小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

隅田八幡神社の人物画像鏡の読み(前編)

2007年06月18日 | 歴史

 和歌山県橋本市にある隅田八幡神社の鏡の銘文の読み方については、これまで多くの説が出されている。福山敏夫説が一番有力で日本史教科書にも出ている。しかし、冒頭の「癸未年八月日十大王年」の解釈は「日十 (ひと) 大王」と読むことですべての説が一致している。果たしてそうであろうか ?

 ー人名を「日十」で表記するのは不自然ー
 
 古代の人名で「ひと」の名を持つ人は数多い(彦人皇子、古人皇子、山部赤人など)。「ひと大王」では誰のことか分からない。また、万葉仮名では「人」は「比登」とか「比等」と表記され(例、藤原不比等)、「人」を「日十」と表記した例はない。(「彦」を「日子」、「姫」を「日女」との表記は「記紀」にある)。
 これは八月と日を分けて読むべきではないのか。つまり「癸未年八月(ある)日」と、これは後代に「寛政八年三月 吉日」のように、よく神社の鳥居などに刻まれている用法の原形ではないのか。では「十大王」とは誰なのか。これはこの時代(5世紀頃)中国の南朝の宋に朝貢していた倭の五王にそのヒントがある。倭の五王はすべて「讃」とか「興」とか「武」のように漢字一文字で自身を表わしている。同時代の百済・武寧王は中国の南朝に「余隆」という名で朝貢している。(「余」は百済の王姓なので、「隆」一文字で自身を表していた。他にも、「余映」とか「余固」「余歴」などの例もある)。
 
 この「十大王」も「十」でもって自身を表していたのではないか。その人はだれか。倭の五王も「記紀」に表記された和名と一致するのは雄略天皇ただ一人である。(「大泊瀬幼武」・・倭王武 )。このことから「十」が誰かは特定できないが、雄略のあとの武烈天皇が最有力であると思われる。なぜなら、この銘文にはある特定できる人物名が出ている。それは「斯麻(シマ)」である。その人物こそ百済の武寧王である。

「書紀」武烈紀は「斯麻」、雄略紀は「嶋」と出ている。朝鮮の『三国史記』百済本紀は「斯摩」、そしてなによりも半世紀ほど前、朝鮮半島で未盗掘の状態で発見された唯一の古代の王墳である百済・武寧王陵、その墓誌銘には「斯麻」とあり人々を驚かせた。(武寧王、462~523年) 従って、「十大王」も百済武寧王時代に重なる人物であることは間違いないと言える。「宋書倭国伝」ふうに書けば「倭王十」となる。
 
 現在、韓国・公州市の国立博物館で武寧王陵の出土物は常設展示されているので、一度、行って見学されることをお勧めする。圧巻は日本自生の高野槇で作られた巨大な木棺である。これからも武寧王と倭国との親密な関係がうかがえる。

 <追記>
 歴史雑誌「歴史と旅」(昭和59年5月号)の特集記事で、京都大学の岸俊男教授が「稲荷山古墳の鉄剣」と題して小論を寄せているが、その中で、古代の中国や朝鮮の金石文を何例か出している。それによると、中国で出土した鉄刀のなかに「元嘉三年五月丙午日 造此口官刀・・・」(後漢元嘉3年・・153年)との例が紹介されている。漢代中国では日付を干支で表していた。これを受けて『日本書紀』でも同じ用法を使っている。(下記の史料1.2参照)。

 つまり、隅田八幡宮の鏡の銘文「癸未年八月日十大王年」の場合、日本や百済では元号が無かったので、文頭に干支(癸未)を入れることにより年号を表わし、不特定の意味で「日」のみを刻印したと見るのが一番妥当な考え方ではないだろうか。
 また、日本での発見例として東大寺山古墳出土の鉄刀銘文「中平口年五月丙午 造作大刀・・・」(後漢中平年間・・184~190年)の例も紹介している。やはり、この銘文は「八月(ある)日 十大王年」と読むべきであろう。

 史料1.建始ニ年十月乙卯朔丙子(建始ニ年十月二十二日)・・西域出土の漢代木簡 (籾山 明著『漢帝国と辺境社会』)

 史料2.十二年春三月丙辰朔甲子(十二年春三月九日)・・『日本書紀』継体紀


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