暖かい日、山に行く。去年の秋の暮れに、大急ぎで冬野菜を植えたが、食べられるくらいに成長したので引き抜いて帰る。水菜、壬生菜、ネギ、どれもみそ汁に入れると、柔らかくて甘い。前に来たときと異なって、小鳥のさえずりのにぎやかになったことに気づく。ウグイスの鳴き声をはじめて聴く。
里よりも山では一足早い。日光と温度が生命の活動に深く関係していることがわかる。「花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける(仮名序)」
イチジクの木を植える。先に植えた柿の木と位置を入れ替える。桃の木は何とか根付いたようだけれど、柿の木が心配だ。霜柱に根が痛めつけられていたように思う。
土を掘り返しながら考える。日本の食料自給率と食の安全の問題。先の中国餃子中毒事件に見るように、自分の食物を他者に頼るのは原則的に間違いだ。これは一国においても同じだ。温暖化による異常気象と後進国の経済発展と人口増大による資源戦争と食糧危機も近い。
わが国の民主主義は皆農制と皆兵制を取り、(かって、そのまんま東大分県知事が苦し紛れにそれを主張していたが)国民には農業の権利と義務および兵役の権利と義務を根底におくべきであると。(民主主義国家では「徴兵制」とは言わず、「兵役の権利と義務」と言う。こんな差異すらもわかっていないのが日本人の民主主義だ。)もちろん、こんな話は、現代人の日本では妄想でしかないことはよくわかっている。
なぜならプラトンが民主主義をこの上なく軽べつしたように、私も戦後の「民主主義」を軽べつしているからだ。その意味では私は決して「民主主義者」などではなく、もし、民主主義を用語として使うとしても、その概念が違う。私の「民主主義」は誤解を恐れずに言えば、「全体主義」にきわめて近い。それならなぜ誤解を招くような「民主主義」という用語をあえて使うのか。
日本の幼稚園児、小学校児童、中高生、大学生のすべてが、野山で農業に従事することを夢見る。大人には何の希望ももたない。
ジャガイモを植える予定。鶏糞一袋、コンポスト二台。