作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

七月に入る

2007年07月01日 | 日記・紀行

七月に入る

今日から七月に入る。相変わらず「歳月は人を待たず」、「光陰は矢の如し」だけれども、おかげさまでとくに変わったこともなし。
その愚策のために国民をバブルで狂わせ、借金で甚大な被害を国民に残したまま政治家(※注 宮澤喜一元首相のこと)がまた一人この世を後にした。また、河野洋平氏の軽率であいまいないわゆる談話が、後々までも深く日本の国益を損ない続けているように、久間章生防衛相の無思慮な発言は、今後もアメリカの原爆投下の正当化に長く貢献し続けることになるだろう。軍隊に対する十分な指導力のない軍事指導者は、軍人からも軽蔑され、軍隊の市民統治の伝統に対しても信頼を揺るがすことになる。安部晋三首相の人間観と能力が問われている。

私自身は現代人の作る短歌にも、芭蕉の俳句などにもまったく興味はないけれど、西行の短歌だけは別である。『山家集』は季節の変わり目などに折に触れて開くことがある。そして、彼の本を開いてむなしく手ぶらで本を閉じたことはない。いつも、何がしかの感慨を味わって帰る。そうして、つまらない国家と国民を相手にむなしい思いをするときは、いつも音楽を聴いたり、西行の短歌や聖書を紐解いて自分を楽しませ永遠を思い、天空の星空を思い出して自分を回復する。カゲロウのように果敢なく短い生涯の時間は、できうる限り幼児のように天真爛漫に遊び心で楽しくすごしたいとも思う。他人は他人、自分は自分である。
「彼らの愛も、彼らの憎しみも、彼らの情熱もすべて、彼らとともに墓に葬り去られる。それらは二度と再び、陽の下に起きることにかかわることはない。」   (伝道の書9:6)

西行の和歌などを詠んであらためてわかることは、精神生活の進歩においては、科学技術の発達は本質的な意義を持たないということである。科学技術は、人間の口と腹の欲に奉仕するだけである。もちろん、それがまったく無駄であるというわけではないが、むしろ、それらは人間の動物的な欲望を先鋭化させ拡大することにしか役立たない。現代人が、北條時宗や道元、西行などの生きた鎌倉時代や、あるいはさらに、イエスやパウロ、ヨハネなどの生きたローマ帝国の時代から、精神的には爪の先ほども進歩していないこと、むしろ全般的に退歩していることを哲学は認めざるを得ないだろう。「人間と鉄の質は、時代が降るほど下がる」ということわざを、認めざるを得ないのかも知れない。「たたら」で造られた玉鋼と同じような鉄を、製鉄技術の発達した現代もなかなか作り出せないという。パウロやヨハネのような質の現代人が存在しないのと同じなのだろう。昭和、平成の御世の現代日本人が、なぜ江戸、明治の日本人に及びもつかないか、深く反省してみるべきであるとも思う。

   無常の歌あまた詠みける中に

844  いづくにか  眠り眠りて  たふれ伏さん  
              と思ふ悲しき  道芝の露

悟りに目覚めることもなく、このまま眠り呆けたまま、いずれはどこかの路傍にでも行き倒れてしまうことになるのだろうと思うと、つらく悲しい。私の生涯と身の上は、道端の芝の上に置かれた露のように哀れで果敢ない。西行がどのような気持ちで、日常作歌していたのかが伝わってくるような歌である。深く共感する。

847  大波に  引かれて出でたる  心地して
              助け舟なき  沖に揺らるる

これらの歌には、花や鳥や恋を歌うときの西行の高揚した気分とは異なって、人間の生存自体が本質的に持つ、不安や孤独と憧れがうたわれている。

気分転換に、YUTUBEでクリス・レアの「ジョセフィン」を聴く。ハードウェアを入れ替えたので、スピーカーの音は多少改善した。昔に学校の近所にあった下宿で知り合ったスウェーデンの女性が、ジョセフィンという名であったことの連想もあり、好きな曲の一つ。日本のロック歌手は、誰もみんな精神的に幼くてつまらない。

 

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