物理学や天文学、さらに数学などの科学と哲学の本質的な相違点はどこにあるのだろうか。かっては物理学や数学も哲学の一部門とされたはずだが、そうした学問領域は、特殊科学として独立し独自の学問領域を形成し、残された哲学は、普遍科学として、世界観や論理の問題を対象とする科学となった。
哲学が問題にするのは、世界観の問題である。それは物理学、数学、天文学など経験科学とどのように違うのか。
前回の「薔薇の名前と普遍論争」で、コメントをいただいたらくだ氏が取り上げていたフレーゲ氏などは数学者であるかもしれないが、哲学の立場、世界観の立場としては唯名論者であり主観的な観念論者であると思われる。
「ビッグバンの理論」などの研究を媒介にして、宇宙の成り立ちや構造を研究している物理学者や天文学者は、数式を使ってその世界像を明らかにしようとしている。しかし、どんなに複雑な数式を利用しようが、それらによって根本的な世界観が発展させられているわけではない。それらは本質的には経験主義的で非哲学的な単なる自然科学的理論にすぎない。
物理学者などは、「Αβγ理論」とか「ビッグバンの理論」とか「ヒモ理論」とか「くりこみ理論」とかを編み出して宇宙の起源と進化を説明した気になっている。彼らはそれで世界をわかったつもりで説明してみせるが、要するに、それらは宇宙の本質を説明する世界観ではなく、いずれは新たな学説に取って代わられる「仮説」に過ぎない。天文学者や物理学者たちは自分たちの経験主義的で非哲学的で有限な自然科学理論を絶対視しているにすぎない。「ビッグバンの理論」などはだから、その本質は聖書の「天地創造神話」の現代版に過ぎないと思っている。
前回の「薔薇の名前と普遍論争」で、分析哲学を学ばれている「らくだ氏」からいくつかコメントをいただきました。「普遍論争」などに興味のある人は、やや専門的かも知れませんが、覗いてみてください。