小野小町5
また小町自身がどのような女性であったかについては、1300年頃の鎌倉時代に生きた吉田兼好の徒然草の第百七十三段に小野小町が事として、「極めて定かならず」とすでに書いている。吉田兼好自身は小町ゆかりの山科の小野の山里に領地を買って住んでいたらしいから、小町の言い伝えなどは、よく耳にする立場にいたはずである。深草の少将が誰であったかについては語られていないから、まだその頃にはこの伝説も成立していなかったのかも知れない。
つれづれ草で語られているのは、晩年の小町の衰えた様子が『玉造小町壮衰書』という本に見えること、清行という男がそれを書いたらしいこと、また、この本を当時すでに流布していたらしい弘法大師空海の著作とするには、小町の若く美しい盛りは大師の死後のことらしいから、道理にあわずおかしいと言っている。だから、たとえそれが「極めて定かではない」ものであったとしても、すでに小町のことが世代を越えて人々の記憶に留められていたことは明らかである。
兼好がここで小町のことを書いたのは、その前段の中で、心の淡泊になった老年の方が憂いと煩いが少なく、情欲のために身を過ちがちな若い時よりも勝っているという感慨をもったことから僧正遍昭や小町のことを連想したためらしい。小町の晩年について流布している言い伝えも、この『玉造小町壮衰書』という本が大きく影響していることは明らかであり、それは仏教の教えの中に取り入れられて語られている。
113 花の色はうつりにけりな いたづらに我が身世にふるながめせしまに
小町が美人の代名詞であればこそ、その美のはかなさも嘆きも深刻なものになる。恋多き生涯とその時間の移ろいの早さを嘆いた小町の歌が、時間という絶対的な流転のなかに生きざるを得ない人間の運命を象徴するものとなった。このような歌はおそらく小町のような女性のほかに詠まれる必然性はない。伊勢にも紫式部にも詠まれなかった。
そして、それがやがて仏教思想の流入と広がりとともに、小町の生涯は無の諦観によって解釈し直されて『玉造小町壮衰書』などにまとめられ、もう一つの小町の伝説になっていった思われる。
兼好法師は、この本は弘法大師ではなく清行が書いたと言っているが、この清行という男が、小町とともに真静法師が導師をつとめる法事に参加したときに、導師の説教にかこつけて言い寄って肩すかしにあった(古今集第556番)あの安部清行のことであるなら、振られた意趣返しに、小町の晩年をこの本で残酷なものに描いたとも考えられる。彼なら小町の生涯を身近に見聞きしていたとも考えられて興味深い。
下つ出雲寺に人のわざしける日、真静法師の導師にて
いへりけることばをうたによみて、小野小町がもとに
つかはせりける
あべのきよゆきの朝臣
556 つつめども袖にたまらぬ白玉は 人を見ぬ目のなみだなりけり
返し こまち
557 おろかなる涙ぞ袖に玉はなす 我はせきあへず
たぎつ瀬なれば