海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

小林よしのりの盗作問題 1

2008-11-27 20:57:51 | ゴーマニズム批判
 小林よしのりといえば以前、『新ゴーマニズム宣言SPECIAL沖縄論』の第19章「亀次郎の戦い」について盗作問題を指摘したことがある。同書の第1~18章は『SAPIO』連載時に読んでいたのだが、新しく加えられた「亀次郎の戦い」を読みながら違和感を覚えた。共産党幹部だった瀬長亀次郎を小林が絶賛すること自体胡散臭いものだが、「左」の側にも読者を拡大しようという営業戦略として理解はできる。実際、共産党機関誌の「赤旗」が書評で同書を好意的に取り上げたくらいだから、小林側の狙いはある程度成功したのだろう。しかし、私が感じた違和感はもっと中味に関わるもので、それで巻末に上げられた参考文献と比較して調べてみた。その結果、明らかになったことをまとめたのが以下の文章である。初出は「沖縄タイムス」二〇〇五年九月一日付朝刊。引用は拙著『沖縄・地を読む 時を見る』(世織書房)から。
 
 〈引用と二重基準に問題 小林よしのりの『沖縄論』〉
 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL沖縄論』(小学館。以下『沖縄論』と略す)を一読してまず目を引くのは、第19章「亀次郎の戦い」である。これまでの小林の主張をある程度知っている人なら、思想的にまったく逆の立場にあるはずの瀬長亀次郎を絶賛していることに驚くはずだ。中には感動して、小林がこれまでの主張を変えたかのように錯覚する人もいるかもしれない。日本共産党の機関誌「赤旗」七月三日付に載っている書評でも、第19章を中心に『沖縄論』を肯定的に評価しているくらいだから、勘違いしている人は多いのだろう。
 だが、書店で『沖縄論』と並んで売られている『新ゴーマニズム宣言SPECIAL靖国論』(幻冬舎。以下『靖国論』と略す)を手に取ってみれば、小林の主張や思想が何も変わっていないのは明らかだ。そういう小林が、雑誌「SAPIO」の連載を『沖縄論』として一冊にまとめるときに、なぜ「亀次郎の戦い」を新たに書き下ろして付け加えたのか。その意味をもっと考える必要がある。
 『沖縄論』の第19章「亀次郎の戦い」は、『瀬長亀次郎回想録』(新日本出版社)や『民族の悲劇』(新日本新書)などの著作で内容が補強されている個所もあるが、その全体の構成や内容は、佐次田勉『沖縄の青春 米軍と瀬長亀次郎』(かもがわ出版。以下『沖縄の青春』と略す)に依拠していると言っていい。関心のある人は、小林の『沖縄論』と佐次田の『沖縄の青春』を読み比べ、内容を引き合わせてみてほしい。そのあからさまな利用の仕方に驚くだろう。
 「亀次郎の戦い」は五十ページもあり、『沖縄論』全体の八分の一を占める。総コマ数は三百五コマで、登場人物のせりふの入った吹き出しが、やじを含めて二百一五ある。その内、少なくみても百四(四八%)の吹き出しで、『沖縄の青春』の中の「 」でくくられた証言や発言、演説の言葉が使われている。吹き出しのせりふだけではない。瀬長が那覇市長に立候補した『沖縄論』三百二九ページ以下の展開は、ストーリーの構成から説明文の内容まで『沖縄の青春』と酷似している。
 さらにあきれるのは、終わり方まで一緒なのだ。『沖縄の青春』は瀬長が那覇市長を追放され、抗議の市民大会で「私は勝ちました。アメリカは敗けました」と演説する所で終わる。小林の「亀次郎の戦い」も詳しい描写はその演説までであり、その後の瀬長の生涯は簡単に描かれ、小林の瀬長に対する評価が述べられている。
 小林『沖縄論』と佐次田『沖縄の青春』は同じ資料を使って書かれているのだから、内容や「せりふ」が似てくるのは当然、という反論があるかもしれない。しかし、問題は類似の程度であり、引用の仕方なのだ。登場人物のせりふの半分近くが別の著作と共通し、構成も似ているというのは、同じことをノンフィクションや小説など活字の世界でやれば、著作権侵害として訴えられ、盗作問題が起こってもおかしくない。それがマンガでは許されるのだろうか。
 さらに付け加えると、佐次田の『亀次郎の青春』は、映画『カメジロー 沖縄の青春』(監督・橘祐典、謝名元慶福、島田耕)の原作(原案)として書かれたものだ。「亀次郎の戦い」の作画の段階で、映像資料があったのはさぞ便利だったであろう。『沖縄論』三二九~三三〇ページの夜間の演説会や、三三三ページ以下の那覇市議会の様子などを描く上で、映画のビデオが利用されたと思えるのだが、参考資料としては明示されていない。
 小林は瀬長の〈民族主義と異民族統治への抵抗精神には、親米派よりも情熱的な「愛国心」が宿っている〉(『沖縄論』三四九ページ)と持ち上げ、〈瀬長にとっては、「イデオロギーのための抵抗」よりも、「国を守るための抵抗」の方が、重大だったはずである〉(同)とまとめる。
 そして、「十五年戦争史観」「天皇制反対」「自主防衛も認めない反戦平和主義」など、小林とは違う瀬長の「歴史観、国家観」には深入りせず、日本共産党幹部としての瀬長の活動や七期十九年務めた国会議員としての活動も無視してすませる。小林がつねづね批判し揶揄する「サヨク」としての瀬長を意識的に描かないことによって、瀬長を「反米愛国の民族主義者」としてまとめ上げ、あたかも自分と共通の立場に立っていたかのように描き出すのである。
 しかし、それは欺瞞にすぎない。小林のよって立つ「反米愛国の民族主義」とは、先に挙げた『靖国論』や同じ「新ゴーマニズム宣言」シリーズの『戦争論1~3』で展開されているものだ。そのどこに瀬長との共通点があるだろうか。沖縄県民を読者としてキャッチするために、他の章で「サヨク」批判をし、第19章で「亀次郎賛美」を同時にやってのける小林のダブルスタンダードが、私にはしらじらしくてならない。
(『沖縄・地を読む 時を見る』(世織書房)250~253ページ)

 発表からすでに三年余が経つのだが、小林からは一言の反論もない。まあ、反論すれば墓穴を掘るだけだから、無視を決め込んでいるのだろう。「こういう輩」が「誇りある沖縄」などと口にしているのだから呆れはてる。

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1 コメント

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曇った空が晴れたようです! (なさき)
2008-11-29 00:18:23
最近、沖縄青年会議所などの主催で小林が講演していますね。例の宮城さんもパネラーになっているようです。明らかに右派のブログでその催しの一部がUPされたりしていますが、全くパクリの小林の漫画の問題、その意図的な偏向性は、目取真さんが指摘されているところまでなかなか考えが及ばない点があり、どこかおかしいと思っていたグレーゾーンが「なるほど」霧が晴れたようにくっきり見えてきました。彼らの意図しているところを、しっかり認識することが、今問われているのでしょう。簡単に叙情的に騙されて流されてしまう怖さがあります。宮城さんが確信的に行動していることも含め、また糸数慶子さんがあのような浅はかな行為に出たことも含め、簡単に丸め込められる弱さを持っていることも、しっかり踏まえた上で、じわりと沖縄を対中国の防波堤にせんとやっきになっているこの日本ナショナリストたちの真意を陽に晒したいものです。内から手を差し伸べる宮城さんなどの明るさも、右派のブログの方の能天気さも時代の軽さ(実際はかなり重症)なのでしょうか?激しいブログ戦争にため息ばかりついてもいけませんね!小林は「沖縄人よ誇りをもって日本(沖縄)を防衛せよ!潔く国のために死ね」と叫んでいるようです。

目取真さんの鋭いコメント(指摘)から、いつも勇気をもらっています。

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