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日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成]

2025年06月17日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成]

A. Sein, Nichts, Werden
A.存在、無、生成

§9
Das Sein(※1) ist die einfache inhaltslose Unmittelbarkeit, die ihren Gegensatz an dem reinen Nichts(※2) hat, und deren Vereinung das Werden(※3) ist: als Übergehen von Nichts in Sein das Entstehen, umgekehrt das Vergehen.
(Der gesunde Menschenverstand(※4), die einseitige Abstraktion sich oft selbst nennt, leugnet die Vereinung von Sein und Nichts. Entweder ist das Sein oder es ist nicht. Es  gibt  kein Drittes. Was ist, fängt nicht an. Was nicht ist, auch nicht. Er behauptet daher die Unmöglichkeit des Anfangs .)

第九節
存在 とは、単純で内容をもたない直接性であり、それは純粋な無を対立物としてもち、そして存在と無との合一が生成 である。無から存在への移行が発生(Entstehen)であり、その逆が消滅(Vergehen)である。
(いわゆる「健全な常識」は、それ自体が一面的な抽象化をしばしば行うように、存在と無の合一を否定する。「存在している」か「存在していない」かのいずれかであって、「第三のもの」はない 。「存在するもの」には始まりはなく、「存在しないもの」も始まりはない。したがって、常識は「始まり」は不可能であると主張する。)

 

※1
「存在(Sein)」はもっとも抽象的な思考のはじまりである。

※2
はじめの「存在」はあまりに空疎であるため、「無」と区別がつかない。

※3
抽象的な「存在」と「無」という静止的な概念は初めから「動き」をはらんでおり、その移行、運動による合一から「生成」という概念が成立する。「生成」は存在と無という対立する二者をそのうち含む。思考の弁証法的な運動がここからはじまる。無から存在への過程は発生であり、存在から無への過程は消滅である。これら「存在」「無」「生成」の三つの契機は、思考の弁証法的な運動の基本形でもある。ここから論理学が始まる。

※4
「いわゆる健全なる人間の理解」(常識)は、「存在」と「無」を絶対的に分けて、「あるかないか」「白か黒か」的にしか考えられない。これはのちに「悟性的思考」として、その限界が指摘される。
弁証法的な思考は動的に捉える。これは「アナログ」と「デジタル」との関係と同じで、たとえば磁石の陽極と陰極のように、常識、悟性は、両者を分断してとらえるが、実際には陽極と陰極との間には明確な境界はない。ヘーゲルはいわゆる「常識」をここで皮肉っている。

 

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