作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

小野小町6

2008年03月21日 | 芸術・文化


小野小町6

小町が思いを男性に託して恨みを述べている歌としては、ただ一つ
残されている。それは小野貞樹に当てたもので次の歌。

                                       をののこまち

782         今はとて  わが身時雨にふりぬれば 
                           言の葉さえに移ろひにけり

          返し                          小野さだき  貞樹

783         人を思ふ心この葉にあらばこそ  風のまにまにちりもみだれめ

小町が当時のきびしい身分制度をのりこえられずに、恋を成就させることができたのは、この小野貞樹だけだったのかも知れない。この歌からも推測されるように、貞樹との交際は、小町が若き日々を過ごした宮仕えを離れてからのことであったように思われる。

もし若き日に小町が采女として帝にお仕えしていたとすれば、小町が帝に身近に接する機会もあったはずだし、当時は北家藤原氏の子女のほかには御門の正室や側室になることはむずかしかったから、帝の方もかなわぬ恋でありながらも、政略のからまない美しい小町に思いを寄せたことがあったとしてもおかしくはない。

同じ古今集の墨滅歌の中にも、天の帝が、近江の采女に我が名を漏らすなと詠っている歌がある。また、巻第十四の恋歌四には、世間の噂を心配する近江の采女に贈った帝の歌(702番)ものせられている。

702         梓弓ひき野のつゞら  
                すゑつひにわが思う人に言のしげけん

このうたは、ある人、天のみかどの近江の采女にたまひけるとなむ申す

703         夏びきのてびきの糸を 
                      くりかへし言しげくとも絶えむと思ふな    

この歌は、返しによみたてまつりけるとなむ

采女や更衣はそれほど帝とは身近なところにいた。

深草の少将が実際に誰のことであるのか少し調べてみても、桓武天皇から土地を賜った欣浄寺にゆかりのある深草少将義宣卿がその人であるとするには無理がある。この人は仁明天皇が生まれて間もない頃にはすでに亡くなっている(813年)。仁明天皇にお仕えしたと考えられ、この帝の亡くなられた(850年)後も交際のあったらしい小町や僧正遍昭とは、世代が会わない。

深草の少将のゆかりの寺とされるこの欣浄寺にはその後、仁明天皇から寵愛を受けた少将蔵人頭、良峰宗貞(後の僧正遍昭)が御門の菩提を弔うためにそこに念仏堂を建て、帝の祈られた阿弥陀如来像と御牌を前にして念仏にいそしまれたという。だから、畏れ多いこの帝が後の人々によって深草の少将に名を変えられたとしてもおかしくはない。また、この天皇は深草に葬られて、その御陵も深草陵と呼ばれている。ただ、これ以上の詮索はたいして意味があるとも思えないのでこれくらいにしておきたい。

 



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