goo blog サービス終了のお知らせ 

作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

詩篇第八十四篇註解

2006年10月12日 | 宗教・文化

詩篇第八十四篇

ギティトの調べにのせて指揮者に。コラの子供たちの賛歌。

どんなに愛されていることか。あなたの幕屋は。万軍の主よ。
主の庭を慕って、私の心は絶え入るばかりです。
生ける神に向かって、私の身と心は喜び歌います。
あなたの祭壇の傍らに、
スズメが宿を見出し、
ツバメが巣を作って雛を育てるように、
万軍の主、私の王、私の神よ。
なんと幸せなことか。あなたの家に住まう人は。
あなたを賛美する彼らは、さらに。セラ
なんと幸せなことか。
あなたの中に力を得、あなたの道を心に見る者は。
涙の谷を過ぎるときも、そこを泉に変え、
初雨もまた祝福となる。
彼らは力強く歩き、シオンで神々の神を見る。
主よ、万軍の神よ、私の祈りを聴いてください。
耳を傾けてください。ヤコブの神よ。セラ
私たちの盾をご覧になり、
あなたが油注がれた者の顔を顧みてください。
まことに、あなたの家の中庭で過ごす一日は、ほかの千日にも優ります。
悪人の天幕に住まうよりは、
私の神の家の門口に立つことを選びます。
まことに、主なる神は太陽にして盾。
主は恵みと誉れをお与えになる。
まっすぐに歩む者に、良いものを拒まれない。
万軍の主よ、
なんと幸せなことか。あなたに信頼する人は。

第八十四篇註解

巡礼のときに歌われたらしい。
ギティトとはハープのような楽器らしく、ガトからダビデが持ってきたとも言われる。
主の宮に旅だつ巡礼者は、主の宮の中庭をあこがれ慕って身も心も絶え入るばかりである。主の住まわれる宮はそれほど人々から愛されている。
その憧れ切なさが募るほど、それはやがて生ける神への出会いを予感して歓喜に代わる。恋する者にこがれるように、巡礼者は切ない憧れを歌う。
スズメやツバメがそこに巣を造るように、巡礼者は主の宮にたどり着き、そこに宿り憩う。主の宮に宿る人は、まして、主を賛美する人はどんなに幸せなことか。なぜなら、彼らは主の中に力の源と巡礼で辿り行くべき平安の道とを心の中に見出しているから。

私たちの生涯も巡礼のようなものである。涙の谷もあれば、苦難の山もある。

しかし、主に信頼する者には、嘆きも苦しみもすべて歓びの泉に変わる。雨も恵みの雨となる。
彼らはますます力強く歩み、ついにシオンで神々の中の神にまみえる。そこで私たちの祈りの聴き入れられることを祈る。

第十節にある「私たちの盾」とか「あなたが油注がれた者」とは誰のことだろうか。巡礼者たちを導き上った指導者か、あるいはダビデのような民族の指導者のことかもしれない。キリスト・イエスと読むこともできる。父なる神が独り子キリスト・イエスを顧みられ、永遠にいとおしまれるように。

木立に囲まれた美しい主の宮の中庭で過ごす一日は、他の所で過ごす千日にも優る喜び。まして荒野の日照りに悪人たちと同じ天幕に住まうぐらいなら、主の家に門番に立っていた方がましである。

主は、大地の恵みの源である太陽と私たちの身を護る盾にたとえられる。
主は、正しくまっすぐな道を歩む者に限りない恵みと誉れをお与えになり、良きものを何一つ拒まれない。主に信頼するものは、なんと幸せなことか。

しかし、旧約の人々がこうして憧れ巡礼で訪れたエルサレムの神殿はすでにイエスの死後、予告どおりに崩壊して今はない。今日では「嘆きの壁」として一部が存在しているばかりである。昔の神殿の麗しい面影はない。
イエスは「この山でもエルサレムでもないところで礼拝するときが来る」(ヨハネ書4:21)と言われ、イエスの宿る、聖霊の宿る私たちの身体こそが神殿とされるようになった。(コリント前書6:19)

そして、人間の手によって造られた幕屋、神殿にではなく、イエスは天に昇られて、そこで永遠の祭司としての位に就かれたのである。

こうして地上の神殿は天上に上げられ、私たちは、この天にある神殿に向けて、地上の巡礼の旅を続けることになる。しかし、たとい、神殿の場所が地上のエルサレムから、天上のエルサレムに遷されたとしても、地上の巡礼者が主の宮の麗しさを憧れ慕う心は変わらない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イザヤ書第二章

2006年09月07日 | 宗教・文化

イザヤ書第二章

永遠の平和と終末の日


アモツの子、イザヤがユダとエルサレムについて見た言葉。

終末の日、主の家の山は、山々の頂上に据えられ、峰々を越えて聳え立つ。
そして、すべての国々はそこに流れ来る。
そして多くの民が来て言うだろう。
来れ、主の山に、ヤコブの神の家に登ろう。
主は私たちに主の道を示される。
そうすれば私たちは主の道を歩むだろう。
主の教えはシオンから、主のみ言葉はエルサレムより来るから。
そして、主は国々を裁き、多くの人々に正義を示される。


彼らは剣を打ち直して鋤に代え、
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かってもはや剣を上げず、
戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、来れ。主の光の中を歩もう。

あなたはあなたの民を、ヤコブの家を捨てられた。
ペリシテ人のように東の国から占い師を呼び寄せ、
異邦人の子供らと睦んだからだ。


彼らの土地は銀と金であふれ、
財宝には限りがない。
彼らの土地は軍馬であふれ、
戦車には限りがない。
彼らの土地は偶像であふれ、
自分たちの手で、自分たちの指で造った物を伏し拝む。
こうして人間は卑しめられ、人は低くせらる。
主よ、彼らをお赦しにならぬように。

岩の裂け目に身を隠し、山の中に隠れよ、
主の恐るべき御顔と崇高と威厳を避けて。
人間の高ぶった眼は低くされ、
人間の横柄は卑しめられる。
その日には、ただ主のみが崇められる。


万軍の主が臨まれる日には、
誇り傲る者はすべて、
高ぶる者はすべて、主が恥をかかせるだろう。
聳え立つレバノンの杉とバシャーンの森の樫の木のすべて、
聳え立つ山々と高い丘のすべて、
聳え立つ塔と堅固な砦のすべて、
タルシシュの帆船と満艦飾の船もすべて、
打倒され、破壊され、沈められる。

傲り高ぶる人は引き倒され、
誇る者は卑しめられる。
その日には、ただ、主のみが独り崇められる。
偶像はすべて滅ぼし尽くされる。

主が立ち上がって大地を揺るがすとき、
栄光と威厳をまとった主の御顔を恐れて
彼らは、岩穴に大地の裂け目に身を隠すだろう。

その日には、自分たちが崇めるために造った金と銀との偶像を、
彼らはモグラやコウモリのために投じるだろう。

主が立ち上がって大地を揺るがすとき、
主の恐るべき御顔と崇高と威厳を避けて
岩穴に、崖の裂け目に逃げ込むがよい。

鼻に息するだけの人間に頼ることを止めよ。


イザヤ書第二章註解

アモツの子、イザヤが黙示のなかに幻に視たユダとエルサレムの姿を書き記したものである。紀元前七〇〇年頃にユダの国に生を享けたイザヤは、ユダの国と聖地エルサレムについてその理想を見た。そこでイザヤが視たのは、永遠の平和と終末の日の姿だった。
主の神殿のあるエルサレムの丘に、諸国民が集い来て上る。主の教えと御言葉はエルサレムより来るとイザヤはいう。二十一世紀に生きる私たちには、それがイエスによってすでに歴史的に実現されていることを知っている。

そして、主は国々を裁かれ、人々に正義を示されて、戦争が永遠に止む時の来ることも記している。人類にとって平和は、究極の理想と言える。プラトンやカントをはじめ、多くの哲学者が、人類にとっての平和の条件を研究してきた。カントはその著書『永遠の平和』を書いて、民主主義と世界政府を通じて人類の平和を追求しようとした。しかし、それは今日なお実現されていないことは、歴史の現実を見て周知のとおりである。

また広島や長崎で「永遠の平和」の誓いは、毎年述べられるけれども、それが夢想にすぎないことを、人類は現実と歴史によって教えられるのである。「平和主義者」がどれほどばら色に人類の未来を描こうと、戦争を無くせぬ人類の業の深さに、いずれ厳粛に頭をたれざるを得ない。

豹がその皮の斑点を消せないように、たとえ頭の中でどれほど平和を願おうと、人類はそのみずからの本性の中から戦争を消し去ることができないのである。人類の実際の歴史と厳粛な現実の前に、「永遠の平和」を語る空しさをやがて思い知らされることになる。                            
とすれば、科学技術を局限にまで発展させた二十一世紀の今日、軍事力を核兵器として実現した人類は、人類の最終戦争を戦わざるを得ないのかもしれない。この第二章の中で、イザヤが「主の日」として述べている「終末の日」とは、イザヤが人類のこの最終戦争を予見して語ったのだ。それは「怒りの日」「裁きの日」とも言われているからだ。

もちろん中国とアメリカ、あるいは、日本と中国が戦争するとしても、それはまだ人類の最終戦争ではないに違いない。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても惑わされてはならない。それらは起きざるを得ないが、まだ世の終わりではない」ともイエスは語っているからである。(マタイ書24:6)

イザヤ書によれば、人類が「永遠の平和」を手にするのは、哲学者の理論や政治家の構想した「世界政府」などによるのではなく、主が国々を裁き、正義を示されるときである。(第四節)

「あなたはあなたの民を、ヤコブの家を捨てられた。」

この一節は、前節とのつながりがよく分からない。前節でイザヤは、人類の恒久平和を預言しながら、ここから一転して、ユダヤ人の腐敗と堕落を告発しているからである。おそらく、イザヤの言葉の断片を編集して「イザヤ書」が造られたからかもしれない。
いずれにせよ、現代のユダヤ人である巨大な富と軍事力をもつアメリカが、その傲慢を募らせるとき、このイザヤの言葉は、その国と民に対する主の審判としての預言となる。

そして、「終末の日」、「万軍の主の日」には、岩の洞窟や大地の裂け目に身を隠すように忠告している。主の恐るべき御顔を避けるためにである。

「鼻に息するだけの人間に頼ることを止めよ。」

いずれ日本も、膨張する共産主義中国と民主主義アメリカの超大国の狭間で、国家としての自由と独立をいかにして確保してゆくかという切実な難問を突きつけられることになる。かってイザヤの祖国ユダも北の大国アッシリアの圧力の前に、国家の自由と独立を守るために苦闘したのである。そのときに、イザヤは、自由と独立を保つために、エジプトを頼らず主なる神にのみ畏れ待ち望むよう警告した。しかし、ユダ国はそのとき西の大国エジプトに頼った。そして結局、国家の滅亡は防ぎきれなかったのである。

このイザヤの政治学は、共産主義中国と自由民主主義アメリカの狭間におかれた日本の取るべき態度を示唆している。現代のエジプトである超大国アメリカにどこまで頼りきれるのか、わが国の政治家は政策を誤らないことである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは離婚を憎む

2006年09月01日 | 宗教・文化


わたしは離婚を憎むと、主なるイスラエルの神は言われる。
お前は邪悪を衣のように身にまとっている。だからお前の心が裏切ることのないように気をつけよ、と万軍の主は言われる。
(マラキ書第二章第十六節)

離婚とはある意味では裏切りである。結婚は神の前に交わした契約である。離婚はそれを破ることであり、裏切ることであるから。人間は心に悪を衣のようにまとっている。だから、その心が裏切って離婚という不正を犯すことのないように忠告する。主なる神が、離婚を憎むのは、人間に対する愛ゆえである。離婚がもたらす罪悪は深く、それは殺人にまで、母や父や娘や息子を殺すところまで行き着くから。秋田連続児童殺害事件

聖書の結婚観については、マルコ書第十章に、イエスの語った言葉として次のように明確に書かれてある。


①神は天地創造の初めから、人を男と女にお造りになった。
②それゆえ、父と母を離れて、男は妻と結ばれて、二人は一体になる。
③だから、彼らはもはや二人ではなく一つの身体である。
④神が結び合わせられたものを、それゆえ、人が離してはならない。

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩篇第九十篇註解

2006年08月18日 | 宗教・文化

詩篇第九十篇

祈り。モーゼ、神の人。

主よ、あなたこそ、代々に私たちの住み家。
いまだ山々が生まれぬ前から、
あなたが地と世界をいまだ造られぬ前から、
永遠から永遠にいたるまで、あなたは神。
あなたは人を土に帰して言う。
「帰れ、人の子よ」
まことに千年といえど、あなたの目には
まさに昨日の昼のように過ぎ去り、
また夜の見張りの一時のよう。
あなたは人を眠りのうちに流し去る。
朝には草のように萌え出で、
朝には花のように咲き出で、
夕べには、刈られて枯れる。
まことに、私たちはあなたの怒りによって燃え尽き、
あなたの憤りによって恐れ惑います。
あなたは私たちの不正を御前に置き、
私たちの隠された悪をあなたの御顔の光にさらされる。
まことに、我らの日々はすべて、あなたの怒りの中を過ぎ、
私たちの生涯はため息のように尽きます。
私たちの齢は七十年。
たとえ健やかであっても八十年。
しかもそこに得たものは苦しみと災い。
瞬くうちに過ぎ去り、私たちは飛び去ってゆく。
誰があなたの怒りの力を知っているのか。
あなたの憤りを畏れるように。
私たちの生涯の日々を正しく数えることを教えて、
私たちの心に知恵を得させてください。
戻って来てください。主よ、いつまでなのか。
あなたの僕らを憐れんでください。
朝に、あなたの愛に満ち足りれば、
私たちは生涯を喜び歌い、祝うでしょう。
あなたが私たちを苦しめられた日々と、
私たちに災いを降された年々に応じて、
私たちを喜ばせてください。
あなたの僕らにあなたの御業を見させ、
彼らの子供たちのうえにあなたの栄光を現わしてください。
そして私たちの神、主の恵みが私たちの上にありますように。
どうか私たちの事業を確かなものに、
どうか私たちの事業を揺るぎなきものにしてください。

 

詩篇第九十篇註解

主なる神の絶対性と永遠性、それに対する人間の有限と果敢なさ、敬虔な神の人、モーゼの嘆き。

詩篇の中にはダビデ作とされるものが圧倒的に多いが、この第九十篇はモーゼの祈りとされている。モーゼの生涯については、いわゆる『モーゼの五書』の中の「出エジプト記」から、「申命記」に至るまでに記録されている。それによれば、モーゼはエジプトの王女の養子として、当時の最高の教育を授けられて育てられたようである。

いずれにせよ、モーゼはユダヤ教、イスラム教、キリスト教の父といってもよい存在である。これらの宗教は「モーゼの五書」を根底に据えることによって、精神的な類縁関係にある。彼がいなければこれらの宗教もなかった。現代のユダヤ人も現在のような形で存在していたかどうかわからない。モーゼがいなければ、キリストもマホメットも存在しなかった。それほどにモーゼは、人類の歴史の核心に位置する人物である。

モーゼは十戒をはじめとするさまざまな律法の規定を彼自身の民族に課したが、何よりも特筆されるべきは、唯一神教に代表されるこの宗教の世界観であろう。その神は天地、宇宙の創造者として唯一である。唯一であるがゆえに絶対的でありまた排他的である。そうした傾向を、ユダヤ教イスラム教キリスト教は共通の精神的な母胎としてもっている。

モーゼの生涯やその宗教の特質についての詳細についても興味はあるが、ここでは深くは立ち入れない。これからも詩篇に読みとれる限りで、モーゼの精神と思想に触れてゆきたいと思う。ユダヤ教やイスラム教、またキリスト教の精神を研究しようとすれば、当然にその母胎であるモーゼの宗教に、さらには、この民族の始祖であるアブラハムやこの中東地域の伝統的な宗教の司祭であるメルキデセクらの宗教にも触れざるを得ない。しかし、この地域の宗教の歴史的な発展に根本的な影響を及ぼしたのはモーゼである。モーゼの宗教はこれらの民族の宗教の集大成として存在する。

主よ、あなたこそ、代々に私たちの住み家。

主は、世々に私たちの住む所であることをモーゼは歌う。ヤーベ神は、モーゼにとって永遠の隠れ場、住み家、逃れ場である。この神は、天地、宇宙が創造される前から、そして、永遠の昔から未来永劫にわたって存在する神として知られている。モーゼ五書の劈頭の書『創世記』にも記されているように、この神は天地創造の神であり、また、人類の造り主でもある。土から人を造り上げた神はまた、人間にとって「主」としても存在する。この神は、人間に命令し人間を支配する。また人を限り有る存在として土に帰す。主の永遠性に比すれば、人間とは実にはかない存在である。

主なる神にとって、千年や二千年は、人間にとっての一日のように、時間の長さを超越した存在である。それに比して、人間の生涯はなんと果敢ないことか。それは、果敢なく空しいものの象徴である草や花にたとえられる。その生涯は眠りの中の夢のように果敢ない。モーゼは、永遠の存在者との対比において人間の果敢なさ、空しさを歌う。

仏教でも同じように、「朝の紅顔、夕べの白骨」として人間の命の果敢なさは捉えられているが、仏教の基調は無であり空の上に立てられた果敢なさである。そこには、唯一神の存在はなく、また、人間の隠された悪を憤りと怒りをもって裁く「人格」としての神もない。それに対して、モーゼの宗教では絶対者であり永遠者である主なる神を前にして、おそれ慄く人間がいる。

周知のようにモーゼにおいては、神が絶対的唯一神として、かつ人格的、倫理的存在として捉えられていることである。これが、モーゼの宗教を他の諸宗教から区別する隔絶して異なる根本的な点である。モーゼの宗教に比べれば、他の諸宗教の倫理的な意識は、朦朧としたベールのなかにある。

モーゼもその生涯にさまざまな苦難と試練の中を生き抜かざるを得なかった。彼が生涯に出会った苦難は、エジプトにおける彼の同胞たちを奴隷的な境遇から解放するためであった。そのためにモーゼは、彼が育ったエジプトの王宮の快楽に満ちた生活を捨てた。(モーゼの生涯の内容については「出エジプト記」や「民数記」「申命記」などに詳しく記録されている。)そのためにモーゼは、近隣の異民族、異教徒たちに対してだけではなく、同胞たちの堕落とも戦わなければならなかった。モーゼの死の苦しみは、主の怒り、主の憤りによるものだった。

モーゼは生涯の苦しみは、主の御怒りによるものであり、それは、隠された罪のためである。その苦しみのなかに、彼の生涯はため息のように尽き果てようとしている。仏教もまた苦の諦観の中に人間を置くが、しかし、仏教は本質的に無神論であるか多神教であるから、無や空を観照する中で救いを得ようとする。それに対し、モーゼの神は絶対者であるから、その仲介者無くしては救われない。

誰があなたの怒りの力を知っているのか。
あなたの憤りを畏れるように。

モーゼはそうした苦しみの中に人間に与えられた生涯の時間が瞬く間に消え失せてゆく空しさを歌うとともに、絶対的な裁きとして現れる主なる神の威力に対する畏れを教える。

また、人間の生涯は短く、その日数も数えられる。人間はいつか必ず死ぬ。それによって、みずからの有限性を悟り、心に知恵を得られるようにと祈る。モーゼの神は生ける人格神として、人間の精神と直接にかかわることで、その祈りは生きて躍動するダイナミックなものとなっている。

戻って来てください。主よ、いつまでなのか。
あなたの僕らを憐れんでください。

モーゼの生涯も、イエスと同じように苦しみに満ちていた。その苦しみの中から、モーゼは主なる神の愛と憐れみを求め、苦しみに応じて喜びと楽しみを賜ることを祈る。モーゼの詩のこうした祈りを読むとき、これと同じ精神がイエスや聖書のその他の預言者の中にも貫かれていることがわかる。このモーゼの祈りは、その千数百年後に生きたイエスの祈りでもあった。

モーゼは彼の民族に、呪いと祝福を与えたが、呪いが本意でなかったことはいうまでもない。モーゼは彼の子孫のために、主の栄光を、神の摂理を見つめることを祈り、主の喜びが彼らの頭の上に留まることを祈った。

そして最後に、モーゼは彼の仕事が確かなものとなるように祈る。
モーゼの使命とは、彼の民族を宗教的に導き、神の民とすることであった。その使命が永遠に揺るぎなく果たされることを祈る。


このモーゼの祈りは、神に聴き入れられたか。それは人類の歴史を見ればわかる。モーゼの事業は、イエスに受け継がれ、マホメットに受け継がれて、永遠に揺るぎなきものになっている。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第六十七篇註解

2006年07月21日 | 宗教・文化

詩篇第六十七篇

指揮者たちは、賛美の歌を奏でる。

神が私たちを憐れんでくださるように。
また、私たちを祝福してくださるように。
どうか御顔を私たちの上に輝かせてください。
あなたの道が世界に知られ、すべての異邦の民があなたに救われますように。
神よ、すべての人々があなたに感謝しますように。
人々が皆、あなたに感謝しますように。

すべての国民は喜び、歓びに歌え。
あなたはすべての国民を公平に裁き、
地上のすべての国民を導かれるから。

神よ、すべての人々があなたに感謝しますように。
人々が皆、あなたに感謝しますように。セラ (強調の音符) 

大地は豊かに作物を実らせ、
神が、私たちの神が、私たちを祝福してくださる。

神が私たちを祝福してくださる。
地の果てにいたるまで、すべてのものが神を畏れるように。

第六十七篇註解

神は私たちを憐れみ祝福してくださる方であるが、また、怒り裁く方であることも知っている。だから、私たちは怒りや裁きではなく憐れみと祝福を求める。神は愛する方であるから。

父である神の御顔は、イエスの顔にもっともその輪郭をあらわしている。その御顔の輝きに私たちが照らされ、父なる神の意思とイエスの御心が世界中に知られるとき、そのときこそはユダヤ人だけでなく異邦人も救われるときである。

詩人は、すべての諸国民が神に感謝を捧げることを勧める。神は諸国民を偏り見られることなく公平に裁かれ、また地上のすべての国民を教え導かれるから。

また、神は豊かな実りと産物で私たちを祝福してくださる。
この地球はどんなに豊かなことだろう。稲や麦、果実などの大地の収穫と、大海原を覆い尽くすような魚の大群によって、日々の糧を恵んでくださる。
それゆえに詩人は、この慈しみ深い神をすべての人が敬い畏れるように勧める。

勤労感謝の日や感謝祭などに歌われ祈られるべき感謝の詩である。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩篇第三十二篇註解

2006年07月19日 | 宗教・文化

第三十二篇

ダビデの教訓詩。

幸せだ。その咎が取り去られ、その罪を許された者は。
幸せだ。主にその不義を数えられず、心に偽りを持たない者は。

私は沈黙を続けたが、私の骨は終日のうめきによってくたびれ果て、
昼も夜もあなたの御手は私に重くのしかかり、
私の喉も、夏の日照りに涸れ果てた。セラ。

私はあなたのみ前に私の罪を認め、咎を隠さなかった。
私は言った。主に背いたことを私は告白しよう。
すると、あなたは私の罪を赦された。セラ。
だから、神を敬う人はすべてあなたに向かって祈る。
あなたを探し出せる間に。

洪水のあふれるときも、その人には及ばない。
あなたは私の隠れ家。私を苦しみから守られる。
私はあなたに救われて歓びの声をあげた。セラ。

主は言われる。私はあなたに歩むべき道を教え諭し、
あなたを見守り導く。
あなたは馬やラバのように、愚かでかたくなになるな。
くつわと手綱であなたに近づかないように
それらは押さえつけなければならない。

悪しき者には悩みが多いが、
主に依り頼む者は愛に恵まれる。
だから歓び踊れ、正しい人よ。主によって喜べ。
心のまっすぐな人はすべて、歓びに叫べ。

 

詩篇第三十二篇註解

神に反抗したのに、その咎が取り去られ、神の戒めに背いて悪を犯したのに、その罪をとがめられず許された者は、幸いであるという。

神の愛は人間の罪を許し、人間の犯した罪を忘れ、彼の犯した罪がなかったようにみなす。それは、神が愛そのものに他ならないから。その姿はイエスの中に目の当たりに見られる。「娘よ。あなたの信仰があなたを癒した。安心して行きなさい。もう病み患うことはない」とイエスは言われた。(マルコ書5:34)

冒頭に「ダビデのマスキール」とある。「マスキール」の正確な意味はわからないらしい。だから、そのまま訳されずに使われている。第8節の冒頭の「スキルハー(目覚めさせる、悟らせる、賢くする)」と語形が似ていることから、教訓や黙想を目的とした詩ではないかと言われている。文語訳では「訓諭(をしへ)のうた」となっている。英語訳には「告白と許し」という標題が付けられている。


この詩篇のテーマは「幸福な者とは誰か」である。それについての教訓を与える。私たちが詩篇を読むとき、単に祈りとしてばかりではなく、その一つ一つの語句の意味について深く考え、黙想し、そこから智恵や教訓を学ぼうとする。聖書の言葉は神の智恵の結晶であるから。ただ、その智恵は奥深く隠され(ヨブ記11:6)、人間の思いとは異なっている(イザヤ書55:8)という。

確かに、それは幸福についての考えにもいえるかも知れない。ここでは「神の戒めに背いたのに許された者、犯した過失を覆い隠された者」が幸せであるという。同じ詩篇の第一篇では、「主の教えを愛し、悪人と共に歩まない者」が祝福された者(アシュレー)、幸せな人とされ、さらに新約聖書においては、「謙虚な人(心の貧しい人)」「柔和な人」「悲しむ人」「正義を切望する人」「憐れみのある人」「心の清い人」「平和のために働く人」「正義のために迫害される人」たちは幸せであると言う。(マタイ書五章、ルカ書六章など)

こうした幸福観は、現代の日本の世間に一般的な考え方と比較してみればまったく異なっているように思われる。とくにキリスト教の幸福観については、まるで不幸が幸福で、幸福が不幸だといっているようにさえみえる。

いずれにせよ、今ここでは詩人は明らかに、幸福ではない。主の戒律に背き、過失を犯してしまったからである。しかもそれを心に秘めて沈黙を守っていたとき、主のみ手が、彼の良心に昼も夜も重くのしかかって来る。骨まで古びるようなその苦痛に詩人はうめき、夏の日照りに会ったように喉も渇ききろうとしている。

そこで詩人は耐え切れず、自分の犯した罪を認め、自分の犯した悪行を主の前に隠さずに告白することを決心する。そして、詩人が「自分の過ちを包み隠さず主に告げよう」と言ったとき、主は彼の犯した不法の罪をすべて許してくださった。だから詩人は忠告して言う。主に忠実な人々はみな、主を見出しうる間に、許しを求めて祈るべきであると。

そのとき困難が洪水のように押し寄せても、その人には及ぶことがない。主は苦難から詩人を守る隠れ場であるから。そして何よりも主は、救いの喜びを与えてくださる。

こうして、詩人は主に救われる歓びを知った。そして主は彼に言われる。あなたを悟らせて、あなたが歩み進むべき道を教えよう。そして忠告して言われる。馬やラバのようになるな。それらは鞭や棍棒でなければ言うことをきかない。分別や悟りもない。また危険だからそれらに近づくことのないようにと。

悪を行う者には悩みが多い。しかし、主に信頼するものは、主の愛によって守られる。罪の許されることがどれほど幸せなことか。だから、主に救われた正しい人は主において歓び踊れ、心のまっすぐな人は歓びに叫べと。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩篇第五十四篇註解

2006年07月15日 | 宗教・文化

詩篇第五十四篇

指揮者たちの調べに乗せて。ダビデの教訓詩。
ジフの人々が来て、サウルに「ダビデが私たちのところに身を隠しているのではないか」と告げた。

神よ、あなたの御名によって私を救ってください。
そして、あなたの力によって、私を裁かれよ。
神よ、私の祈りを聴いてください。
私の語る言葉に耳を傾けてください。
私の見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、
凶暴な者たちが私の命を求めています。
彼らには自分の前に神はない。
見よ。神は私を救う者。
主は私の魂を支えられる。
私を狙う者たちに災いを返し、
あなたの真実によって、彼らを滅ぼしてください。
よろこんで私はあなたに生けにえを捧げ、
あなたの御名に私は感謝します。
主よ、それは良いことですから。
主はすべての苦難から私を救い出し、
私のこの眼に敵の滅亡を見せたからです。


詩篇第五十四篇注解

ダビデのこの詩の生まれた背景は、旧約聖書サムエル前書第二十三章第十五節以下に書かれてある。
ダビデの名声が高まるにつれて、ダビデの主人サウルは自分の地位に不安を抱くようになり、ついにはダビデの命さえ付け狙うようになった。そのため、ダビデは荒野に逃れ、その要害の地にひそみ、ついにはジフの森に身を隠さなければならなかった。そのとき、ダビデを励ましたのが、サウルの長子ヨナタンだった。

そのときジフの人々は、サウルの許に来て、ダビデが自分たちの所に身を隠していることを告げた。それで、サウルは従者を引き連れ、ダビデの命を求めてジフの森の要塞にまで来た。そうした絶体絶命のときに、ダビデが主なる神に救いを求めて祈ったときの詩である。敵との戦いや苦難のときに救いを求める時の祈りとして読むことが出来る。

「教訓詩」と訳した「マスキール」の意味はもともと教えとか賢明なという意味らしく、そうした意義のある詩をマスキールと呼んだと思われる。

「御名によって私を救ってください。」
名は体を表すというが、神の御名は、神そのものでもある。だからユダヤ人は神の御名をみだりに唱えなかった。神みずから、ご自身で救ってくださるようにとダビデは祈る。

「力によって裁き」
裁きとは、力の行使に他ならない。歴史とは神による力の行使であり、また裁きでもある。ダビデは祈りと言葉によって、神の裁きを願う。
ダビデにとって異邦の民ジフの人々は、ダビデに抗って立ち、いまやダビデの敵サウルを案内してやってくる。ジフの人々は神を知らず、神を前にして祈ることもない凶暴な人々である。

しかし、祈りに応えて、神がダビデを助けられる。それは言葉ではなく確かな事実である。その恵みは現実である。だから、その事実を「見よ」(ヒネー)という。

「あなたの真実によって、彼らを滅ぼしてください。」
主は誠実な方、だから、真実にしたがって報いられる。これはダビデの変わらぬ確信だった。このときも、使者が来てペリシテ人が侵入してきたことをサウルに告げたために、サウルはダビデを追跡することを中止して急きょ引き返さなければならなかった。

救われたダビデは、喜んで神に感謝の犠牲を捧げる。感謝の祈りといけにえとを捧げられるのは素晴らしいことである。なぜなら恵み深い主は、すべての苦しみと悩みからダビデを救い出し、敵の敗北をダビデの眼に見せたからである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雅歌第八章

2006年07月03日 | 宗教・文化

雅歌第8章

1.(娘)
もしあなたが、私の母の乳房を吸った私の兄弟でしたら、
外であなたを見つけて口づけしても、誰も私をさげすまないでしょう。

2.私が育った母の家に、あなたをお連れして、
ぶどう酒やざくろ酒の、かぐわしい飲み物を差し上げましょう。

3.あなたの左手は私の頭の下に、右手は私を抱きしめて。

4.エルサレムの娘たちよ。私はあなたたちに誓ってお願いします。どうか、愛がおのずから望むまでは、ことさら起すことも目覚めさせることもないように。


5.(女たちの合唱)
恋する者に抱かれて、荒れ野から上ってくるのは誰ですか。

(娘)
りんごの樹の下で、私はあなたを呼び覚まします。
あなたの母はここでみごもり、苦しみのなかから、あなたを産みました。


6.
あなたの心に、私を印章のように刻み、
あなたの腕に、 私を印章のように刻んでください。


(女たちの合唱)
愛は死のように強く、妬みは墓のように残酷です。
愛は炎をあげて燃える石。激しく火花を散らす。

7.どんな大雨もそれを消し鎮めることは出来ない。
どんな洪水もそれを流し去ることは出来ない。
もし人が、住む家を抵当に入れて愛を買おうとするなら、
その人はさげすまれる。

8.(娘の兄弟たち)
私たちには幼い妹がいる。まだ乳房もない。
妹が求婚された日には、私たちはどうすればいい。

9.もし妹が城壁ならば、その上に銀のやぐらを建てよう。
もし妹が城門ならば、レバノン杉で打ち固めよう。

10.(娘)
私の胸は城壁で、乳房は二つの塔。私の愛しい人の眼には、それは歓びと安らぎです。

11.(女たちの合唱)
ソロモンはぶどう園をバアル・ハモンというところに持っていた。彼はそれを農夫に貸した。彼はぶどうの収穫のためにソロモンに銀貨一千を納めた。

12.(農夫たち)
ぶどう園は私たちのもの。ソロモン様、ぶどう園からの銀一千はあなたに、銀二百は農夫たちに。

13.(若者)
園に住まう愛しい人よ。友はあなたの声に耳を傾けています。どうか、どうか私にもあなたの声を聴かせてください。

14.(娘)
急いで、愛しい人。香り草の生える山にいる雄鹿や小鹿のように。

 

雅歌第八章注解


雅歌は、「ソロモンの歌」とも訳される。全篇はギリシャ歌劇のように、小さな戯曲としても味わえるのではないだろうか。

登場人物

若者(ソロモン)

合唱するエルサレムの女たち 

娘の兄弟たち

農夫たち

第八章はその最終章。とうとう最後になって、愛し合っている若者(ソロモン)と娘はお互いを見つけ出す。それまでは二人は互いを求めても見出せず、恋の病に冒され患ってさまよっていた。

とうとう恋する憧れの人ソロモンを見つけた娘は、彼を自分の生まれ育った母の家にいざなう。ソロモンは娘の本当の兄弟のようで、街角で口づけしても気にとめる人はいない。

娘は、母の家、自分の育った部屋に、取って置きのザクロ酒やぶどう酒をソロモンに用意している。それは彼女の愛の証し。しかしまた、娘は愛みずからが望むまでは、ことさらにそれを眼ざませることのないように、エルサレムの女たちに誓わせる。

娘は若者にいだかれて荒れ野を上って来る。そこに一本のりんごの樹があった。知恵の実をつけるりんごの樹。そのりんごの樹の下は、若者の母が身ごもったところ。そこで、娘は自分の愛が若者の身と心に刻まれることを願う。

愛とはどのようなものか。エルサレムの女たちは歌っていう。
愛は死のように強く、愛の妬みは墓のように残酷であると。
その熱情は炎のように燃え、大雨も洪水も消し鎮めることができない。
その愛を金で購おうとする者は軽蔑される。


娘の兄弟たちは、妹の純潔を心配してどう守ろうかと気遣う。しかし、娘は自分の乳房が若者を慰めることを知っている。
ソロモンはぶどう園をもっていた。そして、その管理を農夫たちに任せていた。そこから、地代としてソロモンは銀貨一千枚を得、農夫たちには労賃として銀貨二百枚を手渡す。

若者は、ぶどう園に住まう娘のきれいな声を聴きたいと思い、娘は早く若者が羊を世話する山から、小鹿のように自分のもとに駆け降りてくることを願っている。

ユダヤ人たちはキリスト者と同じように、自分たちを娘になぞらえ、若者ソロモンの愛を、父なる神の彼らへの愛の象徴と見る。若いソロモンの愛はまた、イエスの愛の前表でもある。


雅歌も黙示録のように、シンボルとして比喩として事柄を表現しようとしていて、その注解は難しい。どこまで正確を期せるかどうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩篇第八十七篇注解

2006年06月06日 | 宗教・文化

詩篇第八十七篇

賛歌。コラの子供たちの歌。


主の礎は聖なる山々の中にある。
主はシオンの城門を、ヤコブのどんな住まいにも優って愛される。
あなたの、神の都の栄光は語られる。セラ。
エジプトもバビロニアも私を知る者として思い起こす。
エチオピアと共にパレスチナとティラを見よ。
彼らもこの都で生まれた。


シオンについては言われている。
この人もあの人も主の都で生まれたと。


いと高き方ご自身がこの都を堅く定められた。
諸国の人々を記録するとき、主はその者たちをここで生まれたものとして
数えられるだろう。セラ。


歌う者も、奏する者もすべて言う。
シオンこそ私の泉であると。

 

詩篇第八十七篇注解

ここでは、イスラエルの神の特殊性と普遍性が告げられている。イスラエルの神、モーゼの神は、シオンの山々をユダヤの民の幕屋に優って愛され、この山に礎を置かれている。そして、その栄光はあらゆる人々に語られる。

このシオンの山々は、ただにユダヤ人のみならず、エジプト人もバビロニア人もすべて、主を知る人々として、そして、この都に生まれた者として主に記憶されている。

パレスチナ人もフェニキア人もエチオピア人もすべての国民が、このシオンの都で生まれた者として、主に記録され数えられている。こうして主は単にユダヤ人の神であるばかりではなく、全人類の神であることを示される。
このシオンの都から、命と恵みのすべてが湧き出てくる。

文中の「セラ」 (CELAH)の意味はよく分からないらしい。強調の音符とも言われている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エリヤの生涯

2006年04月19日 | 宗教・文化

エリヤの生涯

旧約聖書のなかの預言者エリヤの生涯の軌跡については、聖書のなかのいくつかの個所にたどることができる。エリヤというのは、「ヤーウェは神なり」という意味で、ヤーウェは固有名詞、神は本質を示す普通名詞である。旧約聖書なのなかでエリヤが初めて登場するのは、列王記上第十七章である。この列王記は、エルサレムを治めたダビデ王の晩年の描写から始まる。

ダビデ王の事業は息子のソロモン王に受け継がれ、成就される。賢君ソロモン王の治世は、ユダヤ民族の歴史の中でもっとも輝かしい時代として記憶されている。およそ三千年前に、ソロモン王によって築かれた神殿は、その後バビロニアによって破壊されるが、その残された遺跡は、「嘆きの壁」として、今日もユダヤ人たちの祈りの場になっている。

ダビデの犯した罪の結果として、王国はやがて北のイスラエルと南のユダに分裂する。列王記は、ユダヤの民が、北方の民族バビロニアの王ネブカドネザルによって滅ぼされるまでを記録した歴史物語である。この分裂した二つの王国を治めた王たちの事跡が、預言者の眼から記録され評価される。日本で言えば、さしずめ天皇を中心に紀伝体で編んだ「大鏡」や「太平記」のようなものである。ただ、そこに一貫する根本の思想は、モーゼの戒律に忠実な国や民族は栄え、それに背く王と民衆は滅亡するというものである。イスラエル民族の現実の歴史は、それを実証するものとして語られている。

列王記の前半は、ダビデ王の晩年と、その王位継承をめぐる争いとソロモン王の王権の確立の描写から始まり、そして、類まれなソロモン王の知恵と、その統治下の民族の富と繁栄が、壮大な神殿の建築やその他の事業の様子が語られる。しかし、エリヤが登場するのは、ユダヤの王と民衆の神からの離反によって、やがて王国が堕落し分裂を招いた後の、第十七章からである。イスラエルの王アハブの治世下に生きたエリヤは、ギレアドの住民で、ティシュベ人と記録されている。

エリヤは、イスラエルの王であるアハブに旱魃を予言する。だが、アハブ王の妻イゼベルは、異教の神バアルを崇拝していたから、エリヤは主の命じられたとおり、ヨルダンの東にあったケルト川の辺に身を隠して暮らさざるをえなかった。そこで、エリヤは烏たちの運んでくるパンと肉で身を養った。しかし、その川もやがて涸れてしまった後、さらに北方の異邦との国境シドン地方のザレプタに行き、その地の一人のやもめに養われたと記録されている。

その地に滞在する間、二つの奇跡のあったことが記されている。そのやもめが持っていた──彼女は名前すら記録されていない──壷の中の、小麦粉が尽きることのなかったこと、そして、瓶の中の油も無くなることのなかった。だから、彼らは飢えることもなかった。そして、もう一つの奇跡は、やもめの女主人の息子が病気で一度は死んでしまうが、エリヤがその息子を生き返らせたことである。息子を失ったことをエリヤのせいのように苦情を言い立てる、この女やもめがいじらしい。

エリヤの生涯は、異教の神バアルとその預言者たちとの戦いであったことが伺われる。アハブ王の妻イゼベルが、主の預言者の多くを迫害し殺したことも記されている。彼女を通じて、イスラエルの王と民衆は異邦人の神に惹かれつつあった。ユダヤの民衆は、彼らの祖先の神であるヤーウェと、イゼベルがもたらした異教の神バアルとの間で迷っていた。そのとき、エリヤはただ一人残ったイスラエルの主なる神の預言者として、バアルの預言者四百五十人に立ち向かい、民衆に決断を迫る。

いずれの神が真実の神であるか。燔祭のために犠牲にされた牛に、燃え尽くす火で応じた神こそが本当の神である。バアルの預言者たちも神の名を大声で叫んだ。その際に彼らは槍や剣で自分たちの体を傷つけながら祈祷する。彼ら独特の宗教の様子が描写されている。しかし、彼らの祈りには何の応答も無かった。だが、エリヤの祈りに対しては主は、空から火を降し、いけにえを焼き尽くすことによって応えられた。こうしてエリヤは勝利し、民衆もヤーウェこそが真の神であることを認め、バアルの預言者をすべて、キション川の辺で殺してしまう。(同第十八章)

しかし、ユダヤ民族の宗教を守り純化したエリヤも、アハブ王の妻イゼベルの報復を恐れて、シナイの山に遁れざるをえなかった。言うまでもなく、この山はモーゼが燃える柴の中から神の啓示として十戒を授かった場所である。エリヤは主のみ使いに助けられ、四十日四十夜歩きつづけてモーゼのかって立った神の山に登る。そして、モーゼと同じように神の啓示を受けて、エリシャ──神は救いという意味──を後継者として見出す。

エリヤの生誕や彼の家族、幼少期や青年期にのことについてなど、その他のエリヤの生涯については記されていない。ただ、彼が「毛皮の衣を着て、革の帯を締めていたこと」(列王記下第一章)と、彼の最期が「火の馬に引かれた火の戦車が現れ、そのときの竜巻によって天に引き上げられた」(同第二章)などと描写されているのみである。エリヤの生涯について知り得るのは、わずかにこれくらいである。

エリヤは後世にどのように認められているか。それについては、旧約と新約とをつなぐ、旧約の最後の預言書マラキ書の中では、主の来臨の前には預言者エリヤが遣わされると預言されている。(マラキ書第四章)

さらに新約聖書では、エリヤは洗礼者ヨハネとなって現れたという。(マタイ書第一章)そして、イエス自身も在世時には人々から「エリヤ自身の現れ」とも言われている。(マタイ書第十六章、ルカ書第九章)
また、イエスのご変容に際しては、モーゼとエリヤが現れてイエスと語り合ったと記されている。このように、イエスにとってもエリヤはモーゼと並ぶ重要な預言者とされている。(マルコ書第九章、マタイ書第十七章)

イエスご自身が故郷の人々に受け入れられなかった時にも、エリヤを引き合いに出して、イスラエルにも多くのやもめがいたにもかかわらず、その中の誰一人にもエリヤは遣わされずに、シドン地方のサレプタに住む異邦人である寡婦に遣わされたと皮肉に語っている。(ルカ書第四章)

そして、十字架上でイエスが最期に大声で叫ばれたときにも、人々の耳には、「エリヤを呼んでいるように」も聞こえたという。(マタイ書第二十七章)
パウロの神学の中では、エリヤは異教の神バアルに跪かなかったイスラエルの神に忠実な七千人を象徴する一人として取り上げられ、(ロマ書第十一章)、十二使徒の一人ヤコブには、エリヤが私たちと同じ人間でありながら、熱心に祈ったために三年半も雨が降らなかったとして、祈りの持つ大きな力を証明した預言者として取り上げている。新約聖書の中でも重要な預言者として評価されているといえる。

列王記や歴代誌に垣間見ることのできるエリヤやエリシャの生涯は、国内外のさまざまな敵や異民族との軋轢や殺戮にまみれた困難なものだった。この中東の困難な歴史は現代にまで続く。

昨日もテルアビブで自爆テロがあったばかりである。聖書の列王記や歴代誌に記録されているように、ユダヤ人の先祖たちと、シリア人やパレスチナ人の祖先であるアラム人、フェニキア人、モアブ人、ペリシテ人たちとの軋轢や戦争は、イスラエル・パレスチナ問題として、二十一世紀の今日にいたるまで連綿として続いている。かってバビロニアとしてエルサレムを陥落させた今日のイラクも、新生民主国家の建設に苦闘している。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする