荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

「桜井の史跡と伝説」-13/世田山(世田城)

2017年07月30日 | 散文


13.世田山(世田城)
後村上天皇の興国三年四月(1342)新田義貞の弟脇屋義助が四国官軍の総領の大任を帯びて伊予に下向、四月二十三日今治の港に上陸して直ちに国府に入ったが永の心労と疲れのため病気となり、五月十一日悲しくも36才を以って遂に帰らぬ人となった。
脇屋義助死亡のことを知った北朝方の讃岐細川頼春は、その軍兵七千余騎を従えて伊予に侵入し、南朝方の土居三郎左衛門儀昌の守る川之江城を攻めて之を敗りその勢いに乗じて周桑郡の世田城に向かった。


官軍(南朝方)の金谷修理太夫経氏は、兵三百を率いて壬生川に上陸して細川の大軍と千町ヶ原で戦った。
家来達は次々に討死し、わずか十七騎となりましたが、みな一騎当千の武士で金谷経氏、河野備前守通郷、得能弾正日吉、大蔵左衛門、杉原与一、宮田六郎、高市与三衛門、土居備中守浅海六郎等は、ここを先途と戦ったが、敗退して引揚げた。

これを千町ヶ原の戦いという。

この戦いに勝った細川軍は8月24日、大舘氏明の守る世田城に攻め入ったのであります。大舘氏明はもともと新田氏の一族で、伊予の国司四条有資と共に伊予の守護として来任したのでありました。
細川頼春は手兵を七手に分けて世田城の峰に攻め登り四方より激しく攻めたてた。9月3日の暁、大舘左馬之助主従十七騎一の木戸口へ打出て、堀に著たる敵五百余人を、遥か麓へ追下し、一度に腹を切り枕を並べて討死した。


これをみた兵士達も敵と刺し違えたり、砦に火をかけて、火の中に入って死ぬるものもあり、目もあてられぬ惨状であったといいます。

この九月三日は千町ヶ原合戦で世田城落城は十月十九日であることは、敵方小早川氏平の軍忠状によって明らかです。



<筆者>
随分な思い入れの余り、後半、世田城の戦いと千町ヶ原の戦いが混同した文章になって、最後にその事に気づいて追記訂正しています。
文章全体を訂正していないのは、作成を急ぐ余りの事でしょうか?

作者は太平記に残るこの戦いを書き残しておきたかったのでしょうが、上記冒頭の「国府」以外は桜井地区ではありません。
以下度々登場させている世田山に関する話も当然桜井以外の土地の出来事です。
よっぽど「世田山」に思い入れがあったものと推察します。


よろしければ下の紹介記事をゆっくり読んでください。
当分次の投稿はありません。

故郷は「世田山の戦い」の地ー1

故郷は「世田山の戦い」の地ー2

故郷は「世田山の戦い」の地ー3


故郷は「世田山の戦い」の地ー最終回

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柳橋の風情/2017年7月

2017年07月30日 | 散文
柳橋は神田川に架かっています。
その橋の袂には船宿があります。


小松屋です。


東京にあってこの風情が好きです。




神田川の上流側です。


ここ柳橋は料亭で栄えた街です。
橋の欄干には柳橋芸者のかんざしがデザインされています。




神田川の下流です。
この橋を過ぎると隅田川に合流して神田川が終わります。


橋の反対側にも「小松屋」があります。


つまり、柳橋の両岸に「小松屋」があるのです。




こちらは佃煮屋です。


佃煮屋を正面から見ます。
橋名の柳が今、夏景色です。






街は飲食店が多くあります。


橋の欄干に残るかんざしが示すように、ここは昔の花街です。
街に少しだけその名残りがあります。


黒板塀の料亭です。




江戸の気風が真夏日に佇んでいます。


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