どこで購入したのか?、すっかりわすれていました。市役所や図書館、学校の先生方などの市民のボランティアで翻訳され出版されたものです。ナンバー6ですからその前後の巻も発刊されているものなのでしょう。
沖縄戦を語り継ぐ事。
戦さ世を許さないために、様々な方々の努力・仕事に学び、京都からもこだまを返せるよう微力でもがんばりたいと思います。
〈赤松大尉は、大城徳安、米軍の庇護から戻った二少年、伊江島の住民6名を正規の手続きを踏むことすらなく、各処刑したことに関与し、住民に対する加害行為を行っているのであって、こうした人物を立派な人だった、村の人で赤松大尉を悪く言うものはいないなどと評価することが正当であるかには疑問がある〉(二審判決文225ページ)。
至極まっとうな疑問であり、評価でしょう。
虐殺された住民の遺族からすれば、故赤松隊長が「いい人」だなんてとんでもないでしょう。
米兵の目撃談は貴重な証言だと思います。
もしよろしければ見てやってください。
沖縄の人たちだと国吉勇さんや具志堅さんらガマフヤーが遺骨収集をされています。
記録する人たちの重要性も再認識していただけると幸いです。
沖縄戦跡巡りの旅
http://sugiyannma.ti-da.net/