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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

宗教と民主主義

2006年04月16日 | 宗教・文化
"「名前だけで殺される」、イラク宗派対立で改名申請殺到 (朝日新聞) - goo ニュース"

"アフガンでキリスト教改宗者を逮捕・起訴=欧米が非難の大合唱 (時事通信) - goo ニュース"

"イラク国民議会あす再開 首相問題なお難航 (産経新聞) - goo ニュース"

イラク戦争に先立って、アメリカの手によって自由と民主主義へと向かってタリバン政権から解放されたはずの新生アフガニスタンで、キリスト教に改宗した男性が逮捕され起訴されたというニュースがあった。

このニュースが明らかにしている真実とは何か。それは、非キリスト教国民の間に民主主義国家を建設することの困難さである。

宗教は、国民や民族の精神的な基盤である。アメリカには、特にネオコンと称される人々は、中東の国々に対して民主主義の使徒として働こうとしている人物が多いが、その困難を彼らがどれほど深刻に理解しているだろうか。イラクでは、国民議会の開催を巡って今も紛糾している。

民主主義の導入は、もちろん、その民族や国民にとっては政治的に解放されることを意味する。しかし、アフガンのこの男性がキリスト教に改宗しても、「国家」はそれを認めようとはせず、欧米諸国の助命と嘆願によってかろうじてイタリアへの亡命が認められたに過ぎない。

この例に見るように、国家のみならず、国民や民族が宗教的に解放されないまま、政治的に解放されることがどれほどに茶番に等しいことかが分かる。宗教改革も体験せず、自由についての意識も自覚も不充分なアフガニスタンやイラクの国民や民族が、民主主義国家を創立し運営してゆくことの困難がここにある。

アメリカのブッシュ大統領は、いとも気楽に「中東の民主化」を口にするように思える。そして、彼が好んで口にするのは、旧敵国天皇制日本のアメリカによる民主的な改造であり、そのモデルの象徴的な人物としての小泉首相である。イラクの民主化は戦後日本に範をとるという。

しかし、小泉首相の靖国神社問題への対応に象徴されるように、国民の自由について自覚はまだ未熟である。イラクやアフガニスタン同様に、宗教改革を経験していない日本人の政治的解放が、どれほどの悲喜劇をもたらしているかは、戦後六十年の今日に至るまで、国民自身の手による民主主義の実現が道半ばにある現代日本の現状を見ても分かることである。宗教改革を主体的に実現しなかった民族は、自由や民主主義をさほど切実に要求しない点においても、藤原正彦氏に見られるように、日本人においても、アフガン人もイラク人も大した差異はないという現実がある。 

 

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信頼すべきもの

2006年04月10日 | 宗教・文化

人に信頼する者、主に信頼する者(エレミヤ書第17章第5節~第8節)

主はこのように言われる。
呪われよ、人に信頼する者。
肉に過ぎない人間を右腕と頼みにする者、
その心が主から離れ去った者は。
彼は、荒野の枯れ木のようだ。
恵みの雨を見ることもない。
彼らは荒野の熱く乾いた土地に、
不毛の塩の土地に、
住むことになるだろう。

祝福されよ、主に信頼する者。
主を待ち望む者は。
彼は水辺に植えられた木々、
川辺に根を張り、
暑さに見舞われることもなく、
その葉はみずみずしい。
旱魃の年にも悩みはなく、
いつまでも実を結ぶ。

────────────────────

聖書のエレミヤ書のこの一節は何を私たちに告げ、教えようとしているのだろうか。
ここでは、私たちの前に、二者が対置されている。一人は、私たちと同じ肉の人、もう一人は主なる神。どちらを信頼すべきか。
この肉なる人の中には、当然に指導者や金持ち貴族も含まれる。要するに、人間一般である。
この一節は、人間を信頼するな、ただ主なる神のみを信頼せよ、と教えている。

ユダヤ教では、この主は、天と地の創造主であるが、キリスト教では、この主は、三位一体の神である。それは創造主であるとともに、イエス・キリスト、そして聖霊である。

新約聖書の立場からは、三位一体の神にのみ信頼せよ、人間に信を置くなという。現代日本でいえば、神に信をおかずに、小泉首相や小沢一郎氏に信頼するものは呪われよ、ということになる。聖書の人間観は、基本的に性悪説だから、こういう結論になるのかもしれない。究極的にはこのような選択を覚悟しておくべきだというのだろう。極限状況にあっては、自己と神にのみ頼ることになる。バビロニアの捕囚で人間の惨劇を体験したエレミヤの言葉らしい。

ここでは主なる神に信頼する者は、川の辺に植えられた木々に喩えられている。主から離れず、いつまでも主に希望をおく者は祝福され、いつまでもみずみずしく実を結ぶと言う。砂漠の土地に生きた詩人になる歌である。この節ではエレミヤは明らかに詩篇第一篇のモチーフを念頭においている。

 

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永遠の命──ヨハネ書第六章第四十節

2006年03月18日 | 宗教・文化

私の父の御心は、子を見て信じる者がすべて永遠の命を保つことであり、終わりの日に私が彼を蘇らせることである。

 

父──天に在られる父なる神、創造主。
子──イエス。キリスト。創造主を父とする者。
御心──望み、成し遂げようと欲しておられる気持ち。
信じる──真実であると考えること、事実として認めること。
永遠の──始まりも終わりもないこと。時間を超えていること。
命──絶対的な豊かさ。生き生きとした活動性。死んでいないこと。
私──イエス。人間性をまとったロゴス(理性)。受肉した神。
終わりの日──時間の終わる時。最後の審判が行われて神の国が完成する日。    
蘇り──死んで横たわっていたものが起き上がること。死から生き返ること。            

ヨハネ書第六章には、イエスがいくつか奇跡を行ったことが記されている。一つは大麦のパン五つと魚の二匹で、五千人の群集を満腹させられたことである。もう一つは、イエスが湖の上を歩いて、沖合いの舟のところまで歩いて来られたことである。

イエスに満腹させてもらった群集は、彼を自分たちの王にして、引き続き飢えを満たせてもらおうとしてイエスを探し回っていた。イエスの奇跡の意味を理解したからではなかった。


イエスを見つけ出した彼らは言った。「先祖のモーゼが天からパンを降らせたように、私たちにもそのパンをください。」
すると、イエスは「私が命のパンである。私のところに来る者は、飢えることも渇くこともない。」そして言われた。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を保ち、私は彼を終わりの日に蘇らせる。活かすものは神の霊であり、人の肉は役に立たない。私の話した言葉こそ、聖霊であり命である。」


この話を聴いたときから、多くの弟子たちがイエスのもとを離れて去っていった。信じられなかったからである。父なる神は彼らがイエスのもとに来ることをお許しにならなかった。

 

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世界と自分(2)

2006年02月19日 | 宗教・文化

 

世界と自分(2)

『それからイエスは彼らにある例えを話された。言わく。「ある金持ちの畑が豊作だった。そこで彼は自分で考えて言った。「どうしよう。私の穀物を蓄えておくところがない。」そして言った。「こうしよう。自分の蔵を壊してより大きい蔵を建て、そして、そこに私の作物と財産を蓄えておこう。そして自分の魂に言おう。「私の魂よ。おまえは多くの財産を永年にわたって積み上げてきたではないか。これから休みを取って、飲み食いして楽しもう。」
しかし神は彼に言った。「愚か者よ。おまえの命は今夜取り上げられる。そのとき、おまえが用意したものは一体誰の物となるのか。」』
(ルカ伝第十二章第16~20節)

ここでは、金持ちの「自分の命」が彼が長年蓄えた「財産」と比べられている。人がどんなに富や財産を積み上げても、それは自分の命あっての物だねであることが語られている。この金持ちは不幸にも、自分の財産を楽しむ前に命を取り上げられてしまった。

この愚かな金持ちの例えは、イエスが人々に教えを説いているときに、群集の中の一人が、兄弟と遺産を争って、イエスに財産の分配を依頼したときに、イエスが貪欲の警戒すべきこと、人の命が財産によってもどうすることもできないことを教えようとして取り上げられた例えである。

ここでイエスは、神の眼に富むことと自分自身のために富むこととの違いを明らかにして、神の眼に富むこととはどういうことかを説明する。上の章節はそのような文脈で語られた言葉である。

この金持ちは、財産を手に入れたが、自分の命を失ってしまった。マルコ伝の第8章で全世界を手に入れても自分の命を失えば、何の得にもならないと言われたのと同じことが語られている。いかにも青年イエスらしい厳しいことばである。これらの教えはペテロなど選ばれた使徒に向けられたものであったのかもしれない。このキリストの教えと、旧約の伝道の書などに語られている次のような教訓と比べれば、その差異は著しい。


「見よ。良いこと望ましいことは、飲み食いし、そして神が私たちに与えられた生涯の日々に、太陽の下で労苦して得た産物を味わい楽しむことである。それは私たちに与えられた分なのだから。私たちにできるもっとも幸福で良いことは、神が私たちに富や財宝を与えられ、私たちにそれを楽しませになるなら、私たちは感謝して私たちがその労苦によって得たものを楽しむべきだ。それは神からの贈り物だから。」(第5章第18、19節)

「だから、私は楽しむことを薦める。人は太陽の下で飲み食いし、楽しむ以上に善いことはない。それは太陽の下で神が与えられた生涯の日々、骨折りと苦しみに添えられたもの。」(第8章第15節)

こうした旧約の教訓に比べれば、明らかにイエスの教えは深刻である。これが旧約の教えと新約との差異であるのかも知れない。旧約に比べれば、キリストの教えは日々に死を覚悟して生きようとする者たちへの教えのように思われる。神はなぜ人間に「死」と言う絶対的な限界を与えられたのか。なぜ肉体の生命は永遠ではないのか。それは分からない。しかし、この事実は人間に与えられた絶対的な前提である。ここで明らかに要求されている倫理の水準が旧約と新約とでは違うのである。そしてキリスト教では、有限の肉体の生命に代えて、永遠の生命が、「精神の生」が自覚されてくる。

 

 

 

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世界と自分

2006年02月17日 | 宗教・文化

 

世界と自分

「もし、あなたが全世界を手に入れたとしても、自分の命を失えば、それが何の得になるか。人は失った命に何を代えるだろうか。」


(マルコ伝8:36,37 ルカ伝9:25  マタイ伝16:26)

これらの福音書のテキストは、おそらく、同じ原典から採られたのだろう。この言葉が語られた文脈がもっとも明らかになっているのは、マルコ伝かもしれない。

それによると、イエスが弟子たちと一緒にフィリポ・カイサリア近くの村村を巡っているときに、弟子たちにメシアとしてのご自分の身分を確認された後で、やがて来るべき苦しみと死とを避けられないものとして述べられたときに、弟子たちにもその覚悟を問うたときに述べられた言葉である。

ここで対比されているのは、「全世界」と「自分の命」である。そして、全世界をもってしても取り換えることのできないものとして、弟子たち一人一人のそれぞれが持つ命、魂の価値を明らかにしている。それは詩篇四十九篇8節9節でも語られているように、(おそらく、イエスにも詩篇のこうした個所が念頭にあったのだろうが)、神に対しては人間は自分の命はもちろん、兄弟の命も買えない。魂を贖う代金は高く、永久に払いきれない。それほど、私たちにとって命は魂は貴重であるという。

人は全世界をもってしても贖えないこの命を、この魂をどうすれば得ることができ救うことができるのか。
それに対してイエスは言う。自分の命を救おうとするものはそれを失い、福音のためにそれを失うものが、命を得ることができると。この逆説が、イエスの説明だった。この自分を失えば、たとい全世界を手に入れたとしても、それは取り返しのつかないものになるという。

それは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスの後に従うことが自分の命を救うことになるという人間的にはきわめて困難な選択を告げた後に語られた言葉だった。イエスは弟子たちを叱って言った。「あなたたちは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 また、イエスはご自分の生きた時代を、神に背いた罪深い時代と言っている。

このときイエスに付き従っていたペテロたちが、イエスと同じように自分の十字架を背負って、師の後に従ったことを私たちは知っている。ここには、自分の命、自分の魂を得ること、救うことの代価がどういうものかが明らかにされているのではないだろうか。

 

「もし、あなたが全世界を手に入れたとしても、自分の命を失えば、それが何の得になるか。人は失った命に何を代えるだろうか。」

 

 

 

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詩篇第九十二篇註解

2006年01月27日 | 宗教・文化

マスコミの寵児が一夜にして拘置所の住人になる。企業の生存を掛けた競争も、
デジタル家電の競争もますます激しくなるのに、企業の利益はなかなかでない。忙しない世の中ではある。有用無用の情報が飛び交い、マスコミも右往左往する。

こうした時代にあって、いたずらに情報に流されることなく、静かに、自分の城を守って生きてゆくのは容易なことではない。世の浮き沈みにできうる限り翻弄されることもなく、自分のペースを守り、着実に生きてゆきたいと思う。

そんなときも、詩篇の言葉は、心の拠り所になる。それは世と転変を伴にしない。移り気な女の恋心のように、秋の菊の花のように、世間の毀誉褒貶は移ろい色あせる。

今日は日曜日ではないけれども。

詩篇第九十二篇


賛美。安息日の歌。


どんなに良いことか。主に感謝することは。
あなたの御名を、いと高き方を誉めたたえることは。
朝ごとに、あなたの愛を語り、
夜ごとに、あなたの真実を語ることは。
十弦の琴を弾き、竪琴を奏でて、琴の調べにあわせて歌うことは。
主よ、あなたの御わざはまことに私を楽しませる。
あなたの御手の働きを私は喜び歌います。
主よ、あなたの行いは何と大きく、
あなたの考えはどれほど深いことか。
心の鈍い人はそれに気づかず、
愚かな人はそのことを悟らない。

悪人どもがたとえ青草のように芽生え、
不義を行う者のすべてが花を咲かせても、
それは彼らが最後には滅ぼされるためです。
しかし、あなたはいと高き方、永遠に主。
まことに見よ。あなたに敵する者は、主よ
まことに見よ、あなたに敵する者は滅び、
不義を働く者はすべて散らされます。
そして、あなたは私の角を野牛のように高く上げ、
清らかな油を注がれる。


私は見た、私の敵が打ち負かされるのを。
私は聞いた、たくらむ者たちが悲鳴をあげるのを。
正しい人は、ナツメヤシの花のように咲き、
レバノン杉のようにそそり立つ。
主の家に植えられた者たちは、
私たちの神の家の庭に花を咲かせます。
彼らは白髪になってもなお、実を結び、
青々としてみずみずしい。
主は正しく、私を守る岩。その内に不義はない。

詩篇第九十二篇註解

主に感謝することは良いことだと言う。良いことというのは、楽しいこと、価値あること。神は、人間からは遠く高きに住まわれる方。人間の想像を絶する方。
詩人は満たされた安息日(キリスト教徒には日曜日)の朝に、神の働きに感謝し、賛美歌を奏でる。その楽器は、琴であったり、ハープであったり。
主はその御わざ、自然の摂理によって詩人に幸福をもたらした。それに応えて詩人は言う。
「あなたの御手の働きを私は喜び歌います。
主よ、あなたの行いは何と大きく、
あなたの考えはどれほど深いことか。」

詩人は朝ごとに神の愛を黙想し、夜ごとに神の真実を語る。ここでも、詩人にとって、神は、愛と真実の方である。

詩人は自然の営みを単なる自然の営みとしてではなく、その奥に、神の働きを、神の愛と真実を、「人格の存在」を感じている。詩人は科学者ではなく詩人であるから、その神の摂理に対する驚嘆を詩で表現するしかない。
自然の神秘は、宇宙の創造の秘儀は、被造物である人間の想像を絶しており、どれほど偉大で深く神秘であるかは、言葉に表しきれない。ただ心の鈍く愚かな者にはわからないと言う。しかし、その点では、どんな人間も似たり寄ったりである。

自然として現れたこの世界を、すべて解明しきれるものではない。
それでも、今日でも人間は宇宙のただなかに、太平洋の深海に、神の創造の神秘を探求する衝動は抑えがたい。

そして、神の働き、神の摂理はただに自然の中に現れるだけではなく、それは人間に、人間の社会の中にも、現れているという。
人間社会の中での「神の御手の働き」とは、神に背く者は敗れ滅び、従順な者は栄えるということである。悪は滅び、善は栄える。
たとえ、悪人には悩みも病気もなく、この世の栄華を誇るかのように満たされ、健康で平穏であるように見えても、それでも詩人は神の摂理を疑わない。なぜなら、神に背く者の繁栄は、それがどんなに隆盛を極め、永久に続くかのように見えても、結局は、最後には打ち萎れ滅びてしまうという。

それに対し、神に忠実であった詩人は、時が来れば、野牛の角のように強く高く上げられ、悪を為す敵に打ち勝っている。そして、新しく絞られたオリーブ油で、祝福されるという。
そして、神に従う人、正しい人はナツメヤシの花のように咲きほこり、レバノン杉のようにそびえるという。これらは、いずれも中東においては繁栄の象徴である。日本であれば、さしずめ桜の花や、常緑樹である松の木にたとえられるのかもしれない。
そして、神に従い守られる者は、いつまでも若々しくみずみずしい。なぜなら、命の源である神に結ばれているから。詩人はこの真実を、詩に歌う。

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マリアとマルタ(ルカ伝第10章)

2006年01月10日 | 宗教・文化

 

マリアとマルタは女性を代表する二つの性格のタイプとして、古来有名である。それはルカ伝の第十章の記録に由来している。マリアとマルタはラザロの姉妹である。このラザロはイエスによって死から蘇ることが出来た人物として知られている。

イエスがある村に入ったとき、おそらく友人だったラザロの家に宿をとったのだろう。そのとき、イエスを接待するために、姉のマルタは、料理を作ったり、食卓を整えたりして忙しなく働いていた。主イエスのために甲斐甲斐しく働くことが良いことだと信じていたのだろう。あるいは、そのことで皆から誉められることさえ期待していたのかも知れない。
それなのに、妹のマリアは、そんな姉マルタの気遣いなど、どこふく風のようにイエスのおそばに侍って、イエスの話にただ聴き入っていた。

そんなマリアの様子を、マルタは忙しさにかまける中で、いらいらしながら横目で眺めていたが、とうとうこらきれずに、主イエスの御許まで進み寄って、マリアにではなく、イエスに苦情を言う。妹に命じて私を手伝うように仰ってください。

すると主イエスから返ってきた返事は思いがけないものだった。主のために多くの心遣いをしているマルタを誉めるのではなく、逆に、マルタに向かって、あなたは様々なことに気遣いをし過ぎである、本当に必要なことはただ一つだけ、マリアは、それを選んだのだから、彼女からそれを奪ってはいけない、と言った。

明らかにここではイエスにおいて一つの価値の転倒が行われている。もし、このイエスの価値観が、一般的で普遍的なものであれば、なにもわざわざ、ルカ伝に記録されることはなかっただろう。実際にはマルタの態度が、普通であり一般的であったからこそ、人々はイエスの言葉に改めて驚嘆し、記録したのである。

イエスの生涯は、正しく一つの革命だった。その価値の転換という点で、歴史上もっとも革命的なものだった。かっての良きものが悪しきものとされ、大切なものとされてきたものが、どうでも良いものとされる。いわゆる世間的な価値観を転倒してしまったのだから。2000年前にこうして、この世に革命的な原理が入り来たったのである。

何を食べようか、何を着ようか、思い煩うな。ただ、神の国のみを求めよと。生業のための労働は取るに足らないというのだから、イエスの価値観からすれば、イエスがマルタに告げた言葉は当然のことだった。

しかし、このキリスト教の価値観、原理を忠実に実行できたのは、ただ、神の子だけだった。もし、これが忠実に人々によって実行されたとすれば、直ちに神の国が実現されていたはずだから。

 

 

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