小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

「ヤマタイ国」はなかった

2007年05月23日 | 歴史

 40年ほど前、古田武彦によって提唱された「邪馬台国はなかった」をいまだ信奉している人が沢山いるようである。「魏志倭人伝」にはたしかに「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」とあるが、現存している『魏志』は後の南宋代(12世紀)の版木本であり、三世紀末に陳寿の書いた原本は残っていないし、古い写本も無い。『後漢書』(5世紀)にはちゃんと「邪馬台国」とあり、中国の歴史書には「邪馬台国」の文字は出ているのである。古田氏の言うように、後世の日本人が勝手に「壱」を「台」に置き換えた訳ではないのである。それと、『後漢書』の倭人の部分は明らかに「魏志倭人伝」をそっくり書き写している。

 問題はこの「邪馬台国」の読みである。「邪馬」は万葉仮名で「やま」と読み、「台」はそのまま漢字音で「タイ」と読むのはどうみてもおかしい。漢字音で統一するなら「ジャバタイ国」であり、万葉仮名で統一するなら「ヤマト国」とすべきである。漢字「台」は万葉仮名では乙類の「ト」である。(古代日本語の「ト」は甲乙二種類あったが、現代語では「ト」ひとつしかない)。どちらかに統一すべきである。そのことを主張している人はこれまでにも沢山いた。

「邪馬台(ヤマト)国論争」だからと言って邪馬台国が奈良の大和とはかぎらない。「魏志倭人伝」に書かれている多くの産物(鉄類や絹片など)はそのほとんどが北部九州から出土している。また、中国の学者は卑弥呼がもらった銅鏡百枚はすべて後漢の鏡だと主張しているし、そのほとんどは北部九州から出土している。魏は後漢から禅譲された王朝で、その都城も官僚組織にも何の変化もなかった。このことから見て、私は「邪馬台国」は九州の筑後川流域にあったと思っている。その邪馬台(ヤマト)国が4世紀に畿内に移動して大和(ヤマト)朝廷になったという安本美典氏の説が正しいと思う。(古くは和辻哲郎も同じ説を唱えている)。大和朝廷の創始者は九州から来たとの伝承は7~8世紀の朝廷にも残っていたのであろう、「記紀」編者はそのことを神武東征神話として書いている。ただし、「ヤマタイ国」はなかったのである。

  <追記>

 2023年6月、佐賀県、吉野ケ里遺跡の小高い丘から重要な墳墓が発掘調査された。それは石棺墓であり、平たい石板で長方形に四方上下を囲んだものであった。「倭人伝」のいう倭人の墓は「棺あり郭なし」と完全に一致する。京大系の大和説の場合、纏向遺跡周辺で発掘されたほぼすべての古墳には石組みの郭がある。倭人伝の記事など完全に無視である。邪馬台国と卑弥呼の存在は認めているのに・・!?


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