海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

「地を這う声のために」第5回 前半

2023-08-20 19:10:32 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争

 以下に紹介する文章は、『越境広場』11号(2022年11月20日発行)に掲載されたエッセー「地を這う声のために」の第5回である。

 6月23日の沖縄戦慰霊の日は例年、本部町の八重岳にある「三中学徒之碑」や第44旅団国頭支隊の本部壕・野戦病院跡に行き、酒やお茶、お菓子などを供えて線香をあげている。そのあと名護市内の「少年護郷隊之碑」の前で行われる慰霊祭に参加し、最後に名護岳にある「和魂の碑」を訪ねて手を合わせることをこの十数年くり返してきた。

 数年おきに南部の慰霊祭の様子を見ることにしているが、2014年の6月23日は糸満市摩文仁の平和祈念公園で行われた沖縄県主催「全戦没者追悼式」に参加した。同年8月に名護市辺野古の海域にフロートが設置され、海底ボーリング調査の準備が始まった。キャンプ・シュワブのゲート前では、資材搬入を警戒し、阻止するため7月から抗議行動が取り組まれ、夜間も警戒態勢がとられた。安倍首相の来沖は、辺野古新基地建設が始まる直前のことだった。※1

 安倍首相への抗議と現場の状況を確認することを目的の一つとして、その年は摩文仁に向かったのだった。平和祈念公園は厳戒態勢が敷かれ、追悼式の会場に入るには金属探知機をくぐり、手荷物検査を受けなければならなかった。会場の中でカメラを取り出そうとカバンに手を入れると、近くに立っている安倍首相のSPがカバンを注視し、カメラを確認するまで目を離さなかった。

 新基地建設を強行しようとする安倍政権への沖縄の反発の強さは、安倍首相自身がよく分かっていたはずだ。黒塗りの専用車でやってくる安倍首相の車列に対し、平和祈念公園の入り口では抗議行動が取り組まれた。追悼式のさなかには挨拶する安倍首相に批判のヤジが飛んだ。会場周辺で見守る市民の中からも怒声が飛び、警察官に連れ去られる若者が二人いた。

 当日、私の目を引いたのは、追悼式終了後の安倍首相の動きだった。会場から出てきた安倍首相は、そのまま車に乗り込むのかと思いきや、会場周辺にいた市民と握手しながら徒歩で移動を始めた。後を追うと、安倍首相が向かったのは「島守の塔」だった。塔に向かって手を合わせ、戻ってきた安倍首相は記者たちの取材に応じ、専用車に乗り込んだ。車内でしばらく待機したあと車が動き出した。安倍首相は窓を開けて手を振りながら平和祈念公園を後にした。

 カメラでその様子を撮影しながら私がまず感じたのは、ずいぶん不用心だな、ということだった。「島守の塔」に向かう間、まわりをSPが囲んでいるとはいえ、市民と握手をくり返している安倍首相に危害を加えるのは容易に見えた。専用車に乗ったあとも、窓を開けて手を振る様子は、警戒心の薄さを感じさせた。※2

 辺野古新基地建設をめぐる県内の反対運動や会場内外での抗議行動、挨拶中のヤジなどを考えれば、広い屋外の会場から「島守の塔」まで往復することは、警備陣の負担をかなり増やしたはずだ。安倍首相の行動は予定されたものだと思うが、そこまでして「島守の塔」に足を運んだ安倍首相の心情や意図を考えた。

 沖縄戦は「本土決戦」に向けた時間稼ぎであり、当時の戦況を見れば日本に勝ち目がないのは明らかだった。第32軍の「玉砕」=全滅は必至であり、死地に赴く覚悟で沖縄県知事を引き受けた島田は、安倍首相にとって行政官僚の鑑だったのだろう。島田知事のもとで戦死した職員たちも、安倍首相からすれば戦時下であるべき公務員の姿だったはずだ。

 戦争は軍隊だけで戦うものではない。軍隊を支援する多様な業務の組織化や運営、住民の動員、疎開、食料確保など、県知事を先頭に県・市町村の首長、職員の全面的な協力がなければ、敵と戦うことはできない。特に戦場となる地域においては、死を覚悟してでも軍を支えなければならない。近代戦は総力戦であり、行政の末端まで軍への協力を徹底し、民間人を組織化しなければいけないのだ。

 それは過去の話ではない。これから沖縄が戦場になることがあるなら、県庁職員をはじめ各自治体職員も77年前と同じ役割を担わされる。警察や消防、公立病院、保健所、水道局などの公務員はもとより、民間でも港湾、空港、運輸、医療、放送、通信、電気、ガス、食品など戦争を遂行する上で必要不可欠な諸産業の労働者も強制動員される。反戦・非戦・厭戦を訴えて動員や協力を拒む者は、拘束されて処罰されるし、非国民のレッテルを張られて家族もろとも糾弾される。国内でそういう体制を整えなければ戦争はできない。

 だが、国民保護法をはじめとした有事=戦争法制が整備されても、行政や民間企業でそれを担う労働者の意識改革が進まなければ実効性はない。いざ有事=戦争となったとき、職を辞して避難します、という職員、社員が続出しては話にならない。

 国家、民族、郷土、家族、宗教など大きな価値を主体化し、自らを犠牲にしてでも持ち場に踏みとどまり、職務を全うする市民を育成すること。そのために模範とすべき人物を見つけ出して祭り上げ、宣伝すること。戦争に向けての準備を進める政治家=権力者にとって、それは必須の課題であり、当時の安倍首相にとって島田知事は格好の材料だったのだろう。

 

 2014年の段階で安倍首相が島田知事に注目した背景には、東アジアにおいて影響力を拡大する中国とこのさき軍事的緊張が高まり、奄美・琉球諸島が対中国の最前線になる、という認識があっただろう。

 雑誌『部落解放』2008年2月号に「教科書検定問題を読み解くーー大江・岩波裁判から見えてくるもの」という評論を書いた。渡嘉敷島の「集団自決」(強制集団死)で軍命があったか否か、を焦点とした裁判が起こされた背景について、私の考えをまとめたものだ。安倍首相と「島守の塔」について考えるうえで参考になるので、長くなるが引用したい。

 

 ここで押さえておく必要があるのが、⑥の04年12月に打ち出された「新防衛計画大綱」と「次期中期防衛力整備計画」である。05年度以降の防衛計画を示した「新大綱」では、初めて「中国警戒論」が明記され、自衛隊の海外活動が安全保障政策の柱に位置付けられた。加えて「テロ」や大量破壊兵器など「新たな脅威」への対応やミサイル防衛が示され、「日米関係の一層の緊密化」が謳われた。

 この「新大綱」は、翌年の⑭「在日米軍再編中間報告」と連動し、自衛隊が米軍と一体化して「対テロ戦争」や対中国を想定した軍事活動を担う役割を果たしていくことを示した。

 また「新大綱」では「中国・台湾間の紛争などを視野に入れた南西諸島の防衛力強化の一環」として、「那覇の陸上自衛隊(陸自)第1混成団の旅団への格上げが明記された」(琉球新報04年12月10日付夕刊)。以後今日まで、沖縄では自衛隊の強化が急速に進んでいる。航空自衛隊那覇基地のF4ファントム戦闘機のF15イーグル戦闘機への更新、宮古島への陸上自衛隊の配備、米海兵隊のキャンプ・ハンセン演習場を使った陸自の射撃訓練などの計画が次々と打ち出され、現実化しつつある。宮古の下地島空港に自衛隊を誘致する動きも陰に陽に行われている。

 90年代初頭にソ連邦が崩壊し、「北の脅威」が消えた。それ以降、防衛庁(当時)・自衛隊は組織と予算を維持するために北朝鮮の脅威を煽ってきた。さらに今日では政治・経済・軍事と多方面で台頭する中国が「脅威」の対象として宣伝されている。それに伴い自衛隊の配備も北方重視から西方重視へと変わり、中国の進行を想定した「島嶼防衛」が強調されるようになっている。

 そのように対中国を想定した自衛隊強化が進められるなかで、東シナ海をはさんで中国と対面する位置にある琉球列島の軍事的価値が増している。沖縄島から宮古諸島・八重山諸島・与那国島にいたる琉球列島の要所に陸・海・空の自衛隊の拠点を作っていくことが、現在具体的に進められている。そこにおいて障害となるのが、日本軍による「集団自決」の強制や住民虐殺、豪追い出し、食料強奪、暴行などによって生み出された軍隊(自衛隊)への否定感であり、不信感なのである。

 沖縄では沖縄戦の教訓として「軍隊は住民を守らない」ということが当たり前のように言われる。それは軍隊がしょせんは国家の暴力装置でしかないことを端的に言い当てている。そのような認識が地域社会に広くあれば、住民を軍(自衛隊)に積極的に協力させ、国家の戦争政策を支えさせることは難しい。対中国との関係で自衛隊の強化を沖縄で進める上で、沖縄県民の意識を作り替えていくことが日本政府や民間の右派グループにとって火急の課題として浮上してきたのが「新防衛計画大綱」の策定作業が進んでいた04年だったのだろう。※3

 

 私には安倍首相が「島守の塔」に行ったのも、このような流れの中でのことのように思える。〈対中国との関係で自衛隊の強化を進める上で、沖縄県民の意識を作り替えていくこと〉を狙いとし、より積極的に自衛隊を支え、国防に貢献する公務員や民間労働者を作り出していくこと。島田知事や彼と行動を共にした県職員のように軍に協力し、軍の命令・指導のもとに住民を動員・監視・避難・誘導すること。そのことの重要性、意義を顕在化させるために、安倍首相は「島守の塔」に足を運んだのではないか。そのように思える。

 


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