アートの周辺 around the art

美術館、展覧会、作品、アーティスト… 私のアンテナに
引っかかるアートにまつわるもろもろを記してまいります。

「月映」つくはえ@東京ステーションギャラリー

2015-11-01 | 展覧会

ロマンチックなタイトルが少し心に引っ掛かりながら、強力な触手が動かないまま、和歌山から愛知へと遠ざかっていた展覧会に、ついに東京で出会うこととなりました。会場は、東京駅開業当時の名残を残すステーションギャラリー、良い雰囲気です。

「月映(つくはえ)」とは、1914年から15年にかけて、東京の美学生であった田中恭吉、藤森静雄、恩地孝四郎の3人の若者が、自らの表現を求めて作り上げた、木版画による詩画集です。展覧会は、3人の出会いの頃の作品にはじまり、「月映」誕生と3人の手による私家版、および出版された公刊Ⅰ~Ⅶを紹介するもので、小さな額に入った作品を中心に約300点が展示されていました。

大正初期、文芸誌「白樺」などがさまざまな西洋美術を紹介するなか、ムンクやカンディンスキーに影響を受けた彼らは、当時主流とはいえなかった「木版画」という手法で、独自の世界観を表現した雑誌を誕生させました。手のひらくらいの図版には、3人それぞれの個性が発揮され、そして若くて瑞々しい詩情あふれる言葉とともに、まさに小さな宇宙を生み出したのです。

木版画の作品って、よく考えたらあまり見たことなかったな…。「月映」以前の彼らの作品には、インクで描かれたものがけっこうあって、その線がとてもシャープだったので、あえて版画の手法を選んだのだと思ったが、木版画はエッチングなどのように、シャープな線があらわれるものではありませんでした。むしろ、滲んだような線で、境目があいまいなようで、そこに暖かみがあるのかもしれない、と思いました。

3人の中でも、とりわけ光を放つ存在は田中恭吉。最初に木版画の魅力に夢中になり、3人の手による雑誌の創刊を推進しながらも、彼は結核を患い、「月映」に命を削るように力を注いで、1915年に亡くなってしまうからです。

田中が恩地宛てに雑誌のタイトルについて提案する手紙が残っているのだが、「月映」にしましょう!というウキウキした感じが、びんびんに伝わって来て、なんだか心打たれます。やはり病気をされたからか、田中の作品は少ないのですが、木版ができなくて言葉のみ寄せた「死と血のうた」とか、グッとくるものがありました。3人のコラボレーションが素晴らしい作品でありながら、この田中恭吉の「消えゆく命の叫び」が込められていることで、いっそう輝きが増しているのだと感じます。

藤森静雄の作品は、木彫りの痕跡をうまく生かした、広がりのある作品が印象的。恩地孝四郎の作品は、3人の中でも一番スタイリッシュで、また抽象表現なども取り入れていて新しいと感じました。恩地は、その後も美術家として活躍し、来年、東京国立近代美術館で20年ぶりの回顧展が開かれるそうです。

2階のレトロなレンガの壁の展示室には、公刊「月映」が中心に展示されていました。雰囲気バッチリ合ってましたよ~!私家版の手刷りの木版画に対し、公刊の木版画には「機械刷り」と表示されていたのですが、木版の機械刷りってどんなのかな?同じ図版で手刷りと並べると、色味もちがっていて、やや平板な感じがしたのですが…。美術館の人に聞きたかったけど、タイミングがつかめなかった…。

それにしても、青春って美しいな~と改めてしみじみした展覧会でした。20代前半の若者ですから、当然、今の私からすると息子と言っていいような年頃なんですけど、そこは大正時代の若者ですから、「先輩」って感じもあって、彼らに対する距離感が難しい!1914年というと第一次世界大戦が始まったりして、世情的には決して明るくないよね。彼らの社会に対する不安とか、逆に彼らに対する世間の評判とか、そういう彼らを取り巻くいろいろも一緒に感じてみたい気がします。

ようやく対面した「月映」の小宇宙には、劇的ではないけれど、じわじわと心をつかまれるような、そんな感動がありました。見に行って良かった!

展覧会は、11月3日(火祝)まで。 

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