海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

兵士たちはどのように死んでいったのか

2020-08-19 17:57:44 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争

 

 長田紀春・具志八重子編『閃光の中で/沖縄陸軍病院の証言』(ニライ社)に「第三外科の南風原撤退ーー青酸カリによる自決についてーー」という証言が載っている。編者の1人であり、沖縄戦当時、軍医見習士官だった長田紀春氏(大小九年生)の証言である。

 日本軍の司令部があった首里に米軍が迫り、「本土防衛」の時間稼ぎのために軍首脳部は南部撤退を決めた。南風原にあった陸軍病院も南部に移動することになったが、自力で歩くことができない重症患者を運ぶ術はなかった。軍医として最後の様子を、永田氏は以下のように記している。

 歩行可能な患者は南部に下り原隊を探すようにと説得させたが、歩行不能な患者には後日輸送が迎えに来る予定としか言いようがない。騒然としている壕の中に悲痛なうめきのような声が流れ、馬鹿野郎という罵声が響く。軍や病院に対する精一杯の抗議なのだ。小走りに動いていた衛生兵や看護婦の姿も見えなくなっている。壕の中は混乱と諦めの空気が既に息苦しいまでに立ち込めていた。

 二百メートル位離れた小さな職員壕に戻り身の廻りの整理を始めていると、突然あまり聞いたことのない鈍い爆発音が患者壕から聞こえてくる。そばにいた衛生兵が「患者が自爆しているのですよ」と教えてくれた。患者は大陸や南方で見た負け戦の時の負傷者のみじめな最後を思い出して、自分の手榴弾で自決しているのである。

「どけどけ、俺は死ぬぞ、どかないと怪我するぞ」と怒鳴りながら、安全ピンを引き抜いた手榴弾を胸に抱きしめて爆死していく。その爆発の音が時間を置いて次々と聞こえてくる。音の大きさは米軍の爆弾よりも低いけれども、鋭い刃物のように私の心をえぐる。「これが戦争というものだ」「これが負け戦なのだ」。衛生兵はそう言いたげに、耳を澄ましたまま立っている私の顔をじっと見ている。

「軍医殿、青酸カリをやっと手に入れましたよ」。衛生兵は大きく胸のあたりを叩いた。「俺も持っていないのによく手に入れたなあ」「これで安心して死ねます」と言いながら「分けてくれとせがまれています」と笑った(192~193ページ)。

 青酸カリは一般に自殺や殺人に使われる毒薬としてその名前がよく知られている薬物であるが、この毒薬がいつから日本陸軍に使われるようになったかについては詳らかではない。

 日本人は昔から武人の切腹等の話を聞かされており、自決をすんなり受け入れる気持ちが強い。そのために中国における戦闘行為の経験やノモンハン事件で負傷して捕虜になった将兵のみじめな姿を見てからは、簡単に携帯できて、しかも手軽に死ねる薬として兵隊や軍の衛生関係者の間で人気の高まった毒薬である。

 だが、その管理は厳重であり、軍人でも容易に入手できないだけに、いつ負傷してのた打ちまわるような哀れな身になるかもしれない戦場の軍人にとっては、いわば憧れの薬となっていたのである。

 文化の進んでいる欧米の国家と戦争をしたことのない日本の兵隊は、沖縄戦でのように、米軍が負傷者や捕虜に対して如何なる取り扱いをするのか判っていなくて、敗戦の場合はすぐ自決を考えて青酸カリの使用を思い立つのも、時代の背景からその心情は察することができる。また、沖縄防衛の天王山である首里を攻め落として勢いに乗って迫ってきた米軍に追われながら、混乱して敗走するという異常事態の中では、敵中に残していく重症患者の枕元に青酸カリを置いていくことも、当時としてはやり兼ねないことと思われるのである。

 敗戦の戦場において、敵中に置いていく重症患者を安楽死させるのが、良いのか悪いのか、その当時としては判断が難しく、戦争という巨大罪悪によって引き起こされた人間の悲劇としかいいようがない。

 しかし、陸軍病院が大量の青酸カリを前々から用意していたことは、軍医部等の上層部の命令で、最悪の場合をかねてから考慮してのことであろうが、やはり個々の患者の苦痛を少なくするというよりも、軍の体面や秘密の保持を考え、玉砕精神を励ますのが目的だったと言っていいだろう。

 さらに残念なことは、生還できる可能性のある戦傷者にも無差別に青酸カリを与え服用させたことである(194~196ページ)。

 第一外科で戦争後半に外科壕として使用した壕は二十ヵ所だそうだが、他に兵器廠の壕二ヵ所を使用していたので、計二十二ヵ所である。……総計約八百名の患者であったが、歩ける患者を除くと約四百名位の数の重傷者がいたと推測されるし、その患者が青酸カリによる自決に追い込まれたと思われる。

 陸軍病院の衛生兵、佐久田正雄と看護婦の大城文子は重傷を負い、共に第一外科の入院患者となった。そして南部へ撤退する際に枕元に青酸カリ入りの毒薬を置かれたが、自分で判断して飲まなかったという。

 ほかの自決をしなかった相当数の重症患者も水や食料の無い状態で放置され、次第に衰弱し、次々に死亡していったであろうと想像され、その心中を思うと何とも申し上げようがなく、痛恨の情に打たれ、深く哀悼の意を捧げる次第である(196~197ページ)。

 以上、引用終わり。

 長田氏は自らが診ていた第三外科壕では青酸カリを配布しなかった。しかし、重症患者は手榴弾で自爆し、自決しなかった重症患者は置き去りにするしかなかった。第一外科壕では青酸カリが配布されたが、服用せず米軍に救出されて生き残った患者もいた。

 敗戦から75年が経ち、当時の兵士たちの犠牲があったから今の平和がある、という言い方が軽々しくなされる。しかし、兵士たちがどれだけ苦しみ、みじめな状態で死んでいったか、その実態を見ないといけない。兵士たちの命を軽んじ、犠牲を当然のことと考えた昭和天皇や軍首脳部らの冷酷非道な判断、仕打ちの責任は、いまも問い続ける必要がある。


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